第42話 夢か現か
森縦断は友好的な蔓に先導されて、特に迷子になることもなく、むしろ順調に進んだ。
更に、そっと後ろから肩を叩いてくる蔓から、瑞々しい果物の差し入れがあったりもして。
「――ん。コレ、美味し」
片手に余るほどの大きさの真っ赤な果実を一口齧ると、ぷつと皮が切れて果汁が弾けた。
その豊かな甘みに、リコリスは思わず口元を押さえた。これは美味しい。
肩越しに振り返れば、相棒も同じようにもらった果物を齧っている。
視線が合えば、果実の甘みも手伝って自然に、揃って表情を綻ばせる……と、そこでふとライカリスが眉を上げた。
「リコさん、零れてますよ」
「あれ」
笑い声と共に手が伸ばされ、指先がリコリスの口の端を軽く拭っていく。
「……ごめん」
まるで小さな子どものようだ。
気恥ずかしさに小さくなった謝罪に、ライカリスは指先を一舐めして軽く笑った。
「いいえ? ――ほら、気をつけないと、手もベタベタになりますよ」
「あ、っとと」
リコリスは慌てて果実に意識を戻した。
それが初日の午後のことだった。
それから、本来なら森と森の境目である川を越えて、更にその先へと広がる蔓の森が薄暗さを増した夕刻。
周囲を見回しながら、ライカリスがぽつりと呟いた。
「これは……しばらく来ないうちにまた随分広がってますね」
「え、この子まだ育ってるの?」
現在進行形で増えているのか、この蔓の森は。
しかも現状を知っていたはずのライカリスが、しみじみと感心したように呟くほどに。
「ええ、確実に増えてます。以前はそろそろ森の終わりだったはずなので……」
「……へぇ。今どこまでいってるんだろうねぇ」
このような会話があったのが……、
――6日ほど前。
「……ホント広いなぁ」
「……そうですね」
日が暮れても元気な蔓が頭上から退いて、わざわざ見せてくれた空に星が出始めた頃、リコリスたちは静かに7回目の野宿の準備を始めた。
もう、特に驚きはない。
最初の野宿の時点で、先行してヴィフの町付近にいる妖精に連絡を取り、この森が町のすぐ手前まで成長していることを確認したからだ。
野宿は基本的に川の近くに案内され、食料の心配もなく、外敵の危険もない。
そんなわけで既にこの森での野宿にも慣れたもの。その日の夕食も手際よく終わり、食後は蔓の動きも緩慢になってのんびりとした空気が流れる。
蔓に凭れているライカリスの足の間に座ったリコリスは、髪を梳かれながら目を閉じていた。
(…………あ、ダメだ。寝る。このままだと寝てしまう)
最初こそ牧場や町の妖精からの報告を受けていたものの、それも平和に問題なく終了してしまった。
それで後は心地よい相棒の手になされるがまま、となれば眠くなるのも道理である。
ふにゃふにゃと首の据わらなくなってきたリコリスに、ライカリスが笑う。
「寝てもいいですよ?」
「んー、でも」
「起きていてもすることもないですし。……それに、リコさん結構疲れてるんですよ。自分では気づいてないみたいですけど」
指摘されて、そうかもしれないと思う。
邪魔こそないものの、ご機嫌な蔓の案内に任せて進むしかないこの旅。
快適な旅にしようとしてくれているのか、とにかく全く悪気のない蔓と、意思の疎通を図る術は実はない。かといって脅して退かせる訳にもいかず。
故に、当初の予定よりもかなり進行が遅れている。
その間休憩はしつつもほとんどを馬上で過ごしているから、運ばれているだけとはいえかなり消耗しているのかも。
このあたり、レベルが運動神経に影響しないのが本当に恨めしい。
「……もう眠って」
ぐずぐずとしていると、心配そうに潜められた声が耳元に告げる。
肩を引かれ、うっかり抵抗もなく背を預ければ、それでいよいよ力が抜けて。どうにかこうにか「おやすみ」と口に乗せ、同じ言葉を返されたことだけは記憶に残った。
そんな7回目の野宿の夜のこと……リコリスはまた夢を見た。
いつかの、あの『始まり』の夢のように、おぼろげで鮮明な感覚。
夢だと理解しているリコリスの意識が、夢の中の『私』の視線で流れていく。
『私』は今、ひとり森の中を歩いている。
明るく綺麗な森だ。スィエルの町を囲む、豊かな実りの森。生い茂る葉に日の光が透けて、不思議なほどに輝いて見える。
もう何度も散歩しているが、それでも飽きることがないと、『私』は歩くたびに感動を覚えていた。当たり前のように存在している、特別な場所。
毎日少しずつルートを変え、新しい何かを発見しては喜びを見出して。
仲間たちは皆早々に町を出ていってしまったが、彼女は未だにこの場に留まっている。
優しい人々がそれでいいと言ってくれる、その言葉に甘えているのだ。
そしてその日、『私』が散歩に選んだのは、町の南西の森だった。
この森を進めば、小さな家が見えてくることを、リコリスは知っている。
けれど『私』は何も知らずに、森を進む。木の実やキノコを拾い集めながら。
やがてその森が僅かに途切れ、その隙間に木造りの家の壁が見えてきた。
その存在を知らなかった『私』は首を傾げながらその家に近づく。
いざ目の前にしてみれば、何とも質素な造りの家というべきか、小屋というべきか。
