閑話.メアリの追想
メアリは東館の端まで来ると、馴染みのある木の扉の前で立ち止まった。
二年前まで毎日通ったこの廊下も、今では懐かしいと感じるほどだ。初めてここへ立ち入った時のことを思い出し、キュッと痛んだ胸の奥から、温かな感情が溢れ出す。
六年前、メアリはまだ新米のメイドだった。中位と言っても下の方の子爵家の次女。文官として働くだけの才はなく、もちろん侍女として上位のお屋敷に仕えるほど身分も高くない。
姉でさえ縁談がまとまらず両親も骨を折っていたので、自分が嫁ぎ先を見つけて貰えるとは期待もしていなかった。中位貴族のお屋敷でメイドとして働くことが出来れば、家計の助けにもなり新たな出会いもある。学院では使用人に必要な単位は取得していたが、卒業までに就職先を見つけられないことも珍しくはない。
中位以下の貴族にとってはこれが当たり前で普通だった。
そんなごく普通の中位貴族であるメアリがベリアルド家に仕えることが決まったとき、それはもう大変な騒ぎだった。家族全員が一度言葉を無くし、雄叫びのような歓声をあげて父も兄も姉も母もぐずぐずに泣きながら喜んだ。
メアリは幸運だった。その当時ディディエの情緒に問題があり何人も使用人が入れ替わっていて、ほぼ使い捨てのような形で下位に近い者まで雇い入れていたのだ。
条件は、心身共に健康であり良識のある者。特にこれといって才のないメアリが雇用されたのも、両親の愛情と平穏で平凡なこれまでの人生の結果だった。
「そろそろディディエ坊っちゃまの試験があるわ。メアリ、気を引き締めなさい」
「学院の実技試験のようなものですか?」
先輩であるメイドから自分が雇われた経緯と、ディディエに壊された使用人の末路を聞かされ、メアリは自分がここに居る意味をようやく知った。幸運ではなかった。ただ、身の丈に合った役割が与えられただけだと理解し、むしろホッとしたぐらいだった。
ここで一生分の運を使い果たしてしまったのかと思ったけれど、そうでもないみたい。まだまだわたしには運が残ってるのね。
メアリは驚くほどに前向きだった。
そして、メアリは無事ディディエ耐久試験を乗り越える。
明るく前向きでありながら夢や理想に溺れないメアリは、ディディエにとっては退屈な人間だった。
このままディディエ付きのメイドになるかと思われたメアリだったが、事態は一転する。
突如、生後間もなく連れ去られたというベリアルド家のご息女が連れ戻されたのだ。
朝早くに集められた使用人たちには徹底的に緘口令が敷かれ、城内は不穏な空気に包まれた。古参の使用人たちは多くを語らず、辛うじてその御子がこれまでどうしていたかだけが説明された。
当主が妾に生ませた子。生後間もなく実の母親から引き離され、城に連れて来られる途中で何者かに奪われたのだという。
奴隷となるべく劣悪な環境で育ち、呪いの有無は判明していない。そして、この世に存在しない真っ白な髪を持つ子。
まだ新米の域を出ない自分が専属として指名されたことからも、ディオールが妾の子に憎しみを抱いているのだと察した。
与えられる部屋は東の端の古びた塔。階下は倉庫や使用人の懲罰室として使われ、食堂からも遠く離れたその部屋は幽閉に近い。
急いで掃除するよう命じられ、メアリはまだ見ぬ主を憐れみながら作業に励んだ。
酷い…… いくら妾の子だと言ってもセルジオ様のお子でしょう? まだ三つの子をこんなところに閉じ込めるなんて。まだ何も分からない子どもだとしても、いつかご自分の状況を理解されるときが来るわ……
せめて、自分だけはたっぷり愛情を注ごう。
領主のご息女に対しておこがましい考えではあったが、家族に愛されて育ったメアリには抑えきれない感情だった。
最低限の掃除と家具の運び込みが終わり、深夜に一族が集まる談話室に呼ばれた。そこに居たのは、まだ小さく足元もおぼつかない真っ白な髪の幼な子だった。
目の前の光景にメアリは喉の奥に小石が詰まったような苦しみを覚える。
嘘よ、まだ三歳でしょう…… これがベリアルド家の才ということなの…… でもこれでは……
何も知らない子どもではない。物事の分別が付き、しっかりこの状況を理解している。自分が愛情を注いだところで、あの子はもう絶望を知ってしまっているのではないか。
抱き上げた身体は子ども特有のむっちりとした肉感が感じられず、カラカラの木人形のようだった。
自身が整えた東の塔に入るなり、本来ならちゃんとした部屋が与えられるはずだという悔しさが言葉となって溢れてしまう。
