8.罪と罰
私には名前がない。
私が生まれる少し前に、父親が罪を犯し投獄され、母は私を産んでそのまま死んでしまったから。
そして、命の加護があった私は、少しして神殿に引き取られたらしい。
小さい頃は何も疑問に思わなかった。一緒に生活する他の二人も親は居なかったし、父や母という言葉すら知らなかった。
ここで始まり、ずっとここに居るのだという事しか知らなかった。
でも、二人には名前があった。それだけが、少し不思議だった。
洗礼の儀のとき、名前がないと儀式が出来ないからと、世話役の一人がその場で付けてくれた。
「⬛︎⬛︎⬛︎」
口に出すのも悍ましい、醜悪な意味だと知ったのは、洗礼を終えて他の神徒と生活するようになってからだった。
私は何も知らなかった。自分がなぜ殴られるのか、何故食事を貰えないのか、何故身を切られ、火で炙られ、なじられ、蹴られ、水に沈められ、なぜあの様な名前を付けられたのか、知らなかった。
その理由が父にあると知った時、私がここにいる理由も知った。
私には罰を受ける理由があった。顔も知らない、存在すら知らなかった親の罪を受け継いだから。
それまで知らなかった事が罪なのかもしれない。
それからは毎日、一生懸命神に祈った。どうか赦してください。どうか、親の罪を、私の罪を赦してください。
どれだけ身体が痛んでも、罰を受けるのは当然だと思った。罪が赦されるまでは罰を受け続けるのだ。いつになったら赦されるのだろうと考えてしまう事も罪なんだ、と思った。
「お前にちょうど良い仕事があるから、しっかり勤めを果たして来なさい」
初めての御勤めが決まった日、私は初めて不安になった。これ以上、罪を重ねたらどうしよう。
まだ神官にもなっていない私が、人様の大事な儀式で失敗でもしたら、どうやって罪を償えば良いのか。
誰のものでもない、自分の罪を重ねる事が不安で仕方なかった。
名のある侯爵家の御令嬢は、とても、キレイだった。まだ幼く、私があの名を貰った時と同じ年なのに、礼儀正しくこんな私にも親切に接してくれる。
日の光に煌めく絹のような髪は美しく、青い目は清らかな純心を表しているのではないか。私とは正反対の、清く美しい存在。あの子を目にして、自分の汚らわしさをより自覚した。
なのに、私はまた罪を冒してしまった。名を聞かれぬよう、詠唱が小声になってしまったからだろうか。それとも魔力が足りなかったのか、いや、罪人の私がそもそも儀式など出来るわけがなかった。
赦されてない私が、神々に奏上など……
気付くと上等の寝台に寝かされて居て、どこまで私は罪を重ねるのかと、自分に辟易とした。
謝って済む問題ではないのに、浅はかな私は無様に赦しを乞う。なのに、御令嬢はそんな私に、「悪くない」と声をかけてくださった。まだ幼く小さな女の子なのに。
その後出された食事は、見た事も食べた事もないそれは豪華で美味しい食べ物ばかりだった。
夜中神官がこっそり隠れて舐めている蜂蜜……あれをたっぷり暖かいミルクに入れてくれた。
こんな温かな食事、初めてだった。
オフロ、というものを勧められたときは、やはりか、と思った。罰を受ける時が来たのだと。
その罰を受けたことは何度もある。沸騰したお湯に頭を押しつけられたり、清めと言って頭からかけられることもある。なかなか傷が治らず横になって寝ることもできないため、少し覚悟がいった。
ここで茹で上げられれば、少しは罪を償えるのだろうか。
「神官様、お湯加減いかがですか」
硬直する身体に何の痛みもない事に気付き、慌てて全身を見回した。爛れる事もなく、むしろ心地よい温かさに包み込まれている。どこが罰なんだろうと考えを巡らせても、その時の私は気付く事が出来なかった。
良い香りのする石鹸で頭を洗われ、身体に染み渡るような飲み物も渡される。これの一体どこが……
豪勢な客室は身が縮こまる思いで心苦しかったが、柔らかい寝台に入った後の記憶は殆どない。夕食の時間にも気付かないほど深く眠っていた。
人の声で目が覚めた時、しまったと思った、寝過ごしたりなんかすれば、また罰が……
聞き慣れない声に頭を上げると、ヘルメス様がいらっしゃった。私はここがベリアルド侯爵家の客室だと気付き、今朝の罪を思い出した。
儀式の失敗をし、欲のまま食事をし、昼間から眠りこけるなど、私はどれほど罪を冒すんだろう。
けれど、ヘルメス様は罰を与える事なく、少しだけ話をして夕食を用意してくださった。
一人の食事でもまたあの豪華で優しい温かい食事。
私の世話をしてくれる人までいる。後が怖い、とも思った。
愚かにも、また眠り、それから次に目を覚ました時、私は混乱した。
あの、清らかな御令嬢、シェリエル様が目の前に居たからだ。
そして、神殿ではない事にホッとしている自分に気が付いた時、私に与えられた罰を理解した。
そうか、この温かみを知る事、それが罰なんだ。既に、あの暗く先の見えない当たり前の日常に戻るのが恐ろしく感じている。
シェリエル様は儀式を成功され、それも私が失敗の原因ではないと、優しく声をかけてくださった。
この天使のように愛らしいお方は、実は悪魔なのではないか。
この罰は、今まで受けたどんな罰よりも恐ろしい。気がどうにかなりそうだった。
