36.嘘つきな私②
「マール先生、本当ですか……」
決して叫んではない。でも、義父からは発せられた地を這うような声は怒号と同じ効果があった。
ゴクリとつばを飲み込んだのは、その視線を向けられているマールではなくロイドと兄だった。
義父は彼が自分に重要なこと報告していなかったかもしれない事実に憤怒しているのだ。
「レティシア様が先ほどおっしゃられたことは残念ながら事実です」
「先生からは順調に回復していると聞いていたはずだが……」
「健康を取り戻したという点では回復しております。ただ、失われた機能があったということです。事