「お嬢様、申し訳ありませんがしばらくはここをお使いくださいませ」
「どうして謝るの? 素敵なお部屋! ふかふかのお布団なんて初めて!」
あどけなく笑う小さなシェリエルの姿は、ディディエから与えられたどんな辛辣な言葉よりも鋭く胸に刺さった。自身の境遇はすべて納得の行くものであり、恵まれているとさえ思っている。けれど、これは到底納得出来るものではない。
込み上げる怒りや悔しさを必死に堪えたが、代わりに小さく手が震えてしまった。
翌朝、シェリエルが申し訳なさそうにメアリの名を尋ねたとき、自然と跪いていた。
メイドは所詮、雇われた使用人でしかない。生涯の主を定め忠臣の誓いをすることも出来ないただの下働きだ。しかし、「メアリ」と名前で呼ばれた瞬間、心は決まってしまった。
許される限り側に居て、これまで自分が受けた愛情をすべてこの方に返そう。少しでも健やかに、少しでも温かく、少しでも笑えるように。
冷ややかな食事の間も冷静で、大人しく小さな窓から庭園を眺める日々。
ディディエの悪辣な言葉も涼しい顔で受け流し、それなのにメイドである自分に危害が及んだときには明らかな怒りを見せる。
初めて外に出たときは空を見上げ、走り回るでもなく丁寧に景色を楽しんでいた。
小さなことにも驚き、御伽噺も興味を示すが、声をあげて大笑いすることはない。
メアリと同じようにシェリエルに同情する使用人は徐々に増えていった。聡明で子どもらしからぬ言動はまさしくベリアルド家の御子であったが、そこに怪物のような残忍さや恐ろしさは感じなかった。
彼らが抱くのは、大人でも心が折れてしまいそうな境遇を、シェリエルが理解してしまっていることへの切なさだけだった。
「メアリ、ここに居たの?」
背後から届いたサラの声に、メアリの回想は一度途切れた。
「ええ、今のうちにゆっくり見ておきたくて」
「考えることは一緒ね」
ここ数日、シェリエルは他国も関わる重大な何かを抱えていて、ユリウスと部屋に籠りきりだった。
機密情報を知ってしまうと身の危険があるからと、時間になるまで部屋に近付くこともできないのだ。
仕事を片付け、暇を持て余した二人は、先日完成したばかりの浄水設備を見に来たのだった。
「慣れたとは思っていたけれど、シェリエル様には驚かされてばかりだわ」
「メアリはずっとシェリエル様に仕えて来たのでしょう? いつからこのような才を発揮されたの?」
コツコツと螺旋階段を降りながら、メアリはさっき思い出していたシェリエルとの始まりの日々をサラに話して聞かせた。
隣からは時折鼻を啜る音が聞こえ、エプロンで目元を押さえるサラの背中をさする。
「……ッ! あのディディエ様が……」
「ね、信じられないでしょう? すぐにとは行かなかったけれど、次第にシェリエル様を溺愛されるようになって、わたしたちも安心したの。ディディエ様もずいぶん変わられたわ」
「ディオール様は? ディオール様はいつお認めに?」
「それが、不思議なのだけど、憎しみや嫉妬のような悪感情はいつの間にか無くなっていたの。食事も良くなったし教師の手配もされたわ。相変わらず会話は無くて、寂しいお食事だったのだけどね」
メアリははじめの数週間、食事は必ず事前に毒味するほどディオールを警戒していた。いつか、その日が来ると確信していたのだが、気付けばシェリエルの待遇は良くなっていた。
「どんな悪魔でもシェリエル様を愛さずにはいられなかったということね」
「そうね。でも、ディオール様が今のようにシェリエル様を信頼されるようになったのは、五歳の頃よ」
「何があったの!?」
目を赤くしたサラがズイッと覗き込んで来たが、ちょうど目的の地下一階に到着してしまった。
「その話はまた今度ね。着いたわよ」
新しい木の扉を開けると、ジャバジャバと水音が聞こえてきた。大きな樽は一階部分にまで達していて、吹き抜けになっている。樽を上から確認できるよう細い橋が掛けられていて、特殊な魔法陣が施された大きな蛇口が伸びていた。
「思ったより臭くないわね。前に来たのは稼働前だったから今頃ひどいことになっていると思ってたわ」
サラは真上を見上げるように背を反らし、クンクンと小鼻を動かした。
「第一の樽でほとんど浄水されると言ってたじゃない。汚物処理をこんなふうに使うなんてどうやって思いついたのかしらね」
「シェリエル様は天才だもの。天使で女神で奇跡そのものだわ」
サラから溢れるシェリエルへの想いは崇拝に等しかった。二年前の出来事を思えば、それも当然のことと思える。
