17.ヘルメスの訪問
ディオールの出資宣言から数日。
ライナーの商会は大変なことになっていた。
洗礼も終えていない子どものシェリエルが実験的にはじめた事業と、現領主夫人が出資する事業とでは意味合いが違ってくる。
精油と香油、そしてフローラルウォーター、もとい化粧水は、これまでの生産工程を変えるだけだったので順調に生産準備が整っていた。
しかし、植物油と精油を使った石鹸は、材料となる植物油を大量に使うため、今のところ城で使う分だけ研究がてら作ってもらっている。
「シェリエル様、このところ少しお疲れでは? 毎回事切れるように眠ってしまうので心配です」
朝食前にライナーからの報告書を眺めていると、メアリがホットミルクを持ってきてくれた。
「ちゃんと生きてるから大丈夫だよ」
たしかにやる事は増えたし、書類を目にする事が多くなった。
忙しいように見えるかもしれないが、他にやる事もないのでちょうど良いくらいだ。
なにせ、ここには娯楽がない。
庭に出るには着替えや何やらで大変だし、セルジオの言った通り専門的なことはベルガルがやってくれるし、娯楽のない退屈は心が疲弊するのである。
……あの某兄がろくでもない趣味を持つのも、退屈だからなのかも。
暗号文みたいな書類を置き、専用の木箱に仕舞うと最近気に入っている本を開く。
本と言っても紙束に近い。ついでに、信じられないくらい読みづらいのだが。
これは紙が貴重なためらしい。
「授業までまだ時間がありますのに、もうお勉強されるのですか?」
「うーん、続きが気になっちゃって。外国語を覚える為の歴史書なんだけど、物語みたいに書いてあるから面白いの。文化とか人とかすごく詳しくて」
メアリは呆れたように笑みを溢すと、理解できないみたいな顔で仕事に戻って行った。
——バサッ‼︎ ガタガタガタガタッ!
突然、窓が割れるのかと思うほど大きな風が吹いた。
驚いてそちらに目を向けると、窓のすぐ側にあった大木が禿げ上がりそうなほど枝を揺らしている。
「わぁ、すごい風!」
ここにはインターネットもテレビも無いためか、季節や自然の変化に良く気付くようになっていた。
前世では夏になったことを実感しないまま秋を迎えた事もあったくらいなので、こういうのも良いなと思っている。
何だっけ? ロハス…… は何かちがうな。スローライフ? だっけ?
ふと浮かんだ考えも、またすぐに遠く離れた国の王位継承争いへと戻って行く。
ちょうど話が佳境に入ったところで朝食の時間となってしまった。
「シェリエル、紹介しますね。こちらが僕の父で君の祖父にあたる、ヘルメス・ベリアルドです」
「は?」
「この子が……」
食堂に入るや否や、扉のすぐ前でセルジオやディオール、ディディエと見知らぬ男性が集まっていた。
ヘルメス……お爺様?なんで急に?はぁ〜めちゃくちゃ怖そう、けどめちゃくちゃ渋い!イケオジとかいうレベルじゃない。これが、紳士か。おじいちゃん?お父さんでもいいくらいじゃ?でも落ち着いた雰囲気に溢れる貫禄。はぁ〜、こわい! 大人だ!これが大人だ!
「シェリエル? なんか、飛んでない? 大丈夫そ?」
ディディエの言葉にハッと我に返り、慌ててスカートを摘み膝を折った。
「初めまして、シェリエルと申します。どうぞよろしくお願いします」
「ああ。ヘルメスだ」
はぁ〜、かっこいいけど怖い〜!
