17.乙女の祈り
「なにって……」
「心中を…… シェリエルと心中なさるおつもりだったのですか!」
「はは、まあ、そういうことになるのかな」
アリシアは弾けたように部屋に飛び込んできて、ディディエの銃を両手で奪うと遠くへ投げ捨てた。
わあ、ひどい。かなり貴重な代物なのに。
ディディエはぼんやりとそんなことを思いながら真っ黒なシルエットのアリシアをゆっくり見上げる。
耳を澄まさなくても彼女の鼓動が突き刺すように響いている。
彼女の手は震えていて、じわ…と汗をかいている。感情が昂りすぎて頬が引き攣っている。鬼のような形相だった。
——パシン!
と、頬を打つ音が耳奥に響いた。
「イった…… ひどいな。暴力反対」
「どうして、こんな」
「理解らないよアリシアには。だから説明もしない。部外者は出ていってくれない?」
「部外者、ですか」
「どう考えてもそうだろ。と言うか、なんでこんな時間に? ああ、シェリエルの誕生日だからか。わざわざ贈り物を用意してたから遅くなったんだね。お優しいことだ。ありがとう。でも、もういいよ」
そろそろ切り時か……
アリシアはこの学院の時期にも、週末に合わせて授業が終わるとシェリエルに会いにくる。
毎週、毎週、ベリアルドにやって来てはシェリエルに学院のことを語り聞かせている。
授業がどうだ、サロンがどうだ、流行が、季節が、天気が。と、どうでもいいことを話して帰っていく。
そうして欲しいと頼んだのは自分だけれど、その献身に息が詰まった。
今日も…… 今日は……
大きな花束が扉口に落ちている。
アリシアの指には包帯が巻かれていて、その花束が彼女の作ったものだと分かった。
少しでも長持ちさせるために授業が終わってから自らの手で用意したのだろう。
鉢植えにしなかったのは、枯れればまた新しく持ってくると約束するためだろうか。
こんな、なんの反応もない抜け殻のようなシェリエルのために、心を尽くして何になるというのか。
廊下の灯りが差し込んで、散らばった花びらが物悲しく照らされている。
いまのアリシアみたいだ。
ジッと黙して動かないアリシアに苛立ちが募り、ディディエはギシ、と音を立てて寝台から降りた。
女はいつもこう。無言で責めて、自分が悪者にならないように男が決定的なミスを犯すのを待っている。
謝罪すれば「なにが?」と言い、反論すれば「酷いわ!」と怒る。論理的な説明は“言い訳”になるし、冷静な話し合いは“心がない”と判断されるのだ。
ヒステリックな沈黙だ。
吐き気がする。
健やかで真っ当な愛情に、なにもかも吐き出したくなる。
「……」
「ああ、もしかして別の期待もしてた? 女のそういうとこ、嫌だなぁ。友達のためなんて優しい顔してさ、しっかり自分の欲を忍ばせてるんだもん。浅ましいと思わない?」
「……ディ、ディエ様? なにを」
ディディエは苛立ちを強調するように沈黙を返し、シェリエルを寝かせて死人の瞼を閉じるようにそっと手を添えた。
……シェリエル、あんなにアリシアを大事にしてたのにね。寝るなよ、薄情者。
うしろでアリシアがカタカタと歯を鳴らしていた。泣くまいと必死に喉元に力を込めている。
健気に、理性的であろうと己を律している。
「悪いけど、シェリエルは朝早いから。このまま寝かせてやって」
それだけ言って部屋を出る。
うしろをパタパタとアリシアが付いて来るが、それも無視して自室に戻った。
「ねぇ、ここ僕の部屋。分かってる? こんな時間に男の部屋に入るつもり?」
「お話を、しましょう。少しだけお時間をください」
「お話、ね…… 言い訳だろ? あなたが心配で? シェリエルに会いたかっただけ? まあいいけど、どうなっても知らないよ?」
それでもアリシアは退かず。
ふるふると震える手で袖口を掴んでくる。
ディディエは彼女がありきたりな女の仕草をすることにガッカリした。弱々しく、男に縋るような目元にどんどん心が冷えていく。
手首を掴んで強引に引き込み、パタン…… と扉が閉まると同時に。
——ガンッ!
