a happy marriage
二人の思い出の場所。
そこは、真希にとっては地面に掘って埋めてしまいたい、と思っていた思い出の場所だった。
その庭は絶妙な塩梅で樹木や池が配され、街中には珍しいほどに広大な敷地には浅い川が流れており、柔らかな日差しとせせらぎでそこに訪れる者を安らぎへと導いてくれる。
つい最近もテレビや雑誌で目にした程の有名老舗旅館である。
思い返せば一年前の今日、この場所でマサキと真希は見合いをした。
見覚えのある机に頬杖をつき、あの時と同じように庭に視線を移す。
毎月の様に母がごっそりと持ち帰ってくる見合い話に、真希は正直うんざりしていた。
毎週のように連れて行かれる場に辟易して、できるものならば引きこもっていたかったが、健康な一社会人としてそうはいかない。真希の心には目に見えないストレスが溜まり、それが、自身の部屋の魔窟化へと促した。
元々掃除は苦手で、周囲に引け目を感じていたが、毎日溜まる魔窟の造成物たちがそれを更に増長させた。
碌に家事もできないのに、家庭を治める妻になれるものか。
真希のそんな考えは母には届くことなく、見合いという底なし地獄が続く。
厳しいサービス業で鍛えたはずの営業スマイルもボロボロになってきていた。
そんな時、真希の母が、最後でいいからと持ってきたのが、マサキとの見合い話だった。
最初から終わらせる予定で臨んだ見合の席。
営業スマイルを続けるのが面倒になって、この話をぶち壊すために、相手の顔を見ずに庭ばかりを視界に収めていた。
見合い相手であるマサキは、真希がそんな考えの元に臨んでいるとは知らずに必死に話しかけ続け、怒った彼女が艶々と黒光りする机を持ち上げて、ちゃぶ台返しならぬちゃぶ台運びをしてしまった思い出の場所だ。
「真希さん、庭に行きませんか?」
一年前と同じ言葉を、今は夫となったマサキが囁いた。
あの時も庭に行きたいと言っていた。
真希は、つ、とマサキを見ながら首を傾げる。
「前もしきりに庭に行きたがっていたけれど、庭に何かあるんですか……?」
探るような視線を送る妻を見ながらマサキはうっすら微笑んで首肯すると、彼女を促すように手を伸ばした。
「ジンクスがあるんです。……だから、真希さんと一緒に行きたい」
「……ジンクス?」
「そう。この部屋を押さえた者があやかれる縁起担ぎです」
「…………神社でも有るんですか?」
「それに近いものです。――――さ、行きましょうか」
一年前とは違って、真希はマサキの手に己の指を乗せた。
二人は手を繋いで庭に足先を向ける。縁側には散策用の草履が用意されており、それを履いて真希はマサキの隣を歩いた。
進む道が等間隔の飛び石で作られ、庭の奥へと誘う。
玉砂利を踏みしめながらグネグネと曲がり小径を進むと、やがて池と小川のつなぎ目を跨ぐ朱塗りの小さな橋に辿り着く。
人が二人程通れればいい程の小さい橋だ。
「……ここですよ。俺が真希さんと来たかった場所」
橋の上で、マサキが真希に向き直って頬を緩めた。
「この橋は『縁繋ぎの橋』という名前が付いているんです。この場所で愛を誓うと、一生縁が繋がるらしいんです。だから、俺もそれにあやかろうと思って」
「……もしかしてマサキさんって、神様を信じる方ですか?」
「――――信じて無い……とも言い切れないし、信じるともいえる程に信仰心は有りません! ……って、ああ、真希さん! 雰囲気をぶち壊さないでくださいっ」
「…………はい。ごめんなさい」
マサキは若干目元を赤くして咳払いを一つすると、おもむろに真希を抱き寄せた。
真希の耳朶に唇を近づけて、そっと囁く。
「俺の幸せは、真希さんが傍に居てくれる事です。真希さんの幸せも、俺と同じようになるように努力するので、これからも傍に居てください」
耳朶を掠めたマサキの言葉に、真希は微笑みながら目を閉じて頭を横に振った。
まさか否定されると思わなかったマサキは、ぎょっとした風に胸元を覗き見る。真希は、ふふっと小さく笑うと、些か真剣な面持ちでマサキに告げる。
「…………努力なんて必要ない。もう、同じだから。私の幸せは、マサキさんが傍に居てくれる事だよ」
言葉に次いで真希の腕がマサキの首に伸び、彼の長身をぐいっと引き寄せた。
息がかかりそうな程に互いの顔が近づくと、真希は再び目を閉じてマサキの唇にキスを一つ落とす。
「真希さん……」
