番外編・アスカとおばけ
町のすみに、アスカという女の子が住んでいました。
両親はしごとで帰りが遅く、学校ではあまり話す相手もいません。
夕方になると、町の音は急に色を変えます。車のライトが路地に模様を描き、スーパーの袋がカサリと鳴り、電線の上でカラスが短い声を落とす。
アスカはその音の中を、ひとりで帰っていました。
でも、アスカはだれにも「さみしい」と言いませんでした。
そのかわり、道ばたの水たまりに話しかけたり、バス停の影にかくれて、「ここにいます」とつぶやいたりしていました。
水たまりは小さく波紋を返し、バス停の影は風にゆれて、まるで「うん」と返事をしてくれるみたいでした。
ある日、アスカは道のすみで落としものを見つけました。
古いくつした。片方だけ。
アスファルトに小さな砂粒が光っていて、その上にぽつんと置かれていたのです。
しかも、どこかで見たような、ちいさなリボンがついています。
「これ……ゆめのなかで見た気がする」
アスカはそれをポケットに入れ、持ち帰りました。
ポケットのなかで、くつしたはふわりとあたたかく、かすかに森のような匂いがしました。
その夜。部屋の中がすこしだけ、ふしぎな空気に包まれました。
時計の秒針が静かに止まり、カーテンが音もなくふるえ、空気の中に見えない水紋がひろがるようでした。
ベッドのうえに、見知らぬ影が立っていました。
それはちいさくて、ふわふわしていて、でもなぜか、アスカとおなじ顔をしているおばけでした。
「あなた、わたしのふりをしてるの?」
アスカがきくと、おばけは小さくうなずきました。
目はやさしい光で、声は風のように小さかったけれど、たしかに聞こえました。
「あなたの気持ちが、あまりにもだれにも届かないから……わたしがかわりに、泣いてみたの。だれにも気づかれなかったけどね」
その声を聞いたとき、アスカは胸の奥で何かがほどけるのを感じました。
アスカは黙っておばけのそばに座り、ひとつ息をして、それからはじめて、自分でも気づかなかった言葉を言いました。
「わたし……わたし、さみしかったんだと思う」
そのとき。部屋のなかに、ふわりとほかのおばけたちの気配があらわれました。
かげふみのおばけ。
てのひらのぬくもりをのこすおばけ。
ことばをつつむおばけ。
落としものを拾うおばけ。
光の粒や影のしずくのような姿をしたものが、アスカのまわりに集まってきます。
窓のすきまから吹いた風がやさしく輪を描き、その中でおばけたちは、ゆっくりとひとつのかたちに変わっていきました。
それは、やさしい気配のかたまり。
アスカをまんなかに抱きしめる、あたたかい空気でした。
しんと静まりかえった部屋に、かすかな潮騒のような音がひびき、アスカの胸がふわりと軽くなりました。
「……こんなに、いたの?」
アスカは驚いて、でもすこし笑いました。
その笑顔の中で、おばけたちは音もなくうなずき、かすかな光の粒をふらせながら、ひとつひとつ溶けていきました。
その晩、アスカはぐっすり眠り、夢のなかで、「森にいた女の子」に出会いました。
その子は、コトリと名のる女の子でした。
まよい森の風のような声で、コトリは言いました。
「だいじょうぶだよ。見えなくても、ここにいるから。あなたがひとりじゃないって、ちゃんと知ってる」
コトリの言葉はあたたかく、胸の奥にしみわたり、やわらかい光のしずくになって、アスカの手のひらに落ちました。
朝になって目をさますと、アスカの机の上には、落としたはずのノートがありました。
ページのすみに、だれかの字のような形で、こう書かれていました。
『ここに いるよ』
アスカはその文字をなぞりながら、胸の奥で、あのぬくもりをもう一度感じました。
おばけたちは、今日も町のすきまでしずかに生きています。
気づかれなくても、届かなくても。
それでも、だれかの心の真ん中に、そっとふれていくために。
そのやさしさが、また新しい朝を生み、だれかのひとりぼっちを、そっとあたためていくために。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
さみしくなったらいつでも森に戻ってきてください。
まよい森も、コトリも、おばけも、そっとあなたの近くにいます。




