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眠れる森の悪魔  作者: 鹿条シキ
第四章 事業

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真紅の飾りの招待状


 貴族街のある屋敷では、朝から使用人がバタバタと準備に追われていた。

 その家の女主人であるイルメラは、走り回る彼女たちを叱りつけることもなく、一通の封筒をただジッと見つめている。

 宛名も差出人も無いその封筒には、額縁のように真紅の蔦模様が施されており、それがベリアルド侯爵夫人ディオールからの手紙なのは明白だった。

 無論、イルメラはこの手紙の主が誰であるのかを考えていたのではない。一月ほど前に招かれたお茶会で、ディオールから直接手渡されたものだったからだ。

 問題はその中身にあった。

 

 ベリアルドの呪いを継ぎながら、ベリアルド侯爵夫人となったディオールは、領内の貴婦人たちにとって、恐ろしくもあり、また羨望の的でもある。

 本人の美しさは言うに及ばず、類い稀な審美眼で美術や衣装の分野でも常に新しい流行を作り出していた。

 その中でも近年特に信じられない成長を見せているのが美容品である。ディオールは娘のシェリエルが考え出したのだと言うが、イルメラはその言葉を信じてはいなかった。

 我が子と同じくらいのまだ幼い女の子に、大人が使う美容品など考えつくとは思えなかったからだ。

 

 そういえば、わたくしがお茶会に招かれるようになったのは、シェリエル様のおかげだったわね。それまでは、夜会でご挨拶させていただくのがやっとだったもの。


 伯爵家と言えど、イルメラの嫁ぎ先にそれほど力は無かった。領地を持たない中位貴族。辛うじて爵位はあるものの、それも運良く先先代の領主の嗜好に合った家業を持っていた為だ。

 夫であるタブル・プラントン伯爵は、今も家業である植物の研究を続けている。薬草の栽培や魔花の研究を行っているが、王都の貴族学院で教鞭をとるほどの功績は残せていない。このまま行くと、子の代で爵位は失うことになるだろう。

 お金にならず功績も残せない植物研究の家門に嫁いだイルメラは、社交界で下の中くらいの位置付けだった。それが激変したのが、件のお茶会である。


 突如知らされたお披露目のお茶会に、まさか自分たちが招かれるとは思いもせず、その時もこうして真紅で縁取りされた封筒を眺めたものだった。

 年の近い娘が居たというだけ。どうやらプラントン伯爵家は運命の神様に愛されているらしいと、何度も手を組み祈りを捧げた。「また勝手に神を作って罰当たりな」と夫のタブルに苦笑されたが、それでもこの運命のような幸運を誰かに感謝せずにはいられなかったのだ。


 伯爵令嬢らしからぬほど活発で落ち着きのなかった娘が、シェリエルのお茶会から突然令嬢としての振る舞いを心がけるようになったことも、神々の思し召しのように思えた。タブルの研究に付いて回り、森や野原で駆け回って木登りまでしていた娘が、あの日を境に今まで嫌っていた作法や社交の授業を熱心に聞き始めたことは母として喜ばしい変化だった。


 本当、あの子がああも変わるなんて…… 年下のシェリエル様がとても落ち着いていらしたから、きっと感化されたのね。


 あれから二年、時折り招かれるディオールのお茶会はまるで夢のようだった。新しい菓子に新しい美容品。それほど裕福ではないので、洗髪剤だけ購入し、月に二度ほど少しずつ大事に使っている。

 普段は週に一度湯桶で洗い流すだけだが、それでも格段に艶が増し、櫛を通すのも楽になった。

 そんな中、この招待状である。聞けば、ディオールが普段行なっている入浴という美容法を実際に体験出来る施設らしく、そのお披露目に招待されたのだ。


 本当にわたくしなんかが行って良いのかしら。我が家には投資する余裕なんて無いことをご存知でしょうに…… もし何か不興を買ってしまったら、御家のお取り潰しだってあり得るわ。


 新事業のお披露目会は基本的に投資の呼びかけだ。大きくなりそうな事業なら投資し、一枚噛めそうだと思えば事業提携を申し込んだりする。

 前者は論外だが、後者を期待されているのであれば、夫のタブルが招待されるはずだ。しかし、以前植物油について相談された時に結局力になれず期待を裏切ってしまったので、どういう意図か測りかねている。

