48.罪の味
シェリエルはバルコニーに続くサロンで祈るように両手を握り合わせていた。
窓の向こうに見える背中が手の届かない存在であるかのように遠く感じる。
立ち上がり、数歩足を踏み出せばすぐの距離なのに。
「そんなに心配?」
「ええ。わたしには何も教えてくださらなかったでしょう」
「……」
普段はノータイムで返ってくる適当で軽薄な言葉がない。その代わり、ウロウロと歩き回っていたディディエがトス、とシェリエルの横に腰を下ろした。
片側だけ少し座面が沈み込む。ディディエはシェリエルを抱き寄せ、ギュッと腕に力を込めた。
向かいの長椅子に座るアルフォンスは死人みたいな顔をしていた。
実の母が断罪されようとしているのだから、それも当然のことであるが。
「なによ偉そうにッ! どうせ腹の内じゃあ、わたしが憎くて仕方ないんでしょう!」
ライアの甲高い声が聞こえてくる。
その度にアルフォンスはギュッと目を瞑って、耳を塞ぎたい衝動を堪えている。
シェリエルは「あーあ……」と思いながら聞いているだけだった。
「アンタさえ生まれなければ。陛下がすぐに始末していれば、こんなことにはならなかったのよ。王なら国のことを一番に考えるべきでしょう! わたしは世継ぎを産んできちんと義務を果たしたわ。それなのに、この国の王族は国より我が子が大事なんだものね。出来損ないに情をかけたりなんかするからこんなことになるんじゃない!」
ユリウスはチラ、と左の目だけでこちらを振り返り、「聞いた?」とでも言うように眉を上げる。
ディディエはそれにクッと両肩を持ち上げて「どうしようもないね」みたいな呆れ顔を返した。
これに腹を立てたらしいライアがまたキイキイと何やら叫んでいる。
彼らは人の尊厳を踏み躙る天才だった。
王国中が注目する死刑内定済みの公開裁判など当人にとっては人生最大のイベントのはずで。
そんな大舞台、歴代のベリアルドですら数人しか前例がない。
ベリアルドは公開裁判で無罪を勝ち取ってしまう事例が発生したため、ある時期から王宮内で沙汰を下し、王命によって身内に処刑させるようになった。
その頃にはこのような通信機関もなく、ともすればこれが歴史上最も大きな公開裁判になるだろう。
それなのにだ。
国王の姿はなく、王族は廃嫡された王子のみ。
宰相チャールズと元老院ハインリはユリウスを制止することもなく、陰鬱な顔で見ているだけ。
そのうちにユリウスが小刻みに肩を揺らして笑い出すと、ディディエがそろりと立ち上がってそちらに向かった。
実に自然な足取りであるが、公開裁判は王族の公務である。見学とばかりに顔を出して良い場所ではないはずだ。
「殿下、本当になんと言っていいか……」
「やめろ、お前の慰めは傷を抉るだけだ」
「そ、そうですか? わたくし、そこまで無神経ではないと思いますが……」
アルフォンスはパッと目を見開いて驚いたような顔をした。
シェリエルは「え?」と、同じように目を大きく開き、ふたりでそのまま硬直してから、同時にフッと息を吐き出した。
アルフォンスの肩から僅かばかり力が抜け、シェリエルもこの距離感に居心地の良さを感じるのだった。
あの面倒で厄介な権力者がいつの間にかシェリエルにとって数少ない気安い相手になっている。
「殿下はなぜあのふたりの影響下でそれほど真っ直ぐに性根を矯正できたのでしょう」
「お前、もしかして喧嘩を売ってるのか?」
「いえ、滅相もありません」
アルフォンスはしばし黙り、チラとバルコニーの方を見てからシェリエルに視線を戻すと、「反面教師だろ」とだけ言って苦々しく笑った。
◇
「へぇ、調子上がってきたじゃん。お前、やっぱ人をイラつかせる才能あるよ」
「それはどうも」
ディディエはギャンギャンと吠えるライアを見下ろしながらユリウスの肩を軽く叩いた。
移送直後、彼女は堂々とした振る舞いで潔く人生の幕を引こうとしていたが、ユリウスが平然としていることに腹を立てたのか、いまでは消える寸前の蝋燭みたいに燃え上がっている。
それを貴族たちはウッと顔を顰めて上体を後ろに引きながら眺めた。
文字通り引いている。
あまりに醜悪で見ていられないのだろう。
自身をユリウスに重ねて傷付き、ライアに重ねて恐怖する。
このあとどんな恐ろしいことになるか。恥晒しが目も当てられない。と。
たが、ディディエはこの瞬間を何より楽しい娯楽として眺めていた。
取り繕うものがなくなった人間の魂の叫びとでも言おうか。
命が燃え尽きる間際の一瞬の輝きは苛烈で儚く、一晩だけ花を咲かせそのまま夜明け前に燃え尽きるフラッシュマーガレットのような美しさがある。