今すぐ戻らなければ。
けれど、この愛らしい悪魔様は既に神殿にも連絡し、まだ数日留まるようにと仰る。この罰を理解していなければ、言われるままに滞在しただろうか。
今戻れば、まだ大丈夫かもしれない。罰を拒むなど、初めてだった。それほどに恐ろしかった。
もし、あと、一日二日でもこの温かさに触れていたら、神殿に戻った私はどうなるだろう。
ああ、恐ろしい。シェリエル様は、なんという事を考えるのだ。
あまりの恐ろしさに、私は胸の内を言葉にしていた。
どうにか、赦してほしい。どうか、慈悲をと。
シェリエル様は、悪魔のような一言を私にくださった。
『戻りたいのですか?』
戻りたくない。それが自分の発した言葉だと理解した時、また気が付いてしまった。
私は本当は戻りたくないのだ。戻りたくないと思う事すら罰なのだとしても、どうしようもなく、あの暗く冷たい神殿には帰りたくない。
どれほど残酷な事をなさるのだろう。私には神殿以外に帰る場所などないというのに。
なんて、恐ろしい悪魔だ。そういえば、ベリアルド侯爵家は悪魔と呼ばれていると、世話役から聞いたことがあった。なるほど、だから私がここに。
『では、戻らなくてもいい方法を考えましょうか』
どういう事だろう。頭の悪い私では理解出来ない。何の罰だ? けれど、神殿で私をいたぶる信徒、神官のような歪んだ笑みではない。心の弱い私など、すぐに縋り付いてしまうような穏やかで、安心の出来る、そんな微笑み。
あそこに戻らなくても良いなど、そんな甘い言葉…… そんな期待を持ってしまうなど……
ああ、もう分からない、シェリエル様が天使か、悪魔か。
私は罪人だ。どうせなら、この清らかな悪魔様から罰を受けたい。
戻らなくても良いという目先の希望に、縋ってしまうほど私は愚かなのだ。
もし叶わなかった時の地獄など、今は考えられるわけもない。
私はそれから、自分の罪を告白した。そして、卑しく赦しを乞う。
「シェリエル様、私は昨日、名が無いと申しました。けれど、本当は口にするにも悍しいような、名が、あります。お耳に入れたくないので黙っておりました。申し訳ありません」
「そうなのですね。明かしたくないのなら、大丈夫ですよ」
シェリエル様はよく「大丈夫だ」と声をかけてくださる。私はその言葉に救われた気になってしまうのだ。
言い訳がましい私の懺悔を、何でもない事のように受け止めてくださる。
父の話、母の話、神殿での話、こんな小さな女の子に私の罪と罰を話して聞かせるのは心苦しい。清らかな存在を穢してしまうようで、私はとんでもない事をしているのではと。
けれど、シェリエル様は表情一つ変えずに、全てを受け止めてくださる。
やはり、悪魔ではなく天使なのだろうか。
神々に祈り続けたこれまでの日々、私はどこかで神を恨んでいた。だからこそ罪が赦されなかったのかもしれない。
けれど、今でも思う。私が祈るべき相手は、この目の前の女の子なのではないかと。
「シェリエル様、私は、どう罪を償えば良いでしょうか」
「罪? 神官さんに罪などないでしょう? 親は親、子は子ですよ。親の罪まで被っていたら、ベリアルド一族など三代も続かなかったと思いますよ」
あっさりとそう言ってのけるシェリエル様に、不敬ではありがならも頭がおかしいのかと思った。
では、私は今まで何故……
「シェリエル、その話は私からするとしよう」
「あ、はい。そうですね。でも神官さん、自分で自分を罰するのはおやめくださいね」
何だろう、私はこれまでの自分が分からなくなった。けれど、シェリエル様は私より私の事を知っているように思えて、全てを委ねてしまいたくなる。
「少し疲れましたか? 食事をとったらまた休んでください」
「はい…… 感謝致します、シェリエル様」
食事をまた頂けるのか。本当に、私はまだここに居て良いのだろうか。
「シェリエル、先に戻りなさい。私は少し調べてから向かおう」
「はい、お爺様。では、お先に失礼します。神官さん、ゆっくり休んで退屈になったらお散歩でもしましょうね」
「はい……」
散歩……? 退屈というのは、どういう事だろうか。
シェリエル様が退室なさると、ヘルメス様にまた二、三質問される。
「君は普段もこのように泣いたり錯乱したりするか?」
「い、いえ。大変申し訳ありませんでした。普段はこのような事ないのですが……」
「いいんだ、泣く事は悪い事じゃないからな」
その後、少し話をしてから、ヘルメス様は私の腹に手をかざした。
「ふむ、おかしいな」
何が…… 私はこれから腹を裂かれ、中身を調べられるのだろうか。
そんな事を考えていると、ヘルメス様は片眉を上げ少し笑った気がした。
「安心しなさい、痛いことはしないよ。心は痛めることになるだろうが、それに耐えられるなら、君は罪から解放されるだろう」
私の考えを見透かしたようにヘルメス様が道を示してくださる。
罪から解放……? まさか、そんな事……
「シェリエルの側に居なさい」
シェリエル様の側に? 先程の散歩のことだろうか。私などに同行が許されると?
何一つ理解が出来ない愚鈍な私を残し、ヘルメス様は行ってしまった。
私は一体どうなるのだろう。
けれど、胸の痛みと引き換えに、少しだけ頭が軽くなった気がした。