乱暴にアリシアの両手首を壁に固定した。
非力な娘である。身を捩るが、魔力も腕力もディディエが上だった。
「ッ! ディディエ様!」
「そういえば、もう十八になったんだっけ? ずいぶん前に成人してたんだ。ごめんね、お祝いしてあげられなくて。遅くなったけど、今夜ホントの大人になっていく?」
「お待ちください! とにかく、お話を!」
「喚くなよ。うるさい女は殺したくなる性分なんだ」
感情のこもってない低い声。誰かの感情を引き出すためではない、洞窟の奥で鳴るような無機質な声音である。
アリシアはキュッと口をひき結んで、連続殺人鬼にナイフを突きつけられた女と同じ顔をしていた。
心音のひとつでも気に障れば即座に殺されてしまうのではないかと、本能的に命を守っているのだ。
「こわい? 怖くないよねぇ? 自分の意思で付いて来たんだもんね? 被害者みたいな顔しないでよ。そんな顔されたら、僕は加害者の顔しないといけなくなるじゃない」
「ち、ちが…… あ。あ、やめ…… ッキャ!」
ディディエは抵抗するアリシアを片手で引きずって歩き、「待って」とか「いやッ」とかいう女の悲鳴を無視して寝室に向かった。
が、成人した女が深夜に男の部屋を訪れるというのはそういうことだ。
そんなつもりじゃなかった、なんて通らない。
一応、確認もしたし。
「キャッ!」
「やっぱり期待してた?」
突き飛ばすようにアリシアを寝台に転がして、咄嗟に身構える彼女を見ながら自身の首元を緩めた。
汗で濡れたシャツが空気に触れ、冷んやり首筋から体温を奪っていく。
寝台の上で水膜を張った瞳が揺れている。怯え、悲しみ、怒っている。
ズリズリと左右の足を動かして距離を取ろうとしているが、踵はシーツの上で滑るだけでまるで誘っているみたいだった。
不愉快な悦楽がそこにあった。
花瓶を割るのと同じような衝動が、ディディエの全身を占拠している。
「よかったね、やっと抱いてもらえるよ」
「や、やめ。お待ちください。お願い…… 少しだけ、話を」
「だからなにを話すって? シェリエルと心中しようとしたことがそんなに許せない? 嫉妬? それとも、倫理的な話? あいにく僕らには適用外なんだ。説教したいなら他をあたってよ」
「違っ、ただ、お話を、させていただきたく……、ディディエ様と、ディディエさまの」
「なに?」
「ッ、……し、死なないで……」
「は?」
ああ、吐き気がする。死なないで、だと?
ディディエはシーツに膝をついて、そのままアリシアを押し倒すように覆いかぶさった。
両手首を掴んで涙に濡れた瞳を真上から見下ろせば、この世間知らずをどうしてやろうかと思って口角が歪に吊り上がった。
「アハハ…… 本当におめでたい頭だな。ここまで言われて気付かない? あの賢いアリシア様が僕に愛されてるって本気で信じたの? ハハッ、アハハハッ! ちょっと思わせぶりなことを言ったらこれだ。ふふ、まあ、そうだよね。僕は落とすつもりで優しくしたし、落とす自信もあった。可哀想なアリシア…… 君はむかしから可哀想だ。親の決めた婚約に、頭の悪い婚約者。家門と国の未来を背負って、さぞ苦しかっただろうね。それなのに、婚約者は君を捨てた。傷ついて当然だ。傷ついた人間を落とすのなんて、兎を狩るより簡単だったよ」
「な、ディディエ、さま? い、いたッ……」
人が絶望する瞬間の快感たるや。
無知で脳天気な人間が突然人生の黒い染みを見せつけられたときの絶望たるや。
期待して期待して、これでもかと期待した恋心が打ち砕かれる瞬間の乙女の涙はなにより美しい。
……はずなのに。
この潤んだ瞳、無性に腹が立つ。
「分からない? 僕は君を愛してなんかいないよ。利用価値があるから——」
「シェリエルをこの世に繋ぎとめるため、だったのでしょう?」
「え……」
その瞬間、首筋から右肩にかけてゾワッと鳥肌が走った。
悲しみに揺れていたはずの瞳はひと筋の涙を流したのをさいごに、キン…… っと真っ直ぐにこちらを見つめ返している。
澄んだ湖のように透明で、氷のように硬質な目が。