それを強制的に引き出せるジェフリーのギフトはディディエにしてみれば夢の宝箱みたいなもので、それもあってジェフリーのことを特に気に入っている。
「なんとか言いなさいよ! 言っておくけど、アンタが母親を穢したのはアンタが悪魔だからよ! 親を魔物に堕とすなんて悍ましい子。わたしはアンタみたいな悪魔にも優しくしてやったの。感謝してもらいたいくらいだわ」
「はは、それはたしかに」
「……ッ!」
クシャッと眉を寄せて笑うユリウスを、ディディエは心臓をドキドキさせながら見ていた。
あまりにも自然に笑うから。
その笑みはディディエがゾッと鳥肌を立てるほどに病的で美しかった。
奥底に閉じ込めた感情が最高硬度のブラックダイヤのように冷たく煌めいている。
ライアも何かを感じ取ったのか、赤らんだ顔をサーっと青白く変えていく。
夕陽の茜色をもってしても、彼女の血色を補うことはできなかった。
「……感謝。うん。感謝しているよ」
「なっ、なにを言って」
「そう思えるようになったのは最近のことだけれどね。まあ、私も大人になったということだよ」
「許すって言うの…… わたしを」
「許す? とも違うかな。私はそもそも君を罰するつもりなどなかったんだ。これは仕方なくだよ。ハハ、信じられないって顔だね」
「……なん、で」
ユリウスはウン、とひとつ頷き、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに頬を緩めた。
「人には罪悪の念というものがある。特に不本意に犯してしまった罪ほど、それは自身を苛む消えない楔となる」
「……なによ、なにが言いた、いの」
「君は王妃に嫉妬心はあっても、魔物にするつもりなどなかった。あれは不本意な結末だった。可哀想に、さぞ苦しんだことだろう」
「アンタになにが分かるッ! スッキリしたわよ、やってやったってね!」
「分かるよ。私も不本意に母を穢してしまったからね。残念ながら私の良心はそこで途絶えてしまったけれど。そこはほら、他人で検証できたから。欲の深さと耐え得る犠牲は比例するらしい。君のは…… 恋心を拗らせただけのものだ」
「……は、」
「そんな小さな野望には大き過ぎる犠牲だとは思わないかい。それを誰に責められることもなく、罰を与えられることもない。自身を赦すこともできず、罪悪の念は水死体のように膨れ上がって行ったんだね。浮き上がっては自身を責め、沈み込んでは自身に言い訳する。我が子を守るためだ、国のためだ、とね。幾度も繰り返すうち、それが君にとって揺るぎない正義になった。正義心というのはね、罪悪感に効く唯一の特効薬なんだ。よく効いただろう?」
ユリウスの声は深い森の柔らかな木漏れ日が似合う美しい旋律のようでいて、ジクジクと脳を侵蝕する即効性の毒物であった。
彼の言葉に誘い出されるように、過去の記憶が至極滑らかに再生されていく。
ライアはみるみる呼吸が浅くなり、ユリウスの声にとっぷり意識を沈めていった。
ユリウスがオフィーリアを穢し、王宮の地下牢に移されてから。
はじめは安堵と達成感で満たされていたものの、次第に不安感がじわじわと染みのように広がっていった。
事が露見したらどうなってしまうのか。
ユリウスが大きくなって復讐しに来たら。
なにより、生きた人間を魔に堕としてしまった事実が重くのしかかってくる。
貴族令嬢であったライアはもちろん人など殺したことがなかった。結果的に死んでしまったメイドはいたし、その遺体を魔物にしたことはあったが、そこまでだったのだ。
暗闇でも色濃い影に付き纏われるような感覚。
もう引くに引けない。
取り返しのつかないことをしてしまった。
苦しかった。
恨み言のひとつでも言われていれば、「陛下がユリウスを幽閉しなかったからだ」とか「わたしを王宮に連れてきたのは陛下でしょう」とか、反論のひとつもできたのに。
そうやって誰かに言い訳したかったのに、国王はその機会さえ与えてくれなかった。
完全なる放置は不安で孤独だった。
だからライアは自分で自分に言い訳するしかなかった。
向き合うことが出来ていれば、とっくに穢れを溜めていただろう。
「でもね、どんな特効薬にも副作用が付き物だ。正義心は冷静な判断力を鈍らせる。信じた正義のために君は自ら罪を犯す選択をした。誰になんと言われようと自身の正義こそすべて。なんてことを信じて頑張ってきたんだろうね。ま、結果は散々だったようだけど。はは…… 今度こそ自分の保身のために、自分の意思で罪を、ッあは、あははは……」
ユリウスは空気をこぼすような控えめな笑いが止まらないらしい。
相手に不快感を与えるためではない。純粋に心の底から可笑しくて堪らないのだ。
それがあまりにも楽しそうで、ディディエも釣られてフフッ、と吹き出していた。
学院は静まり返っている。
怒号も騒めきも止み、ふたりの笑い声だけがやけに響いた。
「はー、ははは……、失礼。どこまで話したかな? そうそう。君の犯した罪だけど。——まだ正義心は効いている?」
ユリウスがそう言ってまたフッと吹き出し、それを手の甲で隠して目を細める。と、ライアは青を通り越して緑色の死体みたい顔で口をパクパクさせた。
ユリウスは王妃オフィーリアを穢すことになったすべての加害を罰するつもりがなかったと言った。
つまり、ライアが復讐を恐れ、自身の罪を隠すために手を染めた悪事にはなんの意味も無かったのだ。
ユリウスが口を噤めば罪が公になることはないのだから。
それが本心であるかなどライアに分かるはずもないのだが、本人の口から語られるだけでとんでもない爆弾になる。
彼女はハッ、ハッ、と短い息を繰り返し、懸命に脳に酸素を送っていた。
どうにか人生の整合性を保とうと必死である。
けれどもユリウスはそんな彼女に恨みでもあるのか、膜を張った満杯のグラスに少しずつ水滴を落とすように言葉を続けた。
「人は何に絶望するか知っているかい?」
「はっ、はァ…… うるさい……うるさい」
「終わりの見えない苦痛。そして意味のない苦痛だ。どんなに意思の強い人間でも終わりと意味を無くしてやれば簡単に心を折ったりする……」
「……やめて。もう、聞きたくない。やめ」
「実はね、これは、いつ言おうか迷っていたんだけど。——君が何をしなくても、あのまま放っておけば私は洗礼後に確実に幽閉されていたんだ。というより、存在ごと消えていた。まあ、だから…… ふふ、私がいまここに立っていられるのは、君のおかげと言えるかな。だからその点では感謝しているよ」
「っ、ヒッ…… う、うぇッ」
ライアはその場に胃液を吐き出し、ゼエゼエと肩で息をした。
その様子を、ディディエは大事に育てた魔花が開花する瞬間のように見つめている。
ああ、これだ。この瞬間が堪らない。
死の恐怖を克服するには強靭な精神か狂った頭が必要になる。
ユリウスはライアが狂った頭のまま人生を清算することを良しとしなかった。
そして、悪女として華々しく散ろうという覚悟を粉々に打ち砕いた。
彼女の人生は真っ黒に塗りつぶされたのだ。
足掻いた日々が何もかも無駄だったと告げられれば、残るのは底なしの虚無感くらい。
そこに、沸々と罪悪の念が溢れてくる。
それは一体どんな味なのだろう。
青臭く苦味の強い薬草のような味だろうか。
ジャリジャリと歯をザラ付かせる泥臭い砂糖水のような味か。
塩辛いのか。頬が痙攣するような酸味があるのか。
ディディエは味わったことのない罪の味を彼女の体温、目の動き、発汗、鼓動の速度、震えなどから想像してはうっとりする。
いいなぁ……
彼は味気ない人生に少しでも彩りを添えようと、こうして他人の感情を拝借するのである。
「んハッ、アハハハッ、いやぁ〜、ご苦労様だよ、本当。他の奴らもさぁ、大義だなんだって一生懸命だったけど、いまどんな顔してるんだろうね。連れてくれば良かったぁ」
「そう? きっと“そんな馬鹿な”とか、ありきたりな台詞しか聞けないよ」
「それはそれでいいんだよ。人それぞれの良さがあるんだから」
観衆は言葉を失くし立ち尽くしていた。
自分たちは一体何を見せられているのか。
なぜこんなことになったのか。
どうにもならなかったのか。
誰が悪いのか。
誰が間違えたのか。
もし、ユリウスが居なければ。
もし、王がライアを早急に処分していれば。
誰かが死ぬことも、国が滅びかけることもなかったのではないか。
それでも、過去にするには鮮明すぎる“自分たちが彼らに救われた”という自覚があった。
やるせなさと怒りが募るばかりである。
ポツ、ポツり、とオラステリアに雨粒が落ちる。
いつの間にか日は沈み切り、月の光も星の瞬きもない闇が訪れていた。
正門の向こうでグルルルとドラゴンの低い唸り声がしている。
自身の輪郭さえ分からない暗闇のなかで、このまま闇と同化してしまうのではないかという錯覚に襲われる。
ライアだけが真正面から本館から溢れる光に照らされ、無様な姿を晒していた。
それを見下ろすように——
悪魔が真っ黒な微笑みを浮かべている。
彼らは窓の光を背にした輪郭だけのシルエットでしかないはずなのに、なぜだか、笑っているような気がしたのだ。





