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第3章 流浪の果て(8)

 シンはひやりとした冷たい水の感覚で、意識を急激に現実の世界へと引き戻された。


 全身を(さいな)む激痛に耐えながら、奥歯を噛み締め鬱血(うっけつ)したシンの口元からは、微かに血の赤が滲んでいた。


「随分我慢強いことだなぁ。あの男と同じ、全く呻き声ひとつ上げないとはね……」


 朦朧としかけた意識の中で、両腕を鎖で繋がれ拘束されたシンの視界の中にはかろうじて自分の目の前に立つ男の姿が映り込んだ。


 黒光りする鞭を手にした、リオン・グレーデンが訊いた。


「もう口をきく力もないのですか? 」


「……」


 闇色の眼を微かに上げて、無言のままシンがリオンを見た。


 眼に写る世界は全てがもはや霞みがかっており、すぐにでも意識を再び手放しそうな程だった。


 シンの全身には至る箇所に裂傷が刻まれ、赤黒く変色した無数の腫れが皮膚の上に浮き上がっていた。


 リオンが周囲の男に顎で指示すると、控えていた一人が樽にたたえた水を傾け、繋がれたシンの上から容赦なくそれを浴びせ掛けた。


「目を覚ましていてくださいね。そうしなくては面白くないですから」


 直に火に焼かれるような強烈な痛みを身体中から感じながら、だらりと頭をもたげたシンの背に、再び鞭が振り下ろされた。


 シンの割れた額から溢れ出した血液が、顎を伝って落下していく。


「私をあれだけ馬鹿にし続けたあなたがその姿を晒しているのは実に痛快だ」


「……馬鹿にした覚えなど……な……い」


 シンは掠れた声でそれだけを言った。


 そして、空ろな眼差しのまま周囲を見やる。


 ―ここでどれだけ自分が手を下してきただろうか。


 従うしかなかった、という言い訳はきかないことも分かっていた。


 西側兵士の捕虜だけに限らず、同じ東の軍属の人間ですら、命じられれば拷問の上、数多く手にかけてきた。


 国情が不安定なのと同程度には、この組織も危うい均衡の上に常に成り立っていたせいだ。


 粛清が繰り返し行われる度、自分の中には何時のころから敵味方の意味がまるで成り立たなくなった。


 気が付いた時は、とうに感覚の全てが麻痺していた。


 当初、確かに感じていたはずの、水の中でもがき続けていたような気持ちは全て失われていた。


 そして、何もかもを躊躇いなく行使出来るようになった自分を、ヴィルヘルム・クリューガーは更に重用し続けた。


 東側であの男に子供だった自分が拾われたことなど、実際には何も意味は無かった。


 だが、そのことは一部の者達以外には長い間隠され続け、この身に向けられる憎悪の要因ともなった。


 そして今、皮肉なことに自分は全てを失った上、此処で本来仲間であるはずの人間から同じ目に遭わされている。


 ―この自分はいったい何だったのか。


 半ば飛びかけた意識の中で、シンの目の前には幻のような光景が広がった。


 そこに立つのはひとりの娘。


 その瞳の奥に宿る輝きはそのままに、この自分から決して目を逸らそうとしない。


 心を深く痛め、しかし稀有なるその輝きは隠しようもなく。


 紅い唇が確かに自分の名を呼び続けている。


 ―もう関わるなと言うのに。


 思い知らせてやりたいと、そう考えていた。


 何不自由することなくそのまま成長したあの娘に、しかし、銃口を向けたあの時、すべてを決した、瞬間。


 自分の中に維持していたものすべてが崩れていくことに、震えすら感じずにはいられなかった。


 もう自分には何ひとつ無くなった。


 これが自分が望んだ結果なのか、それすら分からなかった。


 ただ真っ直ぐに見つめてくる、深い青の瞳だけが脳裏に蘇る。


 唯一の後悔と呼べるものだった。


 どんなことをしても会うべきではなかった。


 その瞳からこぼれた涙は雫となり、この心に落ちた。


 それが長い歳月の中で凍らせてきた自分のある部分を、いとも簡単に破壊した。


 そうして今、朽ち果てる寸前の身でありながら、そのたった一人の娘のことばかりが蘇る。


 認めたくはないが、事実だった。


 直後、再び全身を貫いた激痛にシンはそのまま意識を手放した。

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