第3章 流浪の果て(9)
濃緑の草原が何処までも広がる大地。
その上空を、翼を広げた鳥が彼方を目指して悠然と飛んでゆく。
絶えることなく吹き続ける柔らかな風は、そこに存在する全ての命有るもの達に語りかけるような優しさを持っていた。
その風景の中に溶け込むように立っている、蔦で覆われた屋敷の正面の門を今一人の娘がくぐった。
その娘の髪は、砂金を思わせるような艶やかな金。
金の髪の娘の姿を認めるなり、屋敷の中から一人の娘が真っ先に飛び出してきた。
「……お嬢様、ご無事だったのですね! 」
興奮しながら叫ぶようにそう言って駆け寄ってきた娘は、たった今戻ったばかりの金の髪の娘マリーに迷うことなく抱きついた。
「シェリル……」
マリーは微笑を浮かべて、自分に忠実に仕える、妹のような存在の侍女の名を静かに呼んだ。
金の髪の娘の首に掛けられた、古びた革紐に結わえられた水晶が、日の光を受けて輝きを放っていた。
「もう何も仰らないで下さい! 私はこうしてお嬢様が、ご無事でお戻りになったことだけで、もう充分なのですから……あの時、お守り出来なかった自分の無力さをずっと悔いていました。どうかお許しください。本当によくしていただいていたのに」
シェリルの瞳は溢れた涙で揺れていた。
「そんなことで苦しまないで。それに私は自分の意志で東に行ったの。だから誰も悪くなんかないのよ」
そう答えたマリー自身の両眼にも、涙が滲んでいた。
不意にマリーがシェリルの背後に目をやると、そこには鳶色の髪の長身の青年が立っていた。
「ディルク……」
青年ディルクは前を真っ直ぐ見据えたまま、強く唇を結んだ固い表情で、言葉を発することなく、マリーに一度だけ頷いて見せた。
「……決めたことがあるの」
マリーはシェリルの耳元でそう囁いた。
はっとしたように、シェリルは顔を上げ、マリーの顔を見た。
「きっとそれはたくさんの人を悲しませることになる。でもわたしはそれを選びたいから……」
マリーの言葉に、シェリルは嗚咽を漏らしながら口を開いた。
「お嬢様がずっと眼の中に持ってらっしゃった翳りが消えてしまったのは、そのせいなのですね」
「……シェリルには何も隠せないわね、やっぱり」
泣き笑いのような表情を見せたマリーに、シェリルが更に言葉を続けた。
「私、ずっととても悲しかったんです。何時もお嬢様は泣いてらっしゃるようだったから……。私には何も出来ないというもどかしさと、そこには決して触れてはいけないのだという気持ちの狭間で……」
「シェリルにはもっと早く話せばよかった。そうしたらそんなことで、ずっと苦しめることはなかったのにね。全部聞いてくれる? これまでのことを」
マリーの言葉に、シェリルは大きくかぶりを振った。
それからシェリルは人払いした書庫の奥で、マリーが話す『これまでの全ての話』をきいた。
本来、自分にいるはずだった許嫁が、何故居なかったのか。
そして再会するはずの無かった、一人の青年とのこれまでの話を。
静かに語り続けるマリーの前で、シェリルはじっと身じろぎもせずそれを聞いていた。
時々遠い目をしながらも、何かを決意したかに語り続けるマリーの眼差しに、シェリルはマリーと永遠に近い別れの時が近付いていることを確かに感じていた。
蔦緑の家と称された屋敷に生を受けた子供には、屋敷中で一番日当たりが良い部屋が与えられた。
その娘は生を受けてから、ずっとこの上ない程に大切に育てられてきた。
そうして十八年という歳月を数えた。
山のようになった蔵書で埋め尽くされた部屋の中では、その屋敷の令嬢マリー・オーウェンが独りきりで椅子に腰掛けたまま俯いていた。
刻限はもう夕刻近く、窓の外に映る草原の姿は、殆どが夕闇に沈み込みかけていた。
その風景の中、微かに残った太陽の残光が、鈍く紅い光を窓辺に差し込んでいる。
柔らかな風によって、窓枠が軋み立てる音が耳に届く。
風も光も全てが穏やかだった。
マリーは心を決めたように、顔を上げ立ち上がると、窓際に置かれた楡で造られた机に向かっていった。
それから、引き出しのひとつを開くと、その中に収められていた小さな白い箱を取り出した。
箱の蓋を取り去ると、中には青い石の嵌め込まれた指輪があった。
その時、部屋の扉を叩く音が響き、鳶色の髪の青年が姿を現した。
青年ディルクはマリーが手にしたものに目を向けると、一瞬躊躇してから目を細め緩い息を吐き出した。
「俺の指輪はどうしても嵌められないんだろう? もう十分すぎる程分かっている」
ディルクの言葉に応えられぬままマリーは俯き、その両眼には微かに涙が滲み、一度だけ深く頷いた。
そうして、マリーは両手でそっと箱ごとディルクに指輪を差し出した。
ディルクは苦しげに眉を寄せると、それを受け取り、足早に部屋を後にした。