 領地の利にならないばかりか、次にまた何か失敗でもしたら今度こそプラントン家は終わるだろう。

 そんな訳で、イルメラは幸運と不安の詰まった招待状を出発の直前まで複雑な心境で見つめていたのである。




「お母様、何を浮かない顔をしているのです。もうすぐ着きますよ」


 快活な性格は残したまま、随分令嬢らしい振る舞いを身に付けた娘が、浮かない顔のイルメラに声をかける。

 伯爵家の屋敷から少し馬車を走らせると、すぐに目的地が見えた。元は侯爵家所有の豪勢なお屋敷で、秋も半ばだというのに庭の中央には色とりどりの花が咲いている。

 中央の花壇をぐるりと回るように馬車が進み、正面口に到着すると、エントランス前にはディオールとシェリエルが立っていた。

 事業のお披露目なのにシェリエル様もご一緒なのね。だからこの子も一緒に、ということだったのかしら。

 何度も見返した招待状が間違いではなかったらしいとホッと胸を撫で下ろし、貴族らしい表情を取り繕って馬車を降りる。


「ディオール様、今日の良き日に御挨拶を申し上げます。新たな芽吹きに立ち会いをお許し頂き、風の神とベリアルド家の皆様に感謝の祈りを捧げます」

「ごきげんよう、イルメラ様。きっと今日のお披露目は満足してもらえるはずよ」


 イルメラと挨拶を交わす隣では、子どもたちも嬉しそうに再会を喜んでいる。


「シェリエル様、お久しぶりですね! 大きな事業のお披露目なのだと聞きましたけど、わたくしまで呼んでいただけるなんて感激です」

「シャマル様、ごきげんよう。今日は子どもだけでお茶会も予定しているのです。ジゼル様もいらっしゃいますよ」


 記憶にあるシェリエルよりもまた一段と背が伸び、シャマルより二歳下のはずだが同じくらいの背丈になっていた。子ども特有のふくふくしていた頬がずいぶんスッキリしてきている。

 はしゃぐシャマルに対して、落ち着いた声色で丁寧に案内するシェリエルは、見た目も振る舞いも年齢以上に大人びて見えた。一見冷たそうに見える白で縁取られた青い瞳のせいか、それとも崩れすぎない穏やかな微笑みのせいか、貴重な子ども時代の無邪気さが感じられず若干勿体無いとも思う。


 エントランスの正面奥には、胸下ほどの高さの台があり、その向こうに三人の女性が立っていた。三人とも揃いの衣装を身に纏い、こちらに出てくる様子もない。

 そのまま脇の階段から上階へと案内され、先に到着していたらしい貴婦人たちと挨拶を交わす。いくつかの丸テーブルを囲み、お茶をしていたようだ。


「申し訳ありません、遅れてしまったかしら」

「いいえ、まだ少し早いくらいですわよ。わたくしたちも最初は驚いたのだけど、お茶会とはまた違うようなの」


 時間を間違っていなかったのだと安心する反面、何か知らない世界に来てしまったような不安を感じ始める。戸惑うイルメラに声をかけたのはシェリエルだった。


「こちらはお待ち合わせや時間の調整などに使っていただくティーサロンです。この屋敷に主人は居ませんので、お茶会のように挨拶を待つことなく自由にお寛ぎください」

「ディオール様の主催ではないのですか?」

「はい、事業の責任者は一応わたくしになりますが、主催という形ではないのです」


 女性が事業を起こすことは珍しく、それでもディオールならば可能だろうと無理矢理納得していた。それが、まだ成人もしていない子どもが責任者だと聞いて、イルメラは瞬きを繰り返すしか出来なくなっていた。

 何から何まで理解ができず、とりあえず分かったふりをするしかない。

 テーブルに案内されると、すぐに自分たちの前にもお茶が準備される。紅茶とメレンゲは、待ち時間に提供されるサービスなのだという。

 その後に続く招待客も同じように戸惑っていたので、自分だけが知らない作法ではないのだと安心する。


「では、皆様揃いましたので、こちらの施設の利用方法を説明しながら、実際に体験していただきたく存じます」


 これで全員だというの? 大人は十人しかいないけれど…… もしかしてシェリエル様のおままごとなのかしら?

