20.森の主
突然の森の主からの申し出に、思わずふるふると首を振る。
この森の主は穢れをもらって? もうすぐ魔物になるから? わたしに殺して欲しいと?
いやいや、何の冗談だ。メンタル弱すぎでは? たかだか足が汚れたくらいで心を病んでしまうなんて、どれだけ繊細なんだとツッコミたくもなる。
「少し見せて貰ってもいいですか?」
「(良いけれど、触ってはいけないよ。移してしまったら大変だ)」
投げ出された後ろ足の近くまで歩いていくと、この脚だけ太ももから痩せ細っている。膝下は大人の背丈ほど泥がこびり付き、ギプスのように足を固めていた。コンクリにでも足を突っ込んだのだろうか。
「シェリエル、近付き過ぎだよ! 蹴られでもしたら危ないだろう!」
「大丈夫ですよ、ちゃんとお話し出来ていますから。そうだ、主様、彼らにも分かるように話せますか?」
「(ああ、これでいいか?)」
森の主の声が聞こえたのか、ディディエとヘルメスは目を見開き声をあげる。
「おお、これが昨夜言っていた念話か。不思議な感覚だな」
「魔獣と話せるって聞いたことないんだけど…… 森の主だから精霊に近いのか?」
驚く二人は放っておいて、わたしは泥をどうにか落とせないかと洗浄魔法をかけてみる。
「……って、何やってんの!?」
「主様はこの汚れが気になるみたいなのです。でも洗浄魔法じゃ落ちませんね」
「おい、何言って……」
結構たっぷりめに水を纏わせたのだが、なぜか泥が落ちない。なんてしつこい汚れなんだ……
試しに手で刮いでみると、ドシャッと泥が落ちた。なるほど、水に耐性のある泥ってことね。それならどこかに擦り付ければいいのに。主と言ってもおっちょこちょいさんなのかと呆れつつ、わたしはせっせと泥を落とす。
簡単には落ちるが、手に触れると凍えるように冷たく、手に絡みついてくるようなねっとりした触感だ。
「(な、何をしている…… 素手で触るなど死にたいのか!?)」
「大袈裟ですよ、洗えば落ちるでしょう? だいたい、泥汚れくらいで死んでしまうなんて、本当に森で暮らしているのですか?」
あ、そういえばこの泥、洗っても落ちないんだった。クレイラの泥には治癒の効果があったし、泥も魔力を含むといろいろ変わった効果を持つようだ。しかし、不思議なことにわたしの手は泥で汚れず、落としたものは端から砂になってサラサラとどこかへ消えて行った。
わぁ、さすがファンタジー。
「シェリエル…… 早く離れなさい。もしや、森の主は穢れを負っているんじゃないか?」
「ええ、そうらしいのですけどッ。よいしょ! ほら、もうすぐ全部取れますよ」
森の主はわたしとお揃いの真っ白なまつ毛をパチパチと瞬かせ、綺麗になった自身の足を見つめている。ヘルメスはこちらに来ようと暴れるディディエを後ろから抱えるように抑えていた。
「お爺様離してください! シェリエルが!」
「どうしたんです、お兄様? もう綺麗になりましたよ」
実際には汚れていないのだが、なんとなく手をパンパンと払いながら二人の元へ戻ると、なぜかディディエがその場に崩れ落ちた。
「何やってんだよ! 穢れを溜めた魔獣に触れるなんて!」
「泥汚れがこびり付いていただけですよ? それを気に病んで穢れを溜めてしまったのでしょ?」
「は? 泥汚れなんてなかったじゃないか……」
おや? 話が噛み合わないぞ。どういうことかと森の主を見れば、まだ不思議そうに足を見つめていた。
「主様、汚れは落ちたので大丈夫ですよね?」
「(信じられない。人の子よ、素手で穢れを浄化できるのか?)」
森の主の声が響くと、それみたことかとディディエがすごい剣幕でこちらに詰め寄ってくる。
「ほら、やっぱり穢れ……って、祓ったの!? 祝詞も無しに!?」
穢れではないと説明しても、わたし以外が穢れだと言う。いよいよ混乱してきたところで、ヘルメスが仲裁に入った。
「シェリエルは泥のようなものが森の主の足に付いていたと言ったな? 森の主よ、足に異常があったのか?」
「(そうだ。以前、魔物をこの足で蹴り飛ばしたときから、思うように動かなくなった。それから全身に毒がまわるように穢れに侵食され、もうそろそろワタシも墜ちるのだと思っていたのだ)」
「それで、今は問題ないと?」
「(ああ。この娘がおかしな動きをする度に、身体から穢れが抜けていった。今は問題なく足も動く)」
あれ? 森の主は本当に穢れに侵されていたの?