ディディエの両目を捕らえて脳の裏側まで射抜かんとする。
「わ、わたくしにはなにも分かりません。おふたりが大事にしていらしたものをひとつも覚えていませんし、覚えていたとしても理解はできなかったかもしれません。けれど、これがディディエ様の予期し得えた事態であり、わたくしはこのために側に置かれたものだと理解しています」
「、や……」
「わたくしはその役割を果たせなかったのでしょう。シェリエルを繋ぎとめるに至らなかった…… ですから、ディディエ様が用済みだとおっしゃるならばわたくしは」
「待って。待って、じゃあ。知ってて…… 毎週ベリアルドに通って、僕に優しくしたの?」
ディディエは思わず飛び退いてアリシアに背を向けた。
これは本能的な防衛行動だ。相手の心情を読み取ることが得意なディディエは、自身の混乱した思考を読み取られまいと目、唇、鼻、そのほか仕草や汗の具合を反射的に隠したのである。
ほとんど無意識に近い咄嗟の行動だった。
読みが外れたこと。彼女が察していると気づかなかったこと。そんなことは初めてで、柄にもなく狼狽えている。
けれどそれも当然と言えば当然だった。ディディエはとうにおかしくなっていたのだから。
彼女はどんな気持ちで自分の前で笑っていたのか。
彼女はいつも小さく笑っていた。嬉しそうに。
……いや、あのときの心音は? 本当に笑っていたか? 目に赤みはなかったか。唇に傷はなかったか。汗は、瞼の痙攣は、目尻の下げ方、頬の動きは——
ディディエには分からない。
「ディディエ様…… その役立たずのわたくしのお願いを、どうか聞いていただけませんか」
「……」
「わたくしの親友を、わたくしの好きな男を、奪わないでください」
「……ッ」
「愛しています、ディディエ様」
「やめろ! 僕は君を愛してない。好きでもないし、興味もない。そうだよ。ただ、シェリエルのために。シェリエルがユリウスを忘れるまで、僕だけじゃ、自信がなくて…… それで、友達とか、そういう。家族以外にも大事な人がいればって……そのために君を」
「ええ」
「アリシアの良心につけ込んだ。怒れよ…… 恨んで、嫌いになれよッ! これ以上酷いことされたくなかったら今すぐ消えろ! 消えてくれ……」
爪が食い込むほど握りしめた拳に、ツ、と細く華奢な指先が触れた。
よく手入れされているのにところどころ包帯の巻かれた乙女の手が、ディディエの拳をそっと開いて優しく包む。
手を引く力はほんの軽いものだった。彼女はいじけた子どもの機嫌を取るように、ほんの小さく手を引いただけ。
あやされるようにそちらを向かされ、嫌々、仕方なく、彼女を見た。
この世で一番怖ろしいのは、恋を知った女である。
「嘘がお下手ね」
「ッ!」
アリシアの瞳はどこまで冷たくて僅かな揺らぎもない。
今度はグッとさっきより強く引っ張られ、ディディエはか弱い少女みたいに膝から寝台に落ちた。
片方の手をつき、姿勢を崩したまま顔を上げられない。
もう、ふたりの視線は同じ高さにある。
頬をそっと撫でられ、ビクッと肩が跳ねた。
彼女の心音は……
これは誰の心臓の音か。
「どうぞお好きになさって。構いません、わたくし」
「だ、から。…… 僕は、君を利用し……」
「好いた女しか抱けないわけでもないでしょう? それとも、加害者になるのが怖いのかしら」
「ちが、待っ、て……」
ふわりといい匂いがして、視界が真っ暗になる。
あたたかくて、やわらかい——十秒固まって、やっとアリシアに抱きしめられているのだと理解した。
誰かの腕のなかはいつぶりだろう。
いつもは抱きしめてばかりだから。
人形みたいな妹を抱きしめるばかりで、背中はいつも冷えていた。
「わたくしはなにがあっても側にいます。どれだけ酷いことをされても傷付きません。わたくしはディディエ様の目論見通り、もう恋に落ちてしまったのです。貴方が狂気に落ちるなら、ご一緒させてくださいませ。殺して気が済むのであれば、一度きりですからお気をつけになって」
「いけない…… ダメだよ。アリシアは、ダメだ」
