2.アルフォンス・オラステリアの激昂
空白の祝祭が明けた新年の最初の日、王宮にある第二王子の自室は酷く荒れていた。花瓶が割られ、メイドが鞭で打たれ、羽毛の入った上質の枕は無残に羽根を散らしている。
随分前に出したベリアルド侯爵への手紙が、長い時間をかけて戻って来たのだ。そしてその内容を聞き、アルフォンスは怒りを抑えきれなかった。
「なんで俺との婚約を断る! 何が気に入らないんだ! そんなやつだと思わなかったのに、俺の前では大人しくしていたくせに! あいつは嘘つきだ!」
「アル、落ち着いて? わたしもアルにピッタリだと思ったのに残念だわ、どうにかならないかしら?」
そう言って、潤んだ瞳で家臣を見つめるのは、アルフォンスの母ライアであり、紙の内容を伝えた本人だ。
見つめられた家臣はその庇護欲を唆る瞳に対し、私が何とかしますと言いたいのを堪え、グッと唇を噛む。
その様子に見かねたのか、アルフォンスの教師を取り纏めるロミルダが二人を窘める。
「アルフォンス殿下、そのような御言葉遣いは自室でもお控え頂きたく存じます。殿下はシェリエル様をお気に召したのでしょうか。王族といえど、真に愛する者であれば家柄によっては優先されます。心してお選びくださいませ」
ロミルダの言葉に嘘は無かった。貴族社会で政略結婚は多々ある。けれど、心通じる者同士の方が子に宿る魔力、そして婚姻生活にも利がある為、家柄に問題が無ければ王族であっても本人の意向が汲まれる。
アルフォンスはお茶会のことを思い出しているのか、少しの間暴れるのをやめ、そしてジッとライアを見る。
「別にあいつじゃなくてもいいんだ。でもアリシアや他の奴は嫌だ。俺は母上のような優しくて何でも言うことを聞いてくれる相手が良い」
「まぁ、アルったら、嬉しいことを言ってくれるわね。わたしもアルのお嫁さんは優しくてアルのことを大事にしてくれる子でなきゃ嫌だわ」
母子の会話にロミルダがそっと目を伏せる。頭が痛いのかこめかみに手を添え、静かに息を整えていた。アルフォンスは本来王位継承権のないはずだった御子。しかし、アルフォンスが生まれる直前に腹違いの兄である第一王子が病に倒れた為、そして、その後十年、国王が王妃を新しく娶らなかった為、今現在王宮にはアルフォンスしか王位を継ぐ者が居なかった。その為か、周りは大事に大事にアルフォンスを育て本人が厭うものは極力廃し、窘めるものはロミルダ以外、遠ざけられた。その結果、アルフォンスは王族としての教育がかなり遅れていた。
本来であればこれほど感情を表に出すなど、王族としては考えられない。子どもに罪はない、周りの大人が問題だ。そうロミルダが自分に言い聞かせても、アルフォンスの言動は目に余る。最低限の王族としての教育はロミルダ自身が行っている。国王陛下から賜ったこの命を退けられる者は、実母であるライアを含め存在しない。もし自分が諦めてしまえば、この国がどうなるのか、ロミルダはそれが恐ろしくて仕方なかった。
「ロミルダみたいな女は絶対に嫌だね。口煩くて自分が賢いと思ってる女なんて可愛くない。ロミルダはよくそれで結婚出来たもんだな。政略結婚だろ?」
鬱憤をぶつけるようにロミルダに浴びせられる暴言を、家臣もロミルダ自身もただ黙って聞き続ける。せめて、せめて優秀な御令嬢が殿下の補佐をしてくれたなら、少しは何かが変わるかもしれない。そう思って早くから未来の王妃を探していた。
けれど、この様子では教育の方が先だろうと考えを改めた。幸い、優秀な御令嬢が何人か居る。腐りかけの貴族社会で、それでもこの世代に優秀な子が育っているのは神々の助力なのではと思ってしまうほどに幸運だった。
あと数年、アルフォンスが王族としての自覚に芽生えるまで、婚約は見送った方がいいだろうと、その場にいた家臣たちは考えていた。
一方その頃、元老院と呼ばれる貴族の代表となる者達も、同じように考えていた。宰相の姪にあたるアリシアを推してはいたが、茶会での振る舞いがすぐに議題に上がっていたのだ。
元老院は貴族の中でも特に力を持つ十家門により構成される。宰相とは別に魔力や領地の力といった貴族としての力が最も高い領主たちが集められた政治組織だ。大きな政策や大戦の折には元老院の賛同がなければ、たとえ国王であっても勝手に事を進める事が出来ないようになっている。
「あと三年で殿下が成長なさるか否か……」
「あまりにも心許ない。けれど、ベリアルドが打診を蹴った事で私は少し安心しました」
彼らは、皆、アルフォンスの危うさを懸念していた。けれど、同年代の令嬢に全てを押し付ける訳にもいかないという良識も持っていた。何とかしなくては。アルフォンスを導くのか、それとも代わりとなる王位継承者を立てるのか、まだ数年猶予があるとはいえ、近頃最も頭を悩ませる議題だった。
そして、ベリアルド侯爵家の新しい子、シェリエルについてもある程度の情報を得ていた。
