中間市 -12:57-
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
一人の男が電柱の影に腰掛け、荒々しく息を吐いている。
場所は中間市の住宅街。辺りは霧に包まれ、白い闇の中へと沈み込んでしまっている。
男は天を仰ぎ、荒れる呼吸を必死に整えようとする。
「くそ……! なんだってこんな……!」
男は悪態をつきながらあごに垂れてきた汗をぬぐい、電柱に背中をつけながらゆらりと立ち上がる。
この日、男は恋人の住むアパートで目が覚めた。
一晩中、彼女と思う様愛し合ってしまったせいで、目が覚めたのは昼直前。あいにくと彼女の自宅の冷蔵庫には食べられるものがほとんどなかったため、男は彼女を置いてコンビニへと買い物へいった。
辺りを包み込む霧に、はじめこそは戸惑ったもののこういうこともあるだろうとコンビニへ向かった男が見たものは……豹変した住人たちと、突如飛来した化け物の姿であった。
さながらB級映画に出てくるゾンビのようないでたちの住人たちに驚き、空から襲い掛かってきた化け物の姿に悲鳴を上げ、男はコンビニで食糧を買うことも忘れ、そのまま恋人の待つアパートまで逃げ帰る羽目となった。
だが、彼を眠って待っていた恋人は……隣に住んでいた隣人たちのよって無残に食い散らかされてしまっていた。
安普請のアパートに、盗みに入るものもいないだろうと、鍵をかけなかったのが失敗だった。
彼女と一緒にお互いを愛し合った布団は真っ赤に染め上げられ、彼女の体はもはやただの肉の塊と化していた。
男は再び悲鳴を上げ、がむしゃらに逃げ……そして今に至る。
「ああ、ちくしょう……!」
男は滲み出す後悔を振り払おうと、必死に頭を振り回す。
少なくとも、鍵をかけていれば恋人は助かっていたかもしれない。
閉じたまぶたの裏に浮かび上がるのは、こぼれた臓器と、紅く染まった布団。
そして、何もわからぬままに絶命した彼女の呆然とした表情だった。
「っ!」
慌てて目を見開き、男は冷や汗を拭う。
だが、全身を襲う悪寒は一向に治まらず、体も先ほど見た光景のおぞましさに震えがとまらない。
「く、くそ……! し、死んでたまるかよ……!」
男は何とか自分を叱咤し、電柱の影から離れるように動き出した。
目指す場所は……ひとまず自宅だろうか。
彼女の住むアパートから大体三十分程度で到着する。携帯電話は彼女の家においてきてしまったので、家にあるパソコンで何とか現状の把握をしておきたい。
いまや世界中の情勢を一瞬で知ることのできるパソコンは、まさに文明の利器といえる。男も、家にあるパソコンで現状を何とか把握し生き残ることだけを希望に足を必死に動かすことができている。
そんな男の耳に、誰かの声が聞こえてきた。
「 ミ ツ ケ タ ァ … … … 」
「っ!?」
男が声のしたほうを向くと、わき道から誰かがこちらを見つめているのが見えた。
ズリズリと壁に体をこすりつけながら近づいてくるそいつの表情は明らかに常軌を逸していた。
わき道から現れたそいつは、ほうけたような表情からよだれをたらしながら、男に向かってゆらりと腕を伸ばしてくる。
先ほど恋人を殺していたものたちによく似ていた。つまり、こいつは。
「 ア 、 ア ァ ー … … 」
「く、くそ……こんなところにも!?」
男は目の前に現れたゾンビの姿に戦きながらも、すぐに踵を返して自宅に向かって駆け出してゆく。
「ハッ! ハッ! ハッ!」
細かく息を吐きながらも、霧の中を駆け抜けてゆく男。
そんな男の背後を追うように、駆け足で駆け抜ける音が聞こえてきた。
「 マ ァ テ ェ … … 」
「くそ! 追ってくるのかよ!?」
聞こえてきた声は、先ほど現れたゾンビのものだ。
足音の近さや感覚から察するに、向こうもこちらを追って走っているようであった。
ゾンビといえば動きがのろいことが多いが、どうも先ほど現れた奴は走ってこちらを追いかけてくるようだ。
「ちくしょう! 何が悲しくてゾンビと追いかけっこなんざ……!」
男は悪態をつき、ゾンビに追いつかれぬよう必死に足を動かす。
が、特に運動を継続していたわけでもない男の足は、後ろから迫る生命の危機という緊張感には耐えられなかった。