「大丈夫ですよ、ディディエ様。……大丈夫」
「……、ちが。だから、僕は。アリシアの、ことを愛せない、から」
「拙いこと。嘘がお得意ではなかったの?」
「っ、」
ああ、敵わない。なにもかも見透かされている。
神下ろしの巫女とはこれほどか。否、女とはこういうものなのか。
ディディエは撃ち殺されたように全身が脱力し、華奢な少女に身を預けた。
トン、トン、と優しく宥めるような手のひらが、ディディエの強張った背筋を溶かしていく。
「僕は……、なにをやってもダメだな」
「ええ、本当に」
「カッコ悪い」
「愛おしいと思います」
「ダメな男に引っかかるタイプだ」
「ええ。引っかかってしまいました」
「でも、僕は…… 僕だけが幸せになるなんて許されない。こんなのは裏切りだ」
「はい。ですから、ディディエ様はわたくしのことなど愛していません。口うるさい部外者を追い出すために、酷いことをするだけです。こんな女に言い寄られても救われないし、癒されない。そうでしょう?」
喉が焼けるような痛みとともに、静かに涙を流した。
渇いて渇いて仕方のなかった冷たい脳に、アリシアはポタポタと甘い水を垂らすように“嘘”を囁くのだ。
ディディエだけに都合のいい嘘を、言い聞かせるように。
「……アリシア…………」
アリシアの細腕が優しくゆっくりと背中を撫でる。吐き出せ、曝け出せ、と優しい手のひらが促した。
苦しくて、焼けた喉からぽつり、ぽつりと心根のカケラが落ちていく。
「……アリシアは、分かってない。ベリアルドに愛されるってことを。分かってないから」
「いけないことなのですか?」
「僕らは……」
ベリアルドが他人を愛するということ。
愛される苦しみを、彼女は知らない。
ディディエはゆっくり顔を上げるが、アリシアの顔は見れなかった。
俯いたまま、ぽつりぽつりと言い訳をするみたいに喋る。
「僕らは、他人を同じ種族だと、思えない。姿形が似た、別の生き物みたいに思ってる。たぶん、君たちの多くが同性を性的な対象として見ないように、僕らは人間を、親愛の対象として見れない。特に、恋人とか伴侶とか、そういうふうには」
「はい……」
「だから、他人を愛することは。……簡単じゃなくて」
美しいから、年頃が近いから、条件が合うから…… そういう、ふつうのキッカケが無いとは言わない。
けれど、二度はない。
愛し、愛された瞬間、自分の一部になってしまう。欲しいと思った瞬間、獣のような執着で離れることも奪われることも耐えられない。
だから、二度はない。
「愛されなくても、たぶん、無理やり自分のものにする。自分の一部だと感じて。だから、愛せるんだ。ちがうな、愛しているから、取り込んでしまうのかな。自己愛しかないから。僕らは元々欠けてるから。その欠落を埋めたいんだ、きっと」
拙い言葉だった。
ディディエも言いながら上手く伝わっているか不安で、また喉が詰まって声が震えてしまう。
アリシアは黙って聞いていた。
ゆっくり咀嚼するように、ディディエの言葉をひとつひとつ受け取っていた。
彼らの愛は与えるものでも、与えられるものでもない。
捕食とか、補完とかに近いのだろう、と。
「僕らは誰かを愛して、やっと、少しだけ、渇きが癒える。多くは愛せない。元々無い機能だから。飢えと渇きが、強い執着になる。んだと、思う。だから、すごく、僕らの愛は、優しくない」
「……はい」
「でも手放せない。一度愛したら、一度知ってしまったら…… 愛の終わりにはもっと酷い飢えが待ってる。自分の一部を失うことが、許せないんだ。自分の手足が木の枝とか石に変わってしまったみたいに思って、その事実を受け入れられない」
「だから苦しいのですね。いまのシェリエルを、受け入れられなくて」
「うん。……うん…… 愛してるから、どんな姿でも生きててくれればいいなんて思えない。思おうとしたけど、無理だった。ッ……、死んでしまったのと同じだ。家族の死体をずっと目の前にぶら下げられているようなものなんだ。葬送すらしてやれない。失って、戻らないのが、耐えられない。僕にはエゴしかないから」
