ユリウスの難題
シェリエルが去った後、いまだ火の粉と土煙の舞う裏庭で、ユリウスは想定外の展開に困惑していた。
自身の画策が露呈したことにではない。
知られたところでシェリエルが自分という教師を手放すことはないだろうと高を括っていた。当事者であるディオールや夫のセルジオも、ユリウスの関与を知った上で、好機とばかりに便利使いしていたからだ。
ユリウスの困惑は、シェリエルの不可解な怒りにあった。
「ユリウス、何をすればあれほどシェリエルを怒らせることが出来るんです?」
「ディオールの件に気付かれた。なぜ教えてくれなかったのかと責められたよ」
セルジオは「なるほど」と手を叩き、納得の表情を浮かべる。しかし、すぐに小首をかしげた。
「でも、僕たちが納得していると話したのでしょう? シェリエルなら呆れる程度で、むしろ僕に小言を言って来そうですけどね」
「そうだろう? だから私も何に怒っているのか分からなくて困っているんだ」
どうしてこうなったのかと考えを巡らせるが、シェリエルの声が怒気を含み始めたのは、たしかにディオールの件に言及し始めてからだった。
「それだけで我が家の大事な庭が戦場になったんですか?」
「いや、つい、面倒なことになったと言ってしまって、それからだね」
大きくため息を吐くセルジオが、ユリウスの肩にポンと手を置いた。
「やはりユリウスもまだまだ子どもですね。女性に面倒という言葉は禁句ですよ。ディオールでも城を火の海にしかねません」
「女性と言ってもまだ子どもじゃないか。たしかにシェリエルは賢いけれど、淑女としての扱いを求めるような子ではないだろ?」
セルジオに反論しながらも、「子ども扱いしている」と怒るシェリエルを思い出す。
本当に面倒なことになった。いつもの自分であれば、相手の欲しい言葉を与えることが出来るはずなのに、どうして今日に限って上手くいかなかったのか。と、頭を悩ませる。
「シェリエルはベリアルドですよ? 見た目通りの子どもではないとユリウスだって分かっているでしょう?」
「シェリエルは…… 大人と遜色ない思考力を持っているけれど、発想が突飛で子どもらしいところもある。何でも拾うし、人より動物を好む傾向にあり、人に対する慈悲は、感情よりもそうすべきという倫理観に依存しているようだね。しかし、その倫理観が良く分からない。ベリアルドの教育以外に何か変なものを混ぜたのか? それに、自分のことには鈍いはずなのに、今日に限ってあれほど怒って見せた。本当に意味不明だよ」
セルジオは隠しもせずに大笑いしながら、ユリウスの肩を何度か叩く。何がそれほど可笑しいのかと眉を顰めるが、嬉しそうな親の顔をしたセルジオに、何も言えず口を噤んだ。
「そこまで分かっているなら充分です。言っておきますが、シェリエルはディディエの精神年齢と大差ありませんよ。父上には未熟だと言われたようですけど、舐めていると痛い目に遭いますから、気を付けてくださいね」
「痛い目にはもう遭ったよ。この惨状を見てみろ。私でなければ死んでいたからね? しかも、私の作った杖で好き勝手撃つものだから、魔力も随分持っていかれた」
ユリウスはこれからどうすべきか答えが出ずにいた。今まで何か目的があれば、そこに至る方法は緻密な蜘蛛の糸のように策略を巡らせることが出来た。
しかし、ことシェリエルに関しては今回の出来事で正解が分からなくなってしまったのだ。
セルジオの言う通り、呆れはしても納得すると思っていた。何がきっかけであっても、魔術を習得することを重視すると思っていた。
謝るべきだと思った時には遅かった。何に謝罪しているのか問われ、それに答えることが出来なかった。
人との関わりがこれほど難しいものだと初めて知った。
ユリウスにとって人の心は単なる情報でしかない。相手が何を求めるのか読み取れば、それを返すだけで良い。
そういう意味では、近しい思考の持ち主のディディエは、厄介でもあり楽な相手でもあった。言わずとも勝手にこちらの真意を理解し、そしてそれを咎める事もない。些細な挑発は心地良い戯れ合いで、見透かされるという危機感が程よい刺激にもなった。
シェリエルはまた違った意味で興味を引いた。何かを与えれば予想も付かない方向へと昇華させ、何倍にもして返してくる。
今回はそれが悪い方向に出たか……
シェリエルはまだ怒っているだろうか。他人に拒絶されることには慣れていたが、どうにも心地が悪い。
私に殺されることを懸念していたようだが、シェリエルをぞんざいに扱ったことなど無いというのに。ダリアの扱いを見て自身に重ねたか?