ミルクティーのような淡いブロンドをオールバックにしたヘルメスは、いかにも貴族という面持ちだった。
補佐官や使用人以外に他の貴族を知らないシェリエルだが、溢れる気品が貴族っぽい。幼稚な感想しか出てこないのはまだ頭が追いついてないのだろう。
ヘルメスは言葉少なくこちらを一瞥して、また側に立つセルジオたちに向き直す。
彫りの深い顔に刻まれた皺が、渋みと貫禄を出しているのだろうか。
そんな事を考えながら席につくと、ヘルメスも一緒に朝食となった。
「それで、連絡も無しにいきなりやって来るなんてどういう事です?」
「魔鳥を飛ばしたが私の方が速かったみたいだ。そろそろ届くのではないか?」
「魔鳥より速くって…… まさか従魔で飛んで来たのですか⁉︎」
「ああ、ちょうど研究の為に従魔にしたグリフォンが居てな。目立たぬよう夜のうちに出たら一晩で着いたのだ。そうだ、餌をやっておいてくれ。東の塔の近くで休ませている」
振り回されるセルジオを見るのは初めてで、先代当主の格というものを見せつけられた気分である。
て、東の塔ってわたしの部屋の近くでは? さっきの突風グリフォンだったの? ちょっと見たかったな。
「ディディエは大きくなったな。人心は理解出来そうか?」
「はい、シェリエルという妹ができ、学問では理解しきれなかった事を日々学んでいます」
やけに大人しいと思っていたが、ディディエは普段の軽薄な態度を完全に封じている。
いかにも優等生ですが? という顔をして笑うディディエが逆に恐ろしい。
お兄様そんな良い子のフリまで出来たの……
「楽にしなさい。読まれまいという力みが相手に警戒心を抱かせるぞ」
「……はい、精進します」
鉄壁に思えた優等生スマイルは消え、ディディエは分かりやすく落胆の色を見せた。
シェリエルは気配を消して、ヘルメスを盗み見る。マジマジと視線を送る度胸はないけれど、まともな血縁者と初めて会ったので怖さはあっても気になってしまう。
「シェリエルと言ったか……」
「ハイッ!」
目は合ってないはずなのに、突然名前を呼ばれ身体が跳ねる。
「午後の予定はどうなっている?」
「あ、史学の授業があります」
「そうか。ではその時間、私が人心を教えよう。ディディエも同席しなさい。と、その前にセルジオには聞かなければならない事があるようだな」
ヒィ…… いきなりですか? 大丈夫です?
固まっているのはシェリエルだけではなかった。セルジオ、そしてなぜかディディエも固まっている。
ニコニコと上機嫌で肉を切り分けているのはディオールだけだ。
「だいたい、あの手紙は何だ? 娘が出来たので一度診に来てください、だと?」
「いえ、アレはその、通信の魔導具も使えず…… 仕方なかったんですよ」
食後にまずセルジオが連行された。廊下に消えていく背中は叱られる前の息子のものだった。
ディディエはそれに「大人ってなんだろうな……」と、憐憫な視線を向けていた。
「ここに来るの久しぶりだな」
「お兄様は以前からヘルメス様の授業を受けられていたのですか?」
部屋に入るなり少し懐かしそうにあたりを見回していたディディエは、大ぶりな長椅子に座るとシェリエルを手招いた。
ヘルメス専用の研究室。すなわち、カウンセリング用の部屋であった。
ディディエはここを「尋問室」と呼んでいるらしい。
「僕の執着はお爺様に似ていたし、少しだけ危険視されていた時期があるからね。たまに、診断をかねた授業をしてもらってたよ」
「危険視?」
「ああ、シェリエルが来るまで退屈過ぎてさ。いろいろ試してたら“加虐性有り”みたいな判定になっちゃったんだよね」
ディディエはやれやれ、信じられないみたいに首を振って話を続けた。
「だいたいさ、父上は剣技だから境界が明瞭じゃない? 斬らなければ良い話だからね。でも人の心なんてどこからどこまでが害になるかは人それぞれじゃないか。遊びと虐めって受け手に依存する」
「そうです、ね。?」
「だから、その境界っていうのかな。人の傾向とか身体的な変化とか。試してみないと分からないじゃない?」
「もしや、人の心をご存じない……?」
「ああ、シェリエルはあれか。たくさん記憶が混ざっちゃってるから覚えてないんだね。子どもってそういうものだよ」
いや、ふつうはもっと別のところで学ぶでしょう?
絵本とか、御伽話とか、あとは両親……
ア。両親はアレか……
「なるほど、だから出会った頃のお兄様はあんなに……」
「ん? あの頃にはもう合格判定は貰ってたけど」
「え?」
「ん?」
お互い首を傾げていると、いつの間にかヘルメスが扉のそばに立っていた。
「ディディエは言葉だけで人を殺せないか、城の人間で試していたんだ」
「お爺様、早かったですね」
え、今なんて? お兄様、そこ流すんですか?
シェリエルは目を大きくしてふたりを交互に見た。