 投資を募る新事業のお披露目は、百人ほど集めて夜会を開くのが一般的だ。子どもも入れて十五人ほどしかいないこのティーサロンは少し変わったお茶会なのだろう。


 そう理解しかけたイルメラは、その直後から濁流のように押し寄せる新しい作法により、認識ごと頭を揺さぶられるのであった。



「まず初めに、こちらで体験していただくサービスは、すべて有料になります。庭を整える庭師に給金を支払うように、皆様のお身体をこちらで整えるための料金を支払っていただくのです。もちろん本日のお代と皆様の入会金は頂きません。そのかわり、たくさん宣伝をお願いしますね」


 シェリエルの説明に大人も子どもも目を丸くして口を押さえていた。

 美容法を体験出来るのだと聞いていたけれど、まさかそれ自体にお金を取られるなんて……

 今日の代金は要らないという言葉に、ホッと息を吐いてしまう。そして、すぐ後にこの美しい髪飾りのような宝飾品が入館証だと言われ、ヒッと息を飲むことになる。

 鎖から垂れ下がるいくつかの魔鉱石に目を奪われ、危うく説明を聞き逃すところだった。


 入会金はかなりのお値段だが、紹介が無いと入会すら出来ないらしい。入会金を免除されたこと以上に、その特別な枠に選ばれたのだという事実が、震えるような興奮をもたらした。

 施設は何度も利用でき、自分の魔力を込めれば価格も安くなるのはありがたい。初めは訝しんでいた湯に浸かるという美容法も、この夢のような美しい空間のせいか、大きな期待に変わっていた。


 一通り説明を受け、子どもたちが別のティーサロンに向かうと、一人ひとり個室に案内される。


 言われるがままに連れてきたメイドに手伝ってもらい服を脱ぐと、ジャバジャバと水の音ともに微かな湿り気を感じた。

 白磁の大きな桶は浴槽と言うらしい。説明を受けても理解が追いつかない初めて見る魔導具に、先ほどの魔鉱石が取り付けられ、お湯が湧き出している。

 漂う湯気と花の香に誘われ、イルメラは無心で湯船に身を沈めた。

 なんて心地かしら…… 温かくて気持ちが良い…… 後で肌が乾燥しないといいけれど……

 じわりと汗をかいたころ、頭を小さな桶の方へと持っていくよう言われ、布が敷かれた窪みに首を乗せれば、係のメイドが洗髪を始めた。湯で髪を洗うことには慣れているけれど、頭皮を適度な圧で押され、ぞわりと全身が粟立つほど気持ちが良い。

 同時に良い香りの植物油で顔をマッサージされ、柔らかな布で拭き取ったあとは、香りの良い柔らかい何かを顔に塗られた。


「こちらは新しく売り出す予定のクレイパックというものです。肌の汚れを吸着し、保湿もしてくれるのでとても綺麗になるのですよ」


 しばらくこのまま待つように言われ、その間にさまざまな説明を受ける。


「お肌に残った汚れを植物油や石鹸で綺麗に落とし、汗をかくことで詰まった汚れを出し切るのです。こちらのクレイパックも肌をお掃除するものですが、週に一度程度が目安となります」


 クレイパックは使い終わったあと容器を持ってくれば中身だけ売ってくれるという。

 今までも顔に塗る美容法はいくつかあったが、どれも気持ち程度の効果しかないか、恐ろしく高価なものしかなかった。このクレイパックは一体どちらなのだろう。

 少し肌の重さに慣れてきたころ、クレイパックは剥がされ、今度は香りの良い石鹸で丁寧に洗われる。

 そっと頬に触れてみると、たしかに手触りが柔らかくなったように思えた。


 お湯の中なので気付かなかったがすでにたくさん汗をかいているらしい。果実水ともお酒とも違う、爽やかな口当たりの冷たい飲み物が、スッと身体に染み渡る。

 顔に熱がこもり始めたころ、外の台でマッサージをするからと一度浴槽から出され、イルメラは「ひぃ……」と情けない声をあげた。

 あれだけ透き通っていたお湯が、濁っていたのだ。


「これが洗浄魔法では落ち切らず肌に溜まっていた汚れでございます」


 お湯を抜き始めた浴槽から目を逸らし、顔を覆って逃げ出したい気持ちを懸命に堪えた。案内された台は石造りなのに暖かく、お腹からまたじんわり温められる。

 コルセットや重い衣装で凝り固まった身体が、ぐいぐいとほぐされ、台から降りた時には身体がとても軽くなっていた。


「まるで王族や上位貴族になったような気になるわね……」


 まさに上位者のような贅沢だ。魔力量と過去の幸運だけで伯爵位を得たプラントン家では、高価な植物油を使った全身のマッサージなど日常的に行えるものではない。

 湯が抜かれた浴槽で香りの良い石鹸を使い丁寧に全身を洗われると、肌が湯を弾き若かりし頃の柔らかな手触りとなっていた。

 まさか、本当にお湯に浸かっただけで? あの植物油や石鹸の効果かしら?

