第34話 唇に乗せる真実
限界まで見開かれた目が、しばらくして瞬きを数回。その随分ゆっくりな瞬きを繰り返す間に、その瞳に様々な感情がよぎるのが見えた。
「……」
震える唇が開いては閉じて、言葉にならないと悟ったのか、やがてそれもなくなり。
常の勢いなどどこへ忘れたのか、カリステモンは俯いて、片手で顔を覆った。
やがて、その白銀の花に恐る恐る伸ばされた手は、やはり触れることは叶わず。それでもその透ける指先が大輪の花を包むように沿わされて――カリステモンはくしゃりと顔を歪めた。
「――ありがとう」
零れた声は、消え入りそうだった。
「これで……これでやっと、彼女のところに戻れる……」
幽霊は泣けないのだろうか。こんなにも、泣きそうな顔をして。涙がないのが不自然なほどの表情なのに。
何にせよ、直視するのが辛い。伝えられないでいる事実を思えば尚のこと。もちろん悪意があって教えなかったのではない。言えなかっただけなのだが、それでも気は重い。
ため息を押し殺して、リコリスはカリステモンを見つめた。
「渡す時まで、預かっておくね」
「……うん。よろしく頼むよ」
雪の華を掲げていた手を下ろして、その花を再び蝙蝠の中に収めると、リコリスはコートの一番上のボタンに手をかけた。そのままボタンを外しながら、彼女は後ろを振り返る。
それまで黙って控えていたライカリスの顔を見て、それからまたカリステモンに視線を戻す。
「悪いけど、これからちょっと仮眠」
言いながら、リコリスはコートを脱いで、マフラーとまとめて蝙蝠の中に放り込む。それから下に着ていた蜘蛛の巣柄のレースとフリルたっぷりの、黒いブラウスの第一ボタンを外した。
そんな彼女を見て、青白い幽霊は困ったような顔をする。
「……仮眠と言わず、しっかり休んだ方がいいんじゃないかな? 今のレディは何ていうか……いや、もちろん変わらず美しいのだけどね。でも、白い肌は透き通るようだし、そのちょっと幼い感じのお顔に不釣合いなほど退廃的な色香が……」
「はい、要約」
「――僕みたいな顔色しているよ?」
「……」
分かりやすい。とても分かりやすいが、嫌な例えだ。
確かにここ5日はまともに寝ていないし、ずっと雪の降るような気温の中で集中していたのだから、ひどい顔色なのだろうけれども。
疲労の上に、更に精神まで削られて、リコリスはげんなりと肩を落とす。
(心配……してくれてるんだろうけど、言い回しが……)
どうにも慣れない。
やれやれと首を振って、リコリスはライカリスを振り返った。
「本当は行きたいところがあるんだけど……ライカ次第で明日に」
今回も無理をさせてしまったから。
星河祭が明日からなので、時間がないとはいえ、できれば休ませたい。
「私ですか?」
見上げた先で、ライカリスは少し首を傾げ、それから眉を顰めた。おもむろにリコリスの顔に両手を伸ばして、彼女の頬を包むと、ため息をつく。
「ライカ?」
「……ああ。本当に、さっきより顔色が悪くなってますね」
「……そう?」
クマでもできているのだろうか。頬を包んだ手が動いて、指先が目の下を撫でていく。
擽ったいと身を捩れば、手はリコリスの顔から離れ、代わりに首の後ろに回されて、ゆっくりと引き寄せられた。
抵抗もせずライカリスの胸元に顔を預けると、耳元にそっと囁かれる。
「明日でも、間に合いますか?」
この後の行き先と予定は事前に話してあるから、その確認だろう。
星河祭の始まりは、明日、日が暮れてからだから……少し考えて、リコリスは頷いた。
「間に合わせる、よ」
……それにしても、こうしているとどんどん体から力が抜けていく。
安心と疲労とが気力を思考を溶かして、いつの間にかリコリスは目の前の温もりに縋るように凭れかかっていた。
