第2章 護り石の再会(15)
―その『姫君』の噂は、たちまちの内に軍の内部に広まった。
連れて来られたばかりのその娘の姿を一目見ようと、行く先々で数多くの若い兵士達が集まってきた。
今日も金の髪の娘マリー・オーウェンは、何故か軍の拠点の要塞の中を自由気ままに歩き回っていた。
当初、マリーは自分が当然牢か何かに繋がれ、囚人同然に閉じ込められるものだとばかり思い込んでいた。
だが、それがどうも違うようだと気が付いたのは、ここへ連れて来られた数日後のことだった。
軍の人間が自分を常時監視しているような風も無い。
弱い女の力では所詮出来ることは限られているとでも見なされているのか、扱いが随分ずさんな気がした。
外に出ることは流石に許されてはいないものの、それでもこの軍の中枢である建物の中は大層広大であった為、不謹慎とも言えるのかもしれないが、実際マリーが退屈する時間は殆ど無かった。
元々蔦緑の家から出ることの無い、ひきこもった暮らしをし続けてきた身。
その為、マリーには何を見ても目新しく感じられ、また興味を惹きつけられた。
軍属の者達も多くが武装を外していたので、一見するとここが何の為の場所なのかも分からなくなりそうな風情がある。
当初、連行されてきたばかりの数日間は先の見えない絶望感に憔悴し、極度の精神不安に襲われていたものの、今やその頃の面影が無いばかりか、むしろこれまで味わったことが無いような、開放感まで感じてしまう程だった。
マリーがそうなっていった最たる理由は、東の、それも特に末端の兵士達は想像以上に多くが呑気で、安穏とした緩い空気が漂っていたせいだった。
東の独裁体制の噂は、実情とは随分かけ離れていたのだ。
今日もマリーは兵舎の食堂で、多数の若い兵士に囲まれて食事中だった。
「あなたのような方にはこんな食事は到底口に合わないでしょう、止められた方がいいのではないか」
一部の年長者の中には神妙な顔で繰り返しそう進言してくる者もいたが、マリーは一向に意に介さなかった。
相手にしてみれば、この自分に慣れないようなものを口にされて、体調を崩されては堪らないとでも思ったからなのかもしれない。
もっとも、兵士達の為に日常的に用意される食事は、確かに非常に質素と呼べるような内容ではあったものの、実際の献立自体はきちんと栄養の配分が考えられているもので、マリーはかえって感心することしきりだった。
それを知って以来、マリーは自分のために特別に他に食事を用意されることを全て断っており、この兵舎の片隅で大勢の兵士達と共に食事を摂るのを日課にしていた。
周囲の兵士達もそんなマリーに、当初は戸惑う様子を見せる者も数多くいたものの、次第に慣れてきたようで、今ではさして気に留める人間もいなくなっていた。
実は食事以上にマリーが興味を引き付けられていたのは、他でもない軍属の末端の兵である彼らが語る雑談めいた話の方だった。
「なぁ、そのうち此処も危ないんじゃないか。俺はもう嫌だよ。故郷に帰りたいよ」
食堂のマリーがいる場所と、同じ長机の傍にいた一人の年若い男が、嘆くように不意にそう呟いた。
浮かない顔の男の隣で、猛烈な速さで皿の料理を掻っ込んで、むさぼっていた男が手を止め、何気ない口調で訊いた。
「この間の砲撃のことか? 」
最初に口を開いた男がさえない表情で頷く。
「そう。俺、あれ以来、兵舎ですらろくに眠れねぇよ。なぁ、なんでここにあんな砲弾が落ちんの? ここは境界からだいぶ離れてんのに。だとしたら、もうこっちは本当に終わりだな。前線じゃ前を行けとばかりを言われるし、俺達のことを一体なんだと思ってんだよ。上の連中は……! 」
「それは俺も大いに同意する。カルヴァート中尉くらい肝が据わってりゃ、また別なんだろうけどな」
その瞬間、周りの兵士達の間に漂う空気が一瞬で凍りついた。
マリーはと言えば、思いがけず語られた人物の名に驚き、目を見開いていた。
「おい、お前やめろって……」
もう一人の男が、そう言いながらつい今しがた言葉を発した男を無理やり抑え込もうとした。
マリーは男達が見せた余りの変貌ぶりに、驚いたように周囲を見回した。
その時、青い顔をした男の一人がぽつりと呟いた。
「……あの人は肝が据わってるとか、そんなんじゃない気がする」
「……」
「何ていうか……怖い」
その言葉に何人かが俯き加減で、同意するように揃って頷いた。
そんな男達の様子をつぶさに見ながら、マリーの中には此処へ連れて来られた日に遭遇した、痩せた目付きの悪いあの軍人が言い放った言葉が蘇ってきた。
西の異端者……あの男はあの時確かに、シンのことをそう呼んだ。
そして今、単にシンの名を口にするだけで、何故これほど兵士達が動揺するのか、マリーには分からなかった。
まるでその人物の名を口にすること自体が、禁忌に接触するかのような反応にすら感じられた。
だが、その理由を自分が尋ねてはいけないような気がして、マリーはただ俯いていた。
―最初から何もかもが謀だったのではないのか……。
マリーの中に、リオンのあの言葉が改めて強烈に蘇ってきた。
そう、全てに於いて、まるで根拠の無い話だった。
だが、符合することが多すぎると言われてしまえば、その疑いを晴らす手立ては皆無だ。
だから、今、ここで自分が何かを口にすれば、何処かでそれが伝わり、あらぬ嫌疑が直接的にシンに及ぶのではないかと思われて、マリーにはひどく恐ろしい気がしてならなかった。
「俺も同じこと思ってたよ。でも、本当は違うのかも……」
不意に兵士の一人が発した言葉に、多くの兵士達の視線が一斉にそちらに注がれた。
一気に集中的な視線を浴びた、まだ少年の面差しを残したその兵士は戸惑いながら、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「俺さ、この間の砲撃を受けた時、ちょうどあそこにいただろ……? 本当はカルヴァート中尉が庇ってくれたようなもんだったんだよ。そうでなきゃ、多分直撃食らって死んでた。俺怖くてさ、情けないけど立ち上がることも出来なくて……でも、あの人は全然動揺してないみたいだった。確かに感情が無いみたいにも見えたけど、でも、お前らから聞いてたのとは、なんかちょっと違うかもって思ったんだ……」