「ええ、聞くところによると、大層可愛がっているそうだ。奴隷を買ったという噂は本当だろうかね」
「色も呪いも持たないのだろう? 害がなければ殿下のお相手にとも思ったが、ベリアルドが情を持つ令嬢であれば王宮に入れる訳にはいかないな」
「そうだな、何かあれば王宮が血に染まる」
一人の貴族がアルフォンスの様子を見に行く事となった。十家門でなければ今のアルフォンスに苦言を呈する事が出来ないと分かっているので、時折こうして誰かが王宮へと足を運んでいるのだ。
「アルフォンス殿下、ご無沙汰しております」
「なんだ、ハインリか」
王宮のサロンにて素気無く一瞥を返されたのは、十家門に名を連ねるキースリング侯爵領領主、ハインリ・キースリングだ。元老院の中ではまだ若く三十代半ばのハインリはこれでもアルフォンスに気に入られている。
「随分とご気分の優れないご様子ですが、何かございましたか?」
「知ってるんだろ? あいつが、ベリアルドの…… 無能の! 白髪の分際で! 俺との婚約を断ったんだよ!」
ハインリはもちろん知っていた。知っているからこそ、今日ここに来ているのだから。だがしかし、アルフォンスがこれほど怒りを向けているとは予想外だった。
「アルフォンス殿下はシェリエル嬢のような子がお好みでしたか。雰囲気だけで言えば、アリシア嬢に似ていると聞いていますが?」
「アリシアは駄目だ。口煩く可愛げがない。だいたい、勉強ばかりしている女など、ロミルダのようになるに決まってる」
「はて? シェリエル嬢もお勉強が得意なご令嬢ですよ? とても優秀だと聞いたことがあります」
ハインリの言葉にアルフォンスはあんぐりと口を開け、目も見開いたまましばらく固まった。ハインリは実のところシェリエルのことをあまりよく知らなかったが、ベリアルドが庇護するくらいなので、それなりに才があるのだと予想していた。ベリアルドは貴族の体裁や幼児に対する情で家族ごっこが出来る人種では無い。彼らの呪いは、他の何かを理由にして捻じ曲げられるほど軽いものではないのだ。
「あいつ、騙しやがって……」
「シェリエル嬢が勉強など嫌いだ、とでも言ったのですか?」
「べつに…… そうは言ってない。でも…… とにかく、アリシアのような女ばかり集まる茶会が嫌なんだ! せっかく良い相手を見つけたと思ったのに! どいつもこいつも!」
アルフォンスはただ自分があの見た目と従順な態度から勝手に勘違いしたのだと気付く。けれど、大人が奴隷出身だとか、魔力が無いだとか、才を持たないだとか話していたのを聞いたことがあったのだ。実際はどんな人間だったかを知るほどの時間もなかった。
シェリエルも自身の嫌う冷たく高慢な女だったのかと幻滅する一方、普段の茶会に集められる令嬢を思い出し、またふつふつと苛立っていた。
「殿下、なぜ殿下の婚約者候補となるご令嬢が、勉学に励む優秀な者ばかりなのかご存知ですか?」
「王妃にきょうようってやつが必要なんだろ? それくらい知ってる」
「そうです、国王の補佐をする為、王に等しい知識や良識、そして冷静な判断力を身に付けなければなりません」
「今は王妃もいないし、母上も遊んで暮らしているじゃないか」
「別の者が王妃と、そしてライア様の代わりに執務をしているのですよ」
本来、公妾であるライアは王妃の補佐として執務が割り振られるはずだった。しかし、ライアにそれほどの教養が無く、王妃の存命中も軽微な茶会の手配しかしていなかった。
そして王妃亡き今、補佐する相手もおらず、毎日茶会に夜会、商人を呼んでは買い物をし、子どもの目から見ても遊んで暮らしているようなものだった。
「ですから、アルフォンス殿下が補佐も必要の無いくらい優秀であれば、教養の足りない優しい姫君をお迎えになってもよろしいのですよ?」
「俺が?」
「ええ、そうです。アルフォンス殿下が少しやる気を出せば、王妃の補佐など要らない賢王となられるでしょう」
実際にはそれでもある程度の教養は必要だ。他国との外交や王宮の管理、公の場で王と並ぶには公妾程度の教養ではとても足りない。けれど、アルフォンスが王となるべく勉学に励み、王族としての意識が芽生えれば、その線引きは自然と出来るだろうという目論見があった。
アルフォンスは満更でも無さそうに今日初めての笑顔を見せる。
「良いことを聞いた。褒めてやる、ハインリ! 勉強は嫌いだけど、ロミルダのような女と結婚するよりはマシだ」
ハインリは頭を下げながら静かに笑みを浮かべる。アルフォンスが良き王となるべく努力し、その努力が実れば、好みの優しい女性を妾にすれば良い。その為には優秀な王妃を娶り、その王妃の認める者しか妾として迎え入れられないと理解もするだろう。
元老院の代表として、無事に一仕事終えたハインリは、胸を張って王宮を後にした。きっとこの国は大丈夫だと小さな希望を握りしめて。