「あ、努力してくれるのなら、他人行儀な話し方を何とかして欲しいかなぁ、とは思います! ……だって、わたしだけ疎外されているような気分になるんだもの」
「それは……慣れが――――」
少し慌てた様子のマサキ胸に顔をうずめ、その広い背に腕を回して真希は更に口を開く。
「篠田さんや後輩陣と話してる時のマサキさんって、わたしと話す時と違ってなんだかくだけてて楽しそうだし……」
「年季が違うと言うか――――」
「それだけじゃなくて、篠田さんには何でも話してる風だし……。今回の記念日だってわたしには内緒だったし、バイトの事だって……! わたしがマサキさんの奥さんなのに」
少し拗ねたような口ぶりになった真希の言葉を遮るようにマサキは告げながら、彼女の肩を持ち、己の身からばりりと引きはがした。
「――――それはっ! 篠田の親友が此処の旅館の関係者だからだし、家計に負担をかけないようにあの部屋を押さえるにはバイトするのが手っ取り早いし、篠田が何でも知ってるのは、今年の四月からあいつの母親が、あの大学の人事権を持っているからです!」
「…………はぃ?」
「あの大学の母体団体は、篠田の父方の親族が経営しているんです。要するに、篠田が母親……俺のおばに頼んでバイトの斡旋をしてくれたり、友人の伝手を使ってあの部屋を押さえるのを手伝ってくれたんです」
マサキの言葉を聞き、くらりと目眩を覚えると同時に、顔に熱が集まる独特の感覚が真希を襲った。
自分の顔色を悟られないように瞬時にマサキの胸に顔をうずめ直し、きつく抱きしめる。
(さっき、わたしってなんて言った? あれじゃあ、まるで――――)
慌てる真希を宥めるかの様に、マサキの長い指が優しく髪を梳いた。そして、真希の考えを読んだような、些か笑いを含んだ声が彼女の頭上に落ちる。
「……篠田に嫉妬したんですね」
「――――――っ!!」
びくっと揺れた真希の肩で正解だと悟ったマサキは、くくっと喉を鳴らすと、張り付くように抱きついている真希を緩く抱きしめ返して嬉しそうに目を細めた。
「大丈夫ですよ。俺は、真希さんにしか反応しないから」
「なん――――っ!」
真っ赤な顔色になりながら、パッとマサキを見上げた真希の唇をマサキが掠めた。
そのまま耳朶に唇を這わせて囁く。
「……俺の想いはどうやらあまり伝わっていなかったようですし、これから思い知らせてあげますよ。今日は泊りだから時間はたっぷりあるし――――」
「な、な、なんかマサキさんがいつもと違うっ! 卑猥!!」
「卑猥なのは、きっと我慢を重ね続けた男の性です。さっきの真希さんの言葉で、自分の中のリミッターが壊れましたから」
マサキは笑いながら身を離すと、あの思い出の部屋へと真希の手を引いて誘った。
――――その夜、温泉に浸かって身を清めた真希がマサキの腕の中で翻弄されたのはいうまでも無い。
耳朶を這う熱い唇や、浴衣の袷を開く長くて繊細な指。帯を解く音さえも真希の羞恥を煽り、真希の胸の中心がばくばくと太鼓を叩いた。
恥ずかしくて顔を背ければそれを制され、自分を見ろとばかりに顎を掴まれる。
やわやわと脚を撫でる手の平は一時の快楽を誘い、声を我慢するために当てた口元の手はマサキの長い指に絡め取られ、身体を這う舌と想いを交わす深い口づけや漏れ聞こえるマサキの掠れた声が真希の理性を崩壊させた。
翌朝、肌寒さを感じた真希は、身体のだるさに昨夜の情事を思い出し、頭を抱えて悶えつつ身を起こした。
働いていない頭で考え、隣に居るはずのマサキが居ない事に気付く。
身を起してぐるりと部屋を見回していると、隣の間でマサキが立てているだろう衣擦れの音が聞こえてきた。
布団を抜け出し、寝乱れた浴衣の袂を合わせながら隣の間へ行くと、マサキが服に袖を通している瞬間だった。
その服を見た途端、真希はえもいえぬ幸福感に包まれ、気付いたらマサキの胸に飛び込んでいた。
マサキが着替えていたのは、真希が贈った服だ。
贈ってから数日が経つが、今まで来てくれた事が一度も無かった。
だからこそ嬉しい。
それを全身で表すように、真希はマサキに抱きつき言葉を紡ぐ。
終わらない愛の言葉を。
end
ようやくの完結です。
途中から更新が亀のように遅くなりましたが、見捨てずに読んでいただきありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
言葉では伝えきれない程に感謝をしています!