「主様にも泥汚れは見えなかったのですか?」
「(見えなかった。お嬢さんには何か見えていたのか?)」
「はい。泥が固まって足が動かしづらいのかと思って…… 洗浄魔法では落ちなかったのですけど、手で刮ぐと簡単に落ちました」
皆がパチパチと瞬きを繰り返し、何とも言えない空気が流れる。最近こういうのばっかりだ。流石に居心地が悪くなり、しゅんと肩を丸める。
「ヌシ〜! 元気になったね!」
「ヌシ、キレイになった! 森も元気出た!」
「人間、良くやった! お前イイやつ!」
パタパタと妖精たちが飛び回り、皆口々にわたしを褒めてくれた。一応、悪いことでは無いらしい。恐る恐るヘルメスを見上げると、眉間を押さえ難しい顔をしている。
「シェリエル、憶測ではあるが、お前が見た泥のようなものは穢れだ。本来穢れは祝詞による祓いの儀でしか消すことができない。穢れに耐性のない普通の人間なら、触れれば穢れに侵されるところだったのだぞ」
「え、じゃあわたしは呪い持ちだということですか?」
「違う、そうじゃない。いや、それもあるんだが…… とにかく危険なことをしたんだ。あまり無茶をせんでくれ」
無茶と言われても、知らなかったのだから仕方ないじゃないか。無知は罪とはこのことか。
それより、自分が呪いを継いでいたことの方が重要だ。これまで、料理も魔術も前世の記憶のおかげだと思っていた。ベリアルドらしく物覚えが良いのも、何かと処理能力が高いのも、生まれてすぐに脳が動き出したおかげで異常に思考力が発達したからだと思っている。
「お爺様、わたし、お兄様のように罪悪感のない悪魔のような人間なのでしょうか?」
「おい、失礼だろ! 本人目の前にいるんだけど?」
噛み付くディディエの頭を押さえ、ヘルメスが問診モードに入った。
「シェリエルは今何か身体や心に異常はないか? 怒りや悲しみ、鬱屈とした暗い気持ちに飲まれそうな感覚は?」
「ないですね。ちょっと呪いがショックなくらいです」
ふぅ、とヘルメスが大きく息を吐き、ついに数年越しの診断が下された。
「シェリエルは呪いを継いでいる。昨日の話から魔術の才があるのだろう。慈悲は、あってないようなものだから、前世の倫理観が多少影響しているのだろうな」
「ええ、そんな…… まあ、薄々そうじゃないかなとは思っていましたけど」
そうだ、ゾラドのお爺様お婆さまに会ってから、少し怪しいなとは思っていた。夢のシェリエルの感覚も少しは残っているので、納得は出来るのだ。だが、気持ち的にはショックだった。
前世の記憶、あって良かったよね。バグだと思っていたけれど、そのバグのおかげでわたしは多少の倫理観が持てているらしいのだから。
「(人間よ、何をわけの分からないことを…… 穢れを浄化したのだぞ? 精霊にも出来ぬことぞ?)」
「そうだ、そちらの方が問題なのだ。祝詞も無しに祓うなど聞いたこともない」
うーむ、わたしは魔物や穢れを溜めた人間を見たことがないので、あまり穢れという概念を掴みきれていない。スピリチュアル的な悪い物だと思っていたけれど、さっきのアレが穢れだと言うならば、わたしにとっては物理的な悪い物だ。
魔術は一応全て理屈がある。だが、今やったことだけは自分でも説明が付かなかった。
いや、難しく考える必要ないのでは?