がくがくと震える足は、勢いよくもう一方の足に引っかかってしまい、男は盛大に足を縺れさせて倒れてしまう。
「う、お、あぁ!?」
前のめりに倒れこんでしまった男は思わず片手をコンクリートの地面に勢いよく付いてしまう。
瞬間、男の腕は手首の曲がるいやな音とともに鋭い痛みを発し始める。
「あが!? ち、ちくしょう……!」
「 ア ア ァ ー … … 」
痛みにうめきながらも何とか立ち上がろうとする男に迫る、背後のゾンビ。
両手を前に出し、よだれをたらしながら男のそばへと駆け寄ろうとしたそいつの両手は、結局男に触れることはなかった。
「―――ッ!」
「 ア ー ? ア グ ゥ … … 」
何故なら、そのゾンビの喉首に噛り付く化け物の姿があったからだ。
狙い済ましたかのように空からゾンビを強襲したその化け物は、皮膜状の両手を激しく上下させ、勢いよくゾンビの喉首を齧り毟った。
「―――!」
「ヒ!? イ、イイィィィ!!」
化け物は声なき声を上げながら、そのまま倒れ付したゾンビの臓腑を貪り始める。
男はあられもない悲鳴を上げ、痛む手首を押さえながら何とかその場を脱した。
グチャグチャといやな音を立てる食事現場から何とか遠ざかりながら、男は半泣きでうめき声を上げる。
「な、なんだよあれ……! あいつら、共食いなんかするのかよ……!」
先ほどゾンビを襲った鳥のような……あるいは人のような化け物は男も一度姿を見ていた。
食糧調達に向かったコンビニの屋根の上で、こちらを睥睨していたのが、初遭遇だ。そのときは、すぐにコンビニの中から現れたゾンビたちに追われてしまったため、あの化け物がどのような生き物かはわからなかったが……。
どうやら、動いている生物を無差別に襲う性質があるようだ。仲間かと思っていたゾンビさえ、連中には食糧でしかないということか。
「く、くそ! あんなのが飛び回ってちゃ、走るしかねぇじゃねぇか!」
男は叫んで、ひたすらに走る。
先の鳥の化け物がどれだけいるのかはわからないが、それでも上空から強襲されて生き残れる自信はない。
先ほどの襲撃の際も、ほとんど音がしなかった。伝説の暗殺者じゃあるまいし、そんな攻撃をどうやって察してかわせというのか。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
ほとんど呼吸もままならぬほどには知り続け、男は何とか自宅マンションまでたどり着くことができた。
幸いなことに道中でゾンビにも鳥の化け物にも会わなかったおかげで、屋根のある場所で一息つけそうだ。
オートロックになっているマンション玄関まで駆け寄り、男は縋り付くようにキーロックパネルにパスワードを入力する。
押し慣れたパスワードの入力が完了するのと同時に入り口は開き、男はしゃにむにマンションの中へと飛び込んだ。
「ッハー! ハー、ハー……!」
ようやく安全な領域へと到達できた安堵から、男は四つんばいで荒い呼吸を繰り返す。
「は、はは……」
さらにおかしくもないのに笑みまでこぼれてきた。
目を覚ましてから、ここに到達するまで一時間も経っていないはずなのに、起こった出来事の密度が高すぎたせいだろう。
町は霧に沈み、その中にはゾンビと化け物があふれ、さらに恋人は食い殺され、化け物がゾンビを捕食するシーンまで見せ付けられ……。
一日に起こるイベントとしては、多すぎるくらいだ。もう少し手加減してくれてもいいものだと男は思うものだが……。
「……待てよ」
そこまで考えて、男の脳裏にいやな予感がよぎる。
ここに来るまでに、それなりの人数のゾンビや化け物と出会った。
だが、生きた人間には出会っていない。まともな人間との会話は、昨夜の恋人との睦言が最後だ。
であれば……今いるこのマンションも、決して安全とは言いがたいのではないだろうか?
中間市に存在するマンションとしては高層な部類に入るマンションであり、それなりに人気もある。少なくとも、男が住んでいる階層の部屋に空きはなかったはずだ。
仮に、今生きている人間が男だけなのだとすれば……このマンションは、ゾンビの巣窟になっているのではないだろうか?