視界の端に、不安そうなペオニアとウィロウが見えて、その視線が心配だと伝えている。ところでファーはどうして机に突っ伏しているのだろうか。
いよいよ頭が思考を放棄し始めてしまったのか、考えるのが面倒だ。
休んでほしいと思っていたライカリスに全力で凭れかかるという情けない状況だが、肩と腰に回った腕は危なげなくリコリスの体を支えてくれる。
「では、今日は休みましょう。ウィロウさん」
「あ、はい」
「町長に伝言をお願いします。――明日の朝……そうですね、9時頃伺いますと」
「では、わたくしたちも今日はなるべく外におりますわ。用がある時は、申し訳ないですけれど……」
「じゃあ僕も、今日は外にいるよ! 夏の女神と、星の女神たちを愛でているからね!」
ぼんやりと遠くに聞こえる会話は、理解が追いつく前に先に先に進んでいく。特に一番最後の台詞が意味が分からない。かろうじて、誰が喋っているのか判断はつくのだが。
それから誰かが家から出ていく気配がして、それで更に本格的に意識を手放しかけた時、体が揺れた。
脱力感は変わらないまま意識だけが戻ってきて、リコリスはライカリスに抱き上げられたことに気づく。
(……ヤバ。今ちょっと寝てた)
「すみません。でも、ベッドに行かないと」
「ううん、ごめん……」
額に手を当て、リコリスは呻くように謝罪した。
その直後にそっとベッドに下ろされて、リコリスはどうにか体を横に転がす。
2つぴったりと並んでいるベッドは、壁際がリコリスのものだ。ライカリスのベッドから自分のスペースに移動し、リコリスはうつ伏せになって少し顔を上げた。
コートを脱いで、シャツの首元を寛げていたライカリスと視線が合うと、彼女は手招きをする。
「どうかしましたか?」
「……ごめん。ライカも疲れてるのに」
すぐ近くになった顔をぼんやりと見つめて、もう一度改めて謝罪を。今にも閉じそうな瞼を叱咤して口を開けば、ライカリスが苦笑する。
宥めるように大きな手が背を撫でて、柔らかく抱き寄せられると、リコリスは頭の下に差し入れられた腕に頬を預けた。
「大丈夫ですよ。私はリコさんがいれば元気なんで」
(…………いや、それもどうかと)
つっこむ元気もないので黙ったまま目を閉じる。髪を梳かれるのが、気持ちがいい。
ゆるゆると意識を沈めながら、「本当なんですよ」などと言う声を聞いたのが、その日の最後の記憶になった。
ちなみに目覚めたのは次の日の朝……7時。
14時間以上熟睡してしまった上に、朝の作業までライカリスたちに任せてしまったという事実に愕然としたリコリスが、自己嫌悪に身悶えたのは余談である。
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「そんなに気にしないでくださいよ。疲れていたんでしょう。仕方ないです」
「そうだよ。僕のお願いのために無理をしてくれたのだから、責められるべきは僕だよねっ! どうかその美しい心を痛めないで、優しいレディ」
両脇を固めたライカリスとカリステモンが口々に告げる。その気遣いで、リコリスは更に申し訳ない気分になった。捻くれ者だ。
眩しい日差しの中、石畳の上をリコリスたちは歩いていた。……1人は浮いているが。
もうすぐ9時を迎えるスィエルの町は、順調に温度を増している。
色とりどりの夏の花が飾られた木造住宅をいくつも通り過ぎ、町の中央部まで来ても誰ひとりとして声をかけてこないのは、やはりこの幽霊のせいだろうか。
子どもたちが怯えているのは何度か見かけたが、それ以外では――、
(あ、また)
一定以上の年齢の住人が、リコリスたちに近寄ろうとする若い者たちを止めているのが見えた。彼らはカリステモンを指差し、周囲に何かを告げ、リコリスに視線を送ってくる。
カリステモンを憶えているのだろう。死んだときのまま、色と透明度以外姿が変わっていないから、なおさら。