「はい……」
「でも、そうなったのは僕のせいだ。僕と、あいつの。だから、僕だけ、この飢えを満たすなんて…… アリシアを愛するなんて、できないよ。愛されたらいけない。僕だけは……」
「それが、ディディエ様の贖罪なのですね」
「……、わからな、い。ユリウスも、こんな気持ちだったのかな。あいつも耐えてた。最期までシェリエルを愛さなかった。きっと、愛してたのに」
「ディディエ様。わたくしは、あなたを愛しています」
「ッ!」
ディディエは頬を引っ叩かれたみたいな顔をして、今度は困ったようにクシャ、と顔をしわくちゃにする。
「僕の話…… 聞いてた…?」
「はい。でも、それはそれ、これはこれです。わたくしの気持ちはディディエ様の事情など関係ありませんから。押し付けです。エゴです。どんなあなたでも愛しています」
「……ッ。受け取れない。愛せないよ」
「構いません。いままで通り、わたくしに気があるフリをして、可愛がってくださいませ。わたくしはあなたに愛されていると思い込んで、いつまでもお慕いいたします」
「アリシア、それは……」
「人を騙すことなら、お得意でしょう?」
……嗚呼、ダメだ。
手にしてはいけないものが目の前にあった。
どれほど渇望したか。どれほど愛し愛されたかったか。
けれど許されない。許されないのに、この女は許そうとする。
懇切丁寧に“言い訳”を用意して、幸福を祈ってくれる。
善意や慈愛に拒絶反応を示す性根の腐った男のために、“己の欲”だと取り繕ってくれる。
……もう、ダメだ。
すでにディディエは自己矛盾に気づいている。
自分で言ったのだ、「愛されなくても無理やり自分のものにする」と。ずっと、アリシアがどこにも行かないように、自分を好きになるように振る舞ってきた。
それを今さらだ。今さら突き放して、逃げろと仄めかす。どうせ本当に逃げようものならこの場で殺してしまうだろうに。
自身の葛藤を消化できないまま、彼女に選択を強いている。
そして、アリシアはそれをすべて分かった上で、ディディエの突き出したナイフを自ら心臓に納めようとする。
そんなことをしてもきっと内側でジクジクと膿むだけなのに。その膿も彼女は愛してくれるだろうか。
楽になっていいのだろうか。
楽になれるのだろうか。
「ディディエ様、わたくしの魂を捧げます。その対価に、わたくしのお願いを聞いてくださいませんか」
「それ、は……」
「どうか、怖がらないで。愛することを、幸せになることを、弱さを、怖がらないでください」
躊躇い、怖れ、視線を逸らした。
けれど頬を掴まれ、非力なアリシアに優しく唇を奪われる。
カッと、全身が発火するように強張って、ぐちゃぐちゃになった感情のまま、「どうなっても知らないよ……」と、弱々しく呟いていた。
「わたくし…… あなたになら、なにをされてもいいのです」
男を殺す呪文が。
悪魔に捧げる乙女の祈りが。
雨の音と心臓の音のふたつだけが。
讃美歌の如き優しい夜の音だった。
「ア、リシア……、たすけて…………」
いつでも心のなかで叫んでいた。救われたい。助かりたい。愛したい。愛されたい。
無力な自分が許せなかった。
自己愛の塊であるがゆえに、自分を嫌悪することに耐えられなかった。
だから、人を愛することも、忘れることも、完璧ではない自分も、許せなくて……
「……、」
アリシアは両の手のひらでディディエの頬を優しく包み、彼の涙を拭ってふわりと微笑んだ。
それだけで充分だった。
彼女はいつもこう。無言で慰めて、自分が悪者になってでも男の決定的な失敗を包み込んでしまう。
穏やかな沈黙だ。
目眩がする。
健やかで真っ当な愛情に、溺れたくなる。
「僕を、許してくれる?」
「許します」
「嫌いに、ならない?」
「なりません」
「逃げない?」
「逃げません」
「カッコ悪くても、いい?」
「かまいません」
「ヒドイこと、していい……?」
ディディエは優しい女に抱かれて泣いた。
魔に堕ちるより前に、優しい女の手に堕ちた。
※合言葉『zarubara』