正直、まだシェリエルの扱いは決めかねている。初めはたしかに……
「誠心誠意、謝るしかないですよ」
セルジオの声がユリウスの思考を途切れさせた。
「ベリアルドの癖に誠心誠意という意味を分かっているのかい?」
「ええ、もちろん。ディオールの許しを得る為に、僕がこれまでどれだけの事をして来たと思っているんです? まず、贈り物は基本ですよ。ディオールへの愛を綴った詩を半日朗読したこともありました。一日中執務を休んで寝室にーーおっと子どもにはまだ早かったですね」
この男は何を勘違いしているんだ? ユリウスは軽蔑の眼差しでセルジオを見つめる。
「まったく役に立たないな。どうせならディディエを例にしてくれないか?」
「そうやって子ども扱いするから怒られるんですよ。ま、とにかくきちんとシェリエルの話を聞いて、謝るしかないですね。そろそろシェリエルも頭が冷えたんじゃないですか?」
ユリウスは結局これといって策の無いまま、シェリエルの部屋へと向かうことにした。
ザクザクと荒れた芝を踏み鳴らしていると、後ろからセルジオの声が追ってくる。
「って、この庭どうするんです!? あとでちゃんと直してくださいよ! この数日で城がボロボロじゃないですか!」
たしかに、ガルドもダリアも私が招いたようなものだ。セルジオに知られるとまた借りが増えるな、と小さく息を吐く。
私はこんなところで何をやっているんだろうね。子どものご機嫌取りに庭の修繕か…… しかし、これも平和な日常と言えるかもしれないな。
シェリエルの部屋の前まで来ると、扉を鳴らそうと持ち上げた右手が止まる。
もう少し時間を空けた方が良いだろうか。きっとまだ怒っている。いや、時間を空ければ完全に心が離れるかもしれない。シェリエルは今どういう状態だ。
これまで考えたこともない難問に、思わず頬が引き攣るユリウス。
そういえば、セルジオの言う贈り物も用意していない。オウェンスに用意させるか、日を改めるかと考えていると、スッと扉が開かれディディエが出てきた。
「遅かったね。ちゃんと謝りなよ? ユリウス先生?」
含みを持った笑みでディディエがユリウスの肩を叩くと、そのまま入れ違うように部屋から出て行った。
仕方ない、とユリウスが開いたままの扉をノックする。
「入っても?」
「あら、何の用ですか、ユリウス様」
ひやりと透き通る声は、幼さの中にも人を統べる威圧感のようなものを感じさせる。そういう一面もあったのかと感心しながら、「少し話そう」と言えば、シェリエルはメイドを呼び、お茶を用意させた。
「どうぞ、お掛けになってください。またご面倒をおかけしてしまいましたね」
シェリエルの瞳は冷たい宝石のようで、怒りも悲しみも、今まであったはずの親しみさえ感じられなかった。ユリウスは何故かその感情のない眼差しが嫌だと思った。
「すまなかった」
「何を謝ることがあるのです?」
「君が怒る理由を理解できず、面倒だと言ってしまった」
「いいえ、わたしが感情的になり過ぎたのです。ユリウス様に分かるよう、冷静に説明出来ずに申し訳ありませんでした」
シェリエルの謝罪の言葉はスッとユリウスの目の前に一線を引いた。
七歳にして、こう詰めて来るのか。
何とも厄介な相手を怒らせてしまったものだと自身の迂闊さが悔やまれる。
「本当に悪かったと思っている。君を子ども扱いしたことも謝罪するよ」
「良いのです。わたしは見ての通り子どもですもの。皆がわたしに伝えなかったのも、わたしが話すに値しないからでしょう。至らぬ子どもの癇癪だと大目に見てくださいまし」
なるほど、まともに取り合って貰えないと、こうももどかしいのだね。
ユリウスは初めて直面した状況に、昔失くした何かが戻ってくる気配を感じた。
「私は君の感情を簡単に操作出来ると思っていた。そして、何故怒るのか理解出来なかったんだ。セルジオやディディエのように、過程よりも現状の利を取ると思っていた。君はガルドやダリアとは違うと…… 一番大事にしていると伝えれば、それで理解してくれると思っていた。私の怠慢だね」
シェリエルは何も答えなかった。相変わらず何を考えているのか分からない青い瞳は、手元のカップを虚ろに見つめている。
「ぞんざいに扱ったつもりもなかった。私の持つ知識や技術は惜しみなく与え、君の望むことは可能な限り叶えて来たつもりだ。だから、何がいけなかったのか分からないんだ。もう一度、私にも分かるように、君の気持ちを教えてくれないか」
静かにカップを下ろしたシェリエルは、ジッとユリウスを見つめ、抑揚のない声で答える。