「………」
男はごくりとつばを飲み込んだ。
男の部屋は七階にある。エレベーターを使わなければ、面倒を感じる程度に地上との距離がある。
仮に、入り口付近で空を飛ぶ化け物に襲われたら……。
「……ッ!」
男は歯を食いしばり、頭を振り乱す。
いやな予感を何とか脳内から追い出し、エレベーターへと急ぎ駆け寄った。
エレベーターはボタンを押せば、扉を開いて男を招き入れる。
男はエレベーターの中に誰もいないことを確認し、中へ入って七階のボタンを押した。
扉はすぐに閉まり、そのまま男の体を七階まで運んでいった。
「………到着したら、すぐに扉まで走って、鍵を開けて、中に入る……それで、いける。大丈夫だ、大丈夫……」
男は祈るようにつぶやきながら、鍵を取り出しエレベーターの到着に備える。
鳥の化け物は上空からの強襲を得意としているようだが、さすがにマンションの部屋の前で真上から襲われることはないはず。
鳥の化け物に襲われるにしても、ワンクッション入るだろう。その間に、わき目も振らずに部屋に入れば生き残れる。
「……よし」
そうこうするうちに、エレベーターが七階に到着する。
静かに開いた扉の影に隠れ、男は外の様子を伺う。
ゾンビや化け物が跋扈する下界と比べれば、異様に静かなマンションの七階。
扉が無造作に開いていたり、ゾンビが徘徊している様子もない。いつもどおりの、静かな自宅がそこにあった。
「………」
エレベーターの扉が閉まらないよう、少しだけ体を前に出しながら男は前方を注視する。
男の部屋は、エレベーターを出て廊下をまっすぐ進み、一度曲がる必要がある。
残念なことに、ここからでは自室の前の様子は伺えない。だが、しばらく待ってもゾンビや化け物が現れる気配はなかった。
「………っ!」
意を決し、男はすばやく駆け出した。
手に握り締めた鍵は落とさぬよう、しかしゾンビや化け物を振り払えるよう全力で男は角を曲がる。
自室までの道のりに―――ゾンビも化け物もいなかった。
「やった……!」
歓声を上げるとともに足を止めそうになるが、何とか思い止まり、部屋へと進む。
ここで足を止めて、そこに化け物が現れては元も子もない。部屋の中に入るまで、安全は確保されないのだ。
「!」
自室の扉に飛びつき、男は鍵を差し込む。
震える手を押さえ、鍵を回す。
カチリと小さな音を立てて、扉の鍵は開いた。
「―――!」
今度こそ。満面の笑みを浮かべながら、男はドアノブを回す。
そして扉を開き、そのまま自室の中へと飛び込もうと一歩進んだときだ。
「――キィ――」
小さな鳴き声とともに、自分の両肩を何者かががっしりとつかんだ。
「ヒゥ!?」
情けない悲鳴を上げた男は、己をつかんだ何者かを確認することなくそのまま部屋の中へ逃げ込もうとする。
だが、己の肩をつかむ手は振りほどくことができず、むしろ万力のごとき膂力を持って男を部屋の外へと引きずり出してしまう。
「あ、あぁぁぁ!?」
自室が、ほんの1メートル前後、遠のいてしまう。
たった1メートル。たった1メートルだというのに、男の心には圧倒的な絶望感が去来する。
「――キキキ――」
男の肩をつかんだ何者かは、小さな鳴き声を上げながら、男の体を軽々と持ち上げてしまう。
尋常でない膂力を前に男の恐怖は増大し、反射的に、己の両肩をつかんでいる手を見てしまう。
「ヒ――」
だが男は後悔した。己を掴むその手は明らかに血に塗れた……異形の腕だったのだ。
赤黒い繊維状のもので覆われた腕部は、筋肉が露出しているのだろうか。血なまぐさいにおいがつんと鼻を突く。
そして肩を掴んでいる五指は、放射状に広がっており、足とも手とも付かない指の形状をしている。まるで、あらゆる部分を掴んで自由に移動するために用意されたようだ。
そして腕の中には骨などないかのようにグニャリと腕は曲がり、男の体を廊下の外側へと持ち出してしまう。
「アゥ、グァ……!?」
男は迫る死の予感を前に、さらに視線を持ち上げる。
己を掴んでいるそいつは……どうやら天井に張り付いているようだった。
完全に死角に入り込んでいたそいつと、男の目が合った。
「―――え?」
男は信じられないものを見たかのように、呆けてしまう。
次の瞬間には男の体はマンション七階から放り出されてしまったのだが、そんなことも男には気にならない。
自由落下してゆく肉体。残り短い人生の中で男の頭を支配していたのは、先ほど見た化け物の姿……いや、顔であった。
「……なん、で……?」
信じられない。どういうことだろうか。
お約束なら……あんな化け物は生まれないはずなのに。
男は自由落下してゆく中で、地面を見上げる。
すると、男の体の到達を待ちわびるかのように、無数の化け物が木々や地面を張って現れる。
そいつらの姿は、先ほど見上げた化け物の物とそっくりで―――。
「な……なんでだぁぁぁぁぁぁぁ!!??」
男は大きな絶叫を上げながら、頭から地面に叩きつけられていった。
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