その目に映るのは恐怖でも不安でもなく、懐かしさと、――そして哀しみだ。
言動は鬱陶しくとも、裏表なく優しいこの男を本気で嫌える者など、この町の人間ではいなかったのだ。カリステモン本人をを含めて、優しく、少々おせっかいでお人よしの集まる町だから。
リコリスは彼らにそっと頷きを返し、その度に哀しく伏せられる顔を遠目に見た。
「いやぁ、それにしてもレディの牧場がスィエルの町の牧場だなんて思わなかったよ」
リコリスの心情とは正反対に明るい声で、カリステモンがきょろきょろと周囲を見回す。
「あぁ、やっぱりいい町だよねぇ、地理は忘れちゃってるけど。こう、空気がいいんだよね。優しい感じがして、春風に撫でられる一面の花畑みたいな?」
いや、分からないから。
リコリスは眉間を押さえ、しかし考えても無駄だと、気を取り直して顔を上げて、町長の家までの距離を考える。
そして「僕のこと、憶えてくれているかなぁ」と言っている幽霊を見上げた。
「皆には後で会えるから。――それよりも、訊いていい?」
「うん? 僕に興味を持ってくれたのかい? うふふ、嬉しいなぁ。どうぞ、何なりと、レディ」
気障にポーズを決めるカリステモンから、リコリスは視線を逸らさなかった。
「本当は、何て言ったの?」
「え?」
「カリスの好きな人。雪の華が見たいって、本当にそう言った?」
唐突かもしれないが、訊いておきたかった。
タイミングを掴みかねて、もうすぐ真実を突きつけることになるこの時になってしまったけれども。
目を丸くしたカリステモンが、一瞬沈黙し、彼らしくない乾いた笑い声を零した。
「……鋭いね、レディ」
声のトーンを落とし、幽霊は空を仰ぐ。
「――本当は、信じられないって言われたんだよ」
それから自身の体を見下ろして、悲しげにため息をつく。眩い日差しにも、半透明の体は影を作らない。
それでもはっきりと暗く翳った瞳で、カリステモンは過去を語る。懐かしさよりも、強い悔恨を感じる声で。
「雪の華なんて見たことのないものに譬えられても、分からない。そんなことばかり軽々しく口にする、僕は信じられないって」
――ひどいことを言ってしまったわ。……些細なことで不安になって。
「僕としては、心から真実を告げているつもりだったけれど、彼女にはそれが不安だったみたいで。愛する人を不安にさせるなんて、男として最低だ」
――彼が、本気で言ってくれているのは、分かっていたはずなのに。
――愛していると何度もくれたその言葉を、信じることができなかった……。
――大切だったのに。愛していたのに……あぁ、どうして……っ。
「だから僕は言ったんだ。それなら、雪の華を採ってきて君に捧げよう。君がとても美しいということを、僕の言葉を、証明するために! って。それで……」
――彼を傷つけて……殺してしまったっ! 私がっ。
――ごめんなさい、カリス……ごめんなさい……。
いつか画面越しに見たシーンが蘇った。
その胸を締め付けるような老女の叫びは、どうしてだか、声まで頭の中に再生される。
――どうして? アクティブファームでは、NPCに声はついていなかったはずなのに。感情移入による思い込みだろうか。
彼女の記憶は、悲しくて悲しくて。それがあってもおかしくないというほどに、リコリスは泣いたから。
しかし、その疑問は、ふわりと宙に浮いたカリステモンが顔を覗き込んできて、霧散する。
「そういえば言っていなかったね。彼女の名前は――」
その、あえて訊いていなかった名。
それがカリステモンの唇に乗る前に、リコリスは口を開いた。
「――ユーフォルビア・リッカー」
「えっ?」
またしても目を丸くする幽霊から、今度は目を逸らして。
唇を噛めば、片手に触れる温もりがある。それはするりと指を絡めてきて、見上げれば、ライカリスが困った顔をしていた。
「……泣きそうな顔をしていますよ」
「……だろうね」
言い訳はできない。その通りだから。
意味が分からないらしく、混乱している幽霊はひとまず置いておいて、リコリスは足早に目の前の家を目指した。
白い壁に赤い屋根が特徴の、その家の前まで来て庭の中ほどに立つと、リコリスは声を上げる。
「町長! リコリスです。サマン町長!」
「サマン……?」
後ろについてきていたカリステモンが不思議そうに呟いて、それからいくらもしないうちに扉が内側から押し開けられた。
のんびりと顔を覗かせたのは、呼びかけた相手。
「やぁ、おはよう、リコリス。待っていたよ」
チャームポイントの白いヒゲを撫でながら、普段通りの柔和な笑みでサマンが外に出てくる。そして、リコリスの背後に気がついて、顔を強張らせた。
いつもにこにこして動じない町長が、愕然とした表情で、絶句している。何度か唇が無意味に動いて、それからやっと声が絞り出された。
「カリス、義兄さん……」
呼ばれた瞬間、ぱぁっと幽霊の顔が輝いた。サマンの目の前に勢いよく飛びついて、抱きつかんばかりの笑顔で、若干引き気味のサマンをしげしげと観察する。
「サマン! ユーフィの弟の、あのサマンかい?! わあぁ、身長以外は立派になったんだねぇ! 懐かしいよ、そのユーフィの次に綺麗な銀髪!」
「……身長以外は余計です、義兄さん」
さらりと飛び出した余計な一言に一瞬顔を引き攣らせたサマンは、静かに、しかしきっぱりと言い添えてから、リコリスを見た。
「リコリス」
「はい。先日、星飴の材料を採りに行った時に拾ってきました」
簡潔に説明し、手に握っていた御霊石を差し出す。
白く輝くその石の光を見、目の前の幽霊を見てから、サマンは瞑目した。何かに耐えるように眉を寄せ、肩を微かに震わせて。
「どうしたんだい? 具合でも悪い? 大丈夫かい、サマン」
心配そうに顔を覗き込む幽霊の前で、サマンが目元に手を当てる。片手で表情を隠し、それから零れた吐息は長く長く。そうして再び上げられた顔は、微かに目元が赤かった。
それでも、サマンはカリステモンを見上げ、微笑んでみせる。
「大丈夫ですよ。――お帰りなさい、カリス義兄さん」
「あ、あぁ……ただいま! 嬉しいなぁ、こんな姿でも、そう言ってくれるんだね」
そんなやり取りを後ろで見つめながら、リコリスは待つ。カリステモンが心から望む人物の、永遠の不在を告げるその時を。
じりじりと胸に迫る苦しさに、ライカリスと繋いだ手にも自然と力が入った。
「……それでね、サマン。ユーフィは……」
当然の流れで出てきたその名に、サマンの体が強張った。
だが、カリステモンは気づかず、指を組み替え組み換え、おずおずと続ける。
「とっても長い時間待たせてしまったけど、僕のことを許してくれるかなぁ。顔も見たくないとか、言われたらどうしよう? 花を咲かせるのにはレディの手を借りたけど、でも僕、雪の華は採ってきたよ。ねぇ、サマン。レディも、彼女に事情を説明するの、手伝ってくれるかい?」
リコリスとサマンの視線が交差する。カリステモンの真摯な言葉が、苦しくて、苦しくて。言葉にできない感情が、2人の瞳に揺らいだ。
真実を伝えるなら、カリステモンをよく知っているだろうサマンと、そして彼女の最期を看取った自分とが、揃った時がいいだろうと考えて。それで覚悟して迎えたこの時は、やはり辛い。
――でも、言わなくては。
リコリスは目を伏せ、息を吸い込んだ。
告げる言葉は、はっきりと。
「……カリステモン。――ごめん。ユーフィ婆様は」
「え?」
「カリス義兄さん。姉さんは、もう3年前に……」
表情をどこかに落としてしまったカリステモンの唇が、動く。「まって」と。しかし、それは音にならないまま。
「――亡くなったんです」
静かに続いた言葉が、時間を凍りつかせた。