「見えて、触れられたので、取り除くことも出来た、というだけなんじゃないですかね」
「そんな馬鹿な話があるか。シェリエルはその穢れに触れた時どう感じた?」
「ねっとりしてて冷たかったです」
ヘルメスは自身が診断をする時のことを話してくれた。鳩尾のあたりに手を当て、体内に突き刺すように感覚を伸ばしていくと、腹のなかにわたしが感じたようなねっとりした冷たいものが溜まっているのが分かるらしい。
それもあって、やはりさっきわたしの落としたものは穢れだということになった。
「穢れを目視出来るとは、シェリエルには驚かされてばかりだな」
「わたしもまさかそんな大変なことになっていたなんて…… てっきり主様は繊細過ぎるおっちょこちょいさんかと」
森の主はググッと立ち上がり、綺麗になった足を何度か後ろに蹴り上げていた。鹿だから角で攻撃するのかと思っていたが、蹴りも得意らしい。痩せ細った後ろ足がググッと太く盛り上がっていく。
さすが全属性、穢れがなければ自己治癒力は高いらしい。治癒で筋肉が育つかは知らないが。
「それより、さっき魔物が居たと言っていましたよね? 蹴り飛ばして解決したのですか?」
「(いや、取り込まれそうになり、逃れるために蹴っただけだ。魔物を浄化する術をワタシたちは持たない)」
「じゃあ今はどこに……」
「(森の奥地にいる。皆には近づかぬよう伝えてあるが、いまも少しずつ移動しているだろう)」
魔物は魔力を求めて徘徊する。魔獣も多く住むこの森は、今魔物の出現によってピリピリしているそうだ。ヘルメスが姿勢を正し、森の主に向き直した。
「明日、セルジオを連れて討伐に向かおう」
「(そうか、有難い。感謝するぞ、人間たちよ)」
「魔物を祓うのは神々の恩恵を受けた人間の責務だ。これまで気づかずに申し訳ないことをした」
森の主、それに妖精たちに挨拶をして、わたしたちは屋敷へと戻ることにした。かなり奥の方まで来ていたので、ヘルメスがグリちゃんを呼ぶ。
「グリちゃん、三人乗っても大丈夫?」
「グルルルァ!」
「大人二人くらいは乗れるから大丈夫だ」
こうして三人仲良くグリちゃんの背に乗り、森の上空へと出た。眼下に広がる緑の絨毯はどこまでも続いているように思えるほど広大だ。屋敷と反対方向にどんよりとした重い空気を感じる。もしかして、あれが魔物の気配だろうか。
「悪魔の森はここより広いのですよね?」
「ああ、森の上空を飛ぶことも禁じられているから全体は分からんがな。北部も端まで行けば悪魔の森と繋がっている。ベリアルドの西は全面悪魔の森だ」
わたしは史学で習ったこの国の地図を思い浮かべ、今どのへんにいるのかなんとなく当たりを付ける。ここより奥地というと、悪魔の森の方角だ。魔力を求め、そちらに移動しているのかもしれない。
屋敷に戻り、森でのことをセルジオに話すと、この旅一番の笑顔で目を輝かせていた。魔物の討伐ってそんなにテンションの上がるイベントなんだろうか。
「退屈していたのでちょうど良かったです!」
旅行に行こうと言い出したのはセルジオなのに、退屈ってどういうことなの……
あれだけ色々あったのに、結局戦闘に勝るものはないのかと呆れてため息を吐いた。