「わたしたちが心配するような事はなかったのよね」
シェリエルは誰に助けを求めるでもなく、自分の力で道を切り開いて来た。
一度だけ、洗礼の儀の夜に扉の向こうで啜り泣く声を聞いたことがある。内容までは聞き取れなかったが、誰にも打ち明けられない胸の内を、吐き出すことも必要だったのだろう。
しゃくり上げるような声が聞こえたとき、扉を開けて抱きしめたかった。しかし、シェリエルがそれを望んでいないことも知っていた。
隠れて泣くシェリエルを残し、使用人の控室で胸を痛めることしかできない自分が歯痒かった。
あの小さな女の子がこんなに凄い物を作ってしまった。浄水施設から送られる水は、入浴はもちろん調理場や洗濯にも使われる。井戸から水を汲むこともなくなり、蛇口の魔導具を捻るだけで綺麗な水が出る。
この数日で使用人の仕事は激変したのだ。
浄水施設のすぐ隣にある新しい洗濯場では大量のシーツが洗われているところだった。
「お疲れ様、水や魔導具に問題は無さそう?」
「あら二人して珍しい!」「シェリエル様はまだ籠ってらっしゃるの?」「少しはお休みにならないと!」
仕事中にもかかわらず、メイドたちから明るい声が返ってくる。
水の魔導具によって一番変化した仕事は洗濯だった。
石鹸を使うため、皆で分担しても大量の水に魔力を費やし、寒い冬には辛うじて足が浸けられる程度までしか水を温められない。
すすぎは冷たい井戸水を使い、風よけのない裏庭での作業は重労働だ。
夏は強い日差しに晒され冬は手も足も凍える一番キツい仕事だと言える。
それが、浄水施設の建設とともに室内に移されたことで、彼女たちは大はしゃぎだった。
「問題どころか感動しかないわよ! これお湯よ? 魔導具を捻るだけでお湯が出てくるの!」
「泡立ちも良いし汚れが良く落ちるわ!」
床を掘ったような大きな浴槽では、数人のメイドがスカートを捲し上げてじゃぶじゃぶと踏み洗いしている。洗うものによって槽は分けられているが、どこも水の温度を調整できるようだ。
底にある栓を抜けば自然と水は排水され、また蛇口を捻って新しい水に入れ替える。
「温度の調整や魔力はどうかしら? シェリエル様から問題があればすぐに報告するよう言われているの」
「魔力もほとんど使わないわね。今ちょうど温度を下げたのよ、ちょっと張り切りすぎちゃって」
もう冬の入り口だというのに、皆の額には汗が滲んでいた。
外で洗濯するときは、外気と冷たい水で体温が奪われるので、思い切り身体を動かして体温を保つのだ。
まだ数日ということもあり、暖かいお湯で洗うことに慣れないのだろう。
「冬なのに洗濯で身体が温まるなんてね!」
「そうそう、これは内緒なんだけど、わたしたちここで身体を洗ってるのよ。もちろん仕事が終わった後にね! 水が良いからか乾燥しないし、みんなで出し合ってシェリエル様の石鹸も買ったの」
これにはメアリもサラも驚いた。城内では入浴が一族のみに許された贅沢な習慣として定着し、憧れを持つ者は少なくなかった。だからと言って数日でこんな裏技を編み出すなんて。
内緒と言われたが、シェリエルならきっと怒りはしないだろうとメアリは早速夜に報告する。
疲れの見えるシェリエルはその報告に「あらら」と小さく漏らし、寝台に入る前になにやらまた書類を書いていた。
一ヶ月後、浄水施設の上の階には使用人用の大浴場が作られることとなる。
シェリエルは「本館に大浴場を作るつもりだったからそれの試作だ」と言っていたが、洗髪剤や石鹸まで城の経費で用意したことからも、使用人たちを思い遣ってのことだろう。
もちろん、あの日口を滑らせた洗濯メイドたちが大喜びで大浴場に向かったのは言うまでもない。
100話超えました!
100話使ってまだ九歳という進捗に目眩がしそうです。遅くて申し訳ないです。
本編の進捗を気にして城の日常やサブキャラへの影響などはほとんど省略して来ましたが、これからちょこちょこ番外編として書いて行こうかと思います。100話超えたので!
たくさんの方にお読みいただき、温かい感想もいただき、月並みですが皆様のお力でここまで来れたと思っています。本当にありがとうございます。
初投稿前の書き溜め時期を入れると、作文をはじめて三ヶ月が経ちました。
三ヶ月書いて主人公が九歳です。
これからちょっと血生臭い話が出て来ますので、前書きに残酷描写の記載がある場合はご注意ください。
長くなりましたが、今後とも何卒よろしくお願いします。