 リネンのローブを纏い、鏡台の前に座ると目の前の光景に言葉を失った。


 あり得ないわ…… この鏡は魔導具かしら?


 年々肌が硬くなり、白粉も上手く塗れなくなって来ていた。クマやクスミを誤魔化すために工夫を凝らして白粉をはたくのが貴婦人の嗜みでもある。

 それがどうだろう、血色の良くなった肌は今朝見たよりも格段に明るくなっている。

 イルメラは恐るおそる頬に手をあて、手のひらに肌が吸い付くような心地に胸の高鳴りを感じた。

 

「少し保湿しますね」


 メイドはそう言って花の香りがする水を優しく肌に乗せ、ほんの少量の植物油で軽く肌を押さえた。艶やかな肌が本当に自分のものか信じられず、食い入るように鏡を見つめてしまう。

 その間にも、先程の魔導具から今度は温風が吐き出され、櫛を通しながら髪を乾かしていく。

 自宅での洗髪とは比べ物にならないくらいつるりと纏まった髪は、結い上げるのがもったいないほどだ。


「洗髪剤も特別なの?」

「はい、市販のものより一段上の商品となっています」


 この先も貴族街にある店には出さないということは、入館証のある者だけが買える限定品となる。興奮のせいかカラカラに乾いた喉を紅茶で潤すが、それでもやはり、平常心ではいられなかった。


「白粉はどうされますか? シェリエル様の新しい白粉をお試し頂けますよ」

「悩むわね…… 白粉を塗るのが勿体ないと思ったのは初めてだわ」


 しかし、流石にこのまま人前に出る勇気は無かった。いくら綺麗になったとて、クマやクスミは残っていて素肌を晒せるほどではない。

 それに、せっかく体験出来るのだから、新しい白粉とやらを試さず帰るのは勿体ない。思い切って化粧を施してもらった。


「まぁ……! なんて艶なの! 本当にこれが白粉だなんて信じられないわ」


 柔らかい筆で軽く顔を撫でられた時は、担がれているのかと心配になった。白粉は重めの油の上から刷毛で何度も塗り重ねるのだ。多少撫でたところで上手く塗れるはずがない。

 しかし、鏡の中のイルメラは、素肌のような自然な肌のまま、つやりと毛穴やクマが隠れていることに気付く。


「その白粉、少し見せてくださる?」

「はい、こちらにございます」


 白磁の平たい器に入っていたのは少し色の付いた粉だった。従来の小麦粉のような白粉と違い、見るからにキメの細かいその粉でこんなに艶が出るなど、実際に体感しても俄には信じられない。

 そして次の瞬間、ぞわりと恐怖に似た騒めきが全身に走る。


 今体験した物、そしてこの体験自体が商品になるなんて…… 紹介制による限られた者だけが手に出来る美。これほど目に見えて効果があれば、誰もがその権利を欲しがるわ。

 それに、一度経験してしまえばもう手放すことは出来ないでしょうね。庭を整えるように自分を整える…… 購入して終わりではなく、きっと何度も通うことになるはず。

 

 それほど家計に余裕のないイルメラでさえ、入会を許された事に心から感謝し、次はいつ来ようかと算段をつけていた。

 まるで悪魔の囁きだ。非日常な空間に最上級の美容品。ふとどれほどの利益になるのか考え、凡人の自分には想像が付かないと、すぐに下世話な思考は遠くへ追いやった。


「お疲れ様でした、イルメラ様。お着替えが終わりましたら、ティーサロンの方へご案内致します」


 着付けもいつもより早く終わったのは気のせいかしら。とにかく、早くこの感動を皆と分かち合いたい…… 早く、皆に綺麗になったわたくしを見てもらいたいわ。

 貴族としては平凡な顔立ちをしているイルメラが、自身の容姿を人に自慢したいと思ったのは生まれて初めてのことだった。


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