15.無詠唱魔法
「君、実験台になってくれないか?」
ノアは扉を感知できないわたしに、そう提案した。どうしてこう、わたしの周りはわたしを実験台にしたがるのか。
「それは先生の理論的には大丈夫なのですか? 一応聞きますけど」
「まあ、理論的にはね」
また何か良くない状況になるのではという不安よりも、魔術への興味が勝ってしまった。なぜ何もないところから水や火が生まれるのか、概念では無く仕組みを理解したい。
「ではお願いします」
「ふふ、そうこなくては。さあ、目を瞑って楽にして。今から私の思考と繋ぐよ。魔術を使うからそのまま感覚を受け入れて」
なんだろう。ふと、義体化したSFアニメのプラグを想像し、うなじに緊張が走る。
ノアは首ではなく、わたしの頭にそっと手を置くと、じわりと頭に熱が籠った気がした。
「おや? なんだろうこれは。君、ギフトでも持ってるの?」
「たぶん無いと思います」
何、何なの。また何か問題でも?
ノアがジッと手を置いたまま頭の熱だけが上がっていく。
「うん、大丈夫そうだ。とりあえず、やってみるよ。準備はいいかい?」
「お願いします」
ノアはもう片方の手をわたしに見えるよう前に突き出した。
その時点で既に、わたしの頭の中には何かが流れ込んで来ていた。自分のものではないのに自分の感覚のように感じる不思議な何か。
下ろしたままのわたしの右手に魔力が集まるように感じるのは錯覚で、実際にはノアの手のひらの向こうに水色の魔法陣が浮かぶ。ああ、魔法を使うときに景色がブレた気がしていたのはコレか、などと考えてると、手から放たれた魔力が魔法陣を通り抜け、そして、水へと変わる。
これが、扉……? 魔法陣が扉ということ?けれど、わたしには扉よりもしっくり来るものがあった。
「コンバートですね」
バツっと共有されていた感覚が切れると、目の前の魔法陣が消え、水も地に落ちる。
「コンバート?」
「あ、いえ。変換でしょうか。魔法陣が見えました。魔力が魔法陣を通ると水に変換されるのでしょう?」
「ふむ、陣が見えたか。やはり感覚が良いね、感じて欲しいのはそこじゃ無かったんだけど」
あれ、違うの?たしかに仕組みは分かったけれど、だからと言って自分の内に魔法陣をと言われると訳が分からない。
「その陣はこの次元と別の次元の狭間に出来る中間の次元に描かれている。だから自分の中に別の次元を作り、そこに魔法陣を生成すればわざわざ声に出さなくても思考で魔術を扱える。分かるかな?」
次元というややこしい話になってきた。わたしは物理は苦手なのだ、文系出身のエンジニアだったので。
次元の概念はさっき見たままの印象だと、レイヤーが近い。同じ座標にはあるけれど、普段は決して交わらない次元。そこに干渉するために呪文を唱え陣を張り、陣の部分だけレイヤーが結合される。
けれど、自分の内に別の次元を作るというのは、そのイメージから離れてしまう。お腹の中に水が溢れる姿を想像し、ブンブンと頭を振った。
「自分の内に次元を作るというのはどうするのですか?」
「そうか、君はそこからだったね。さっきの水を出した時のように、《エスパス》と唱えてごらん」
言われるままに、右手を突き出し、魔力を集める。
「エスパス」
ブン! と目の前に陣が現れ、水球と同じくらいの大きさの歪みが生まれた。ブラックホールのようなハッキリとした穴ではなく、陽炎のようにゆらゆらと景色が揺らいでいる。
「固定されているから手を入れてみるといい」
そのまま手が消えてしまったらどうしようと思いつつ、またも好奇心に負け、人差し指を入れてみる。景色の揺らぐその場所を過ぎると、わたしの指先は消えて行くように見えた。
この先が別の次元ということか。
寒くも暑くもない指先がどこまで行くのか試してみたくて、ゆっくりとそのまま手を伸ばす。手首まで来たあたりで何かに当たって進めなくなった。上下左右と手を動かし、だいたい大人の手のひら分の空間しかない事を確認する。
「わぁーすごい! もしかして魔力量によって大きさも変わるのですか?」
「そうだね、上級魔法なら客間一つ分くらいにはなるよ」
リアル四次元ポケットだ。すごい。魔術って面白い!
非日常な水よりも更に非現実的な魔術のおかげで、余命の事などすっかり忘れてわたしは魔術に夢中になっていた。ノアに共有してもらった感覚とそれから見えるようになった魔法陣。次元という概念と魔法、魔術の関係。パズルを組み立てるように事柄が浮かんでは繋がり、仮定に矛盾を感じれば消え、また別の仮定へと繋がって行く。
「この揺らぎを自分の内側に、か。今作った次元とは別の次元からやってくる物質…… どういうことだろ。いや、内側というのが体内という意味じゃないのか。体内じゃなく自分という概念…… 想像、一つの次元、 脳がOSだとしたら、自分を一つのマシンと考え…… その中にVMをたてる。VMから外へ……ソースをコンバート」
「君、頭にも魔力使ってるね」
「え?」
突然降って来た言葉ですぐに現実に引き戻され、その時自分の思考が漏れ出ていた事にも気付く。というか、頭に魔力とは何の事だろう?
「さっき繋いだ時、少し違和感があったんだ。捉え切れないというか、ブレているというか。今も少しだけ魔力が頭に集まっている。もしかしたらそこで魔力を使っているから石化していないのかもしれないね」
「頭に筋肉はありませんよね?」
「ん?」
「え?」
魔力を使うというのは強化の話ではなくて?強化って筋肉の補助でしょ?せっかくまとまりかけた次元の概念がどこかへ行ってしまった。
「魔力は筋肉を動かすだけではないよ。それこそ、少しなら血液を止める事も出来る。頭に血液を送ったところで何が出来るかは知らないけど、もしかしたら既に君は内側に次元を作れているんじゃないかな?」
あ、そうか。魔力は頭でイメージして操作する。さっき脳をOSに喩えたのはあながち間違いでは無かったのかもしれない。
わたしはスッと目を閉じ、呼吸を整える。腹式呼吸を繰り返し、血液の循環をイメージしながらそのまま魔力の動きへと意識を向ける。想像の力で操作できるのなら、馴染みのあるものを想像すればいい。
何もない真っ暗な空間にウィンドウが現れる。これがわたしの思考。その奥に、別のウィンドウが二つ並んでいた。
あ、コレ……
まるで夢を見ているみたいだった。
全く知らない景色のはずなのに、その世界、自分、これまでの経緯をすべて理解しているような、そんな感覚。この中ではこれが真実であり、虚構だとは疑いもしないような仮想体験。明晰夢のような不思議な空間。
メインウィンドウの後ろに並ぶのは前世と前々世。ヘルメスが以前、前世の記憶が焼き付いていると言っていたけれど、その通りだったようだ。意思さえあればどの情報へもアクセス出来る。前世の記憶を辿れたのはデータとして残っていたからだったのかと一人納得していた。
殆ど記憶の無い、前々世はどうだろう。動きが鈍く、情報が欠落しているように思う。実際にキーボードを操作し、コマンドを叩くわけではないけれど、潜ろうとしても上手く情報を拾えないような引っ掛かりがあった。
さすがに二世代前だと綺麗に情報が残ってないのかも。まあ、前々世は無理に思い出す必要もないか。性別も違うしまた人格が混乱したら嫌だ。
これと同じようにまた別のウィンドウを立ち上げる。なんとなく、さっきエスパスを使って感覚は掴んでいた。ブンッと起動音と共に新しいウィンドウが立ち上がり、わたしはノアの言葉を理解した。
ここに魔法陣を生成するんだ。
パチっと目を開き、手を前に突き出す。もう目を瞑らなくても、一つの次元を感覚で捉える事が出来た。心の中でドローと唱えると、頭の中に魔法陣が浮かび、それと同じ物が手の前に現れた。
なるほど、どこに生成するかまで想像すれば、そこへ魔法陣がコピーされるのね。
瞬間、綺麗な水球が出来上がり、ふよふよと目の前で浮かんだ。
「うん、いいね」
「アハッ! アハハハハハ! なにこれすごい!もう可能性なんてものじゃないでしょ! こんな仕組み、誰が考えたんだろ? 神様? やっぱ神様ってすごいんだ」
可笑しいのか嬉しいのか分からないけれど、全身が騒めくような震えが止まらない。ドクドクと鳴る心臓は今まで感じた高鳴りとは別の高揚感だった。
「魔力に当てられて狂ったかい?」
「あ、いえ。失礼しました。興奮しちゃって…… でも本当に凄いのですね、全能感というか、何でも出来そうな気分です」
まだ鳴り止まない心臓と、取り乱した恥ずかしさで頬が熱くなる。ノアは不思議なものを見るように首を傾げ、今度は花が溢れるように笑った。
「何でもは出来ないよ、出来る事だけしかね。でも、君なら……」
ノアの笑う姿は、わたしの成功を喜び、期待をかけてくれているようで、余計に嬉しくなってしまう。
この無詠唱という技術は、ただ詠唱が不要というだけではない。次元を新しく作った時に気付いたのだ。仕組みを理解し、法則、感覚さえ掴めれば、心の中ですら呪文が要らなくなると。だって、内側に次元を作る時、わたしは心の中でも詠唱しなかったのだから。
きっと、前世の記憶が別の次元として残っていたからこの感覚が掴めたのだろう。
早く色んな魔術を試してみたい。どうやって術式が組まれているのか、解析もしてみたい。こんなに心が躍るのは前世を通しても初めてかもしれない。
楽しくなってしまったわたしは今度は陣生成した後、発動させずに止めてみた。模様を眺め、それを記憶する。
と、ここでいきなり内臓が口から出そうな吐き気に襲われる。ついでに頭も平衡感覚を失うほどにぐらぐらと揺れはじめた。
「うっ……」
「少し調子に乗りすぎたね。急に多くの魔力を使うと魔力酔いを起こす。おいで、整えてあげよう」
「そ、そうでした…… 魔法陣を観察したくて、つい」
上がってくるのは胃液ではなく高濃度の魔力だったみたいだ。胸焼けしそうな不快感である。魔力に濃度があるのか知らないけれど。
目眩と吐き気に耐え切れずノアの足下へしゃがみ込むと、ノアは洗礼の儀の時のように背中に軽く手を当てた。すると、次第に内臓を揺らすような蠢きが収まってきて、どうにか普通に息を吸えるようになる。
「ありがとうございます、ノア先生」
「陣を固定するのはそれなりに魔力を使うからね。だからギフテッドも少しずつ、生涯をかけて魔法陣を描き写すんだよ」
ギフテッド、ギフト保持者の事か。そう言えば、病の鑑定のギフトは、術者が亡くなっても残っていると言っていた。
「ギフトも魔法陣があるのですか?」
「ああ、ギフトによるけれど、高度な物は洗礼の儀で使うような複雑さだ。死ぬまでに書き残せれば良い方なんじゃないかな」
ギフトはそれこそ、祝詞や呪文を必要としない、個人に与えられた神からの贈り物だ。詠唱も必要無く、ある日突然力に目覚めるらしい。
無属性の魔法も含め、魔術では不可能な超能力のようなものだと教えられたが、正直、わたしからすれば魔法も超能力だった。そして、今次元を作り上げた感覚から、余計にギフトと魔法の差が分からなくなる。
先生の教えてくれるものが魔術、先生に出来ないことがギフト。とりあえずそう理解しておこう。
「そうだ先生、今夜わたしの洗礼のお祝いをして貰えるそうなのですけど、良かったら先生も出席していただけませんか?」
「ん、それは遠慮しよう。私が行くと、折角の祝いの席が台無しになってしまうから」
ノアはやはり黒髪のことを気にしているようで、ポンポンと背中を叩き、魔力調整の終了を告げた。
「そうですか……先生は悪魔の森に住んでるのですよね?」
「私が悪魔の森に住んでいると、なぜ知っている」
「なんとなく、そうかなと。グリちゃんもたまに遊びに行ってるようですし。夜お腹が空いたら遊びに来てください。ミルクとお肉、用意しておきますから」
ノアは自分と同じくこの世界に存在しない色。それなのにわたしは今夜お祝いをしてもらって、ノアはその色を理由に一人で森へ帰るのだ。
わたしがそれについて何かを思う事自体、失礼にあたるかもしれないが、少し寂しく感じた。わたしに祝福を授け、魔術の扉を開いてくれたのはノアなのに。
「フフ、何を考えているか知らないけど、ミルクは必要ないよ。夜、気が向いたらお邪魔するかもしれないね」
美術品のような整った笑みではない、少し崩れた微笑みが、わたしの引け目のようなものを取り払ってくれる。
初めてこの姿を見た時よりも僅かに人間らしくなっている気がした。何百年もかけて人と接しながら、人間になる妖の話を思い浮かべていると、ポンポンと頭に手が置かれる。
「今日はここまでにしようか、シェリエル」
「はい! ありがとうございました、ノア先生!」