「ユリウス様が私を大事に思うのは、道具として利用価値があるからでは? 森の主の角だって、大切に扱うでしょう? それと同じことなのです」
何を言われているのか分からなかった。だったら何だと言うのだ。大切にしていることには変わりないだろうと、口を滑らせかけて、今度は寸前で思い留まる。
「ユリウス様、人は利用する為だけに他者と交わるのでは無いのです。たしかにベリアルドは身内以外の人間をそのような対象としてしか見れません。ですが、私はユリウス様のことをお兄様やメアリのように、身内だと思っていたのです。ですから、ユリウス様には他人のようにしか思われてないと知って、悲しくなったのですよ」
ふと見せたシェリエルの寂しげな瞳は、どこか懐かしいような、不思議な感情を呼び起こす。
「何故、私が君を道具として扱っていると?」
「それは…… 分かりますよ。人を大事にするというのは、それほど簡単ではありませんから。ユリウス様は大事にするフリはお上手なのですけどね」
シェリエルはユリウスが何をしようとしているのか知るはずもない。それでも未来を見透すように諭す言葉は、ユリウスに新たな概念を与える。
ユリウスにとって、身内とはただの形式的なものだった。向けられる笑顔も温かな言葉も、どれも作られたもので、人との関わりはそういうものだと思っていた。
「すまない、私には少し難しいらしい」
謝罪でどうにかなる話では無いと理解した。根本的に、在り方が違うのだ。シェリエルの望むものを与えていれば、自分の為に動くだろうと思っていたが、今シェリエルが求めているものだけは、自分に無いものだった。
「難しいですか?」
「ああ、私に他人や身内という線引きはない。有能か無能か、邪魔になるかならないか、そういう風にしか見れない。道具として扱われることが悲しいというのも理解出来ない」
無理をしてでも隠し通せば良かったか…… もう少しシェリエルの動向を見守って、それらしい振る舞いを身に付けてから臨むべきだったか……
そう考えた時、この考えこそがシェリエルの逆鱗に触れたのだとも理解し、少しの喜びを感じる。
遅過ぎたのだ。しかし、時間をかけても本物の感覚を得られるとは限らない。
「ユリウス様は、ご自身も道具だと思っているんですね」
「そうだよ? 皆互いに使い使われ、そうやって世界は回っている。そこに善し悪しなどないだろう」
シェリエルの目元が微かに陰り、何かを諦めたような吐息が漏れる。
ガッカリさせたかな。けれど、こればかりはどうしようもない。きっと今、理解したフリをしたところで、この子には見抜かれるだろう。
「分かったよ。ではこれで、教師役も終わりだね」
これ以上ここに居ても仕方がないと、席を立つ。その動きを遮るように、シェリエルが凛とした声を響かせた。
「ユリウス様、わたしと取引をしませんか?」
「取引? 私のような人間を相手にして平気なのかい?」
思わぬ言葉にシェリエルを観察する。輝く銀糸のような髪に透き通る白い肌、長く伸びた白い睫毛に縁取られたサファイアのような瞳は、遠くを見据えるように意思を持っている。
「ええ、もう気は済みましたから。改めて、わたしに魔術を教えてください。ユリウス様の持つすべての知識をわたしにください。手となり足となり、わたしが思い付いたことを実現出来るよう手助けしてください。わたしが死なないように全力で守ってください。そのかわり、わたしもユリウス様のお手伝いをしましょう」
思わずククッと喉が鳴る。こういうところだ。
散々人を詰っておいて、出した条件は以前と変わらない。しかし、既に私はシェリエルを対等な立場だと認識してしまった。一方的に利用する相手ではなく、私も彼女に自身の価値を示さなければならない、と思ってしまっている。
「君は、本当に…… フフッ…… 私より人心の掌握が上手いようだ。君に出会ってから、驚いてばかりだよ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「では、許してくれるのかい?」
「今回だけですよ? 次はありませんからね。少しは人間らしくなれるよう努力してください」
ぷくっと膨れたシェリエルの頬に、やっと感情がこもる。小さな女の子に手玉に取られたのだというのに、自分でも不思議なほど安堵していた。
人間らしく、か……
「仰せのままに」
恭しく頭を下げて見せると、シェリエルは「フン!」と顔を背けた。しかし先程までの冷たさはない。
ユリウスの抱える難題に新たな項目が付け加えられた。