しかし確かに人の住んでいる気配があって、庭ともいえないような狭い土地に立った彼女は、思わずまじまじとその家を眺めてしまった。
――と、
「……何か用ですか」
ぎょっとして振り返ると、木の陰にひどく不機嫌な顔をした背の高い男が立っていた。
飛び切り綺麗なはずの顔は、その機嫌の悪さのせいで見る者を怖気づかせる。
暗めの赤い髪の下の暗褐色の瞳は、恐ろしく煩わしげに……むしろ嫌悪すら浮かべていた。
歓迎されていない、などと生易しい。
その瞳に冷たく一瞥された瞬間、『私』が感じた以上の恐怖が、リコリスの体を走り抜け――……、
「――っ!」
リコリスは勢いよく上半身を跳ね上げた。
かかっていた薄いタオルケットを、無意識に握り締め、強張った体をほぐすこともなく、視線だけを周囲に彷徨わせる。
困惑を色濃く乗せた視線が薄暗い周囲をうろうろとした後、彼女はぎぎぎと音がしそうなぎこちない動きで後ろを振り返った。
恐る恐る、しかしそこに蔓に背を預けて目を閉じている人物を見て、ようやく肩の力を抜く。
「はー……」
吐息を漏らし、リコリスが汗で額に貼りつく前髪を掻き上げた時、その肩にするりと腕が巻きついた。
「どうしました……?」
声だけはぼんやりと眠りの余韻を残しつつも、リコリスを捕らえる腕は揺るぎない。
胸元に引き寄せられた彼女を、覚醒済みの瞳が覗き込んだ。
夢の中で見た『彼』と同じ色の瞳には、不機嫌さも、嫌悪の色もない。一瞬で夢を退けるほど冷たく凍るようだった視線は、……ああ、やはり夢だったのだ。
心配そうな視線に、リコリスは心から安堵のため息をついた。
「――ごめん。起こした」
よくよく思い返してみれば、リコリスは昨晩、ライカリスの足の間に座り、彼に凭れかかってそのまま眠ってしまった。
それがいきなり飛び起きたものだから、ライカリスが目を覚ましたのも容易に想像できる。
しかし謝罪を口にすれば、相棒は緩く首を振った。
「いえ、それは構いませんが……大丈夫ですか?」
頬を撫でる手が気持ちよく、心を落ち着けてくれる。
しっとりとした前髪を払われ、気遣わしげに顔を覗き込まれて、リコリスは軽く頷いた。
「うん、大丈夫。ちょっと夢見が」
「夢?」
「うん。その……ライカと初めて会った時の夢をね」
夢の中の『私』の目線はリアルで、その分だけ、あの嫌悪の眼差しが突き刺さった。画面越しのゲームとは、あまりにも破壊力が違う。
怖かった。本当に、本当に怖かったのだ。
ライカリスも初対面の時の自身の反応に覚えがあるのだろう。口元が引き攣って、気まずそうに目が泳ぐ。
「……すみません」
「あ、いや。別にライカは悪くないし。ちょっと、ほら、今との差にびっくりして目が覚めただけだから」
言ってしまえばそれだけのことなのだが。
しかし慌てて振った手はやんわりと握り込まれた。
「……」
微かに震えるリコリスの手を宥めるように握るのとは反対の手が、優しく髪を撫でていく。謝罪、反省、慰め、気遣いと、そこに色々なものを含んで。
そのままライカリスの胸元に頭を押し付けていると、ゆるゆると緊張が解けていく。
もう一度大きく吐息を零した時、ライカリスがそっとリコリスの耳元で囁いた。
「明るくなったら出発しましょう。起こしますから、それまでは寝ていてください」
「うん……」
そう返事をして、リコリスは素直に目を閉じた。
だが、どうにも再度睡魔を捕まえるのは難しく、何より。
(また夢を見たらどうしよう……)
それも、先ほどの夢の続きは、正直見たくない。
あの後の展開をリコリスは知っている。ゲームの中の出来事としても、――そして恐らくこの世界で実際にあった出会いとしても。
他のプレイヤーが遭遇したものと同じはずの、ライカリスとの出会いのイベント。
それをそのまま現実にしながら、しかしリコリスだけの経験であるかのように補足が加えられ、一層現実味を増した夢の記憶は、見事にばっさりと中断された。
にもかかわらず、その直後のことをリコリスは覚えている。思い出せる。
だからこそ、意味が分からない。
(……ああ、もう。すっごい変な感じ)
この世界に来てからことあるごとに感じる、違和感。
追いかければ追いかけるほどに思考の渦に突き落とされるのが、いい加減分かっているから怖気づいてしまう。けれど、求める答えがその先にあるのも、もう何となく理解できていた。
それでも、何かを怖いと思ってしまう。
(――ライカ)
「……」
不安のあまり縋るように相棒の名を口にしかけ、結局唇を噛んでそれを留めた。
代わりに彼の服の裾を握ると、凭れかかっている温もりが微かに揺れたが、頭を撫でる手は止まらなかった。
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結局、夜明け前の出来事にはどちらも触れないまま。
随分と日が高くなってから動き出したリコリスたちだったが、その日の午後、日が落ちる前に蔓の森に別れを告げることになった。
名残惜しげな蔓と何度も握手を交わし――歩みを再開すれば、目的地はすぐ目の前だった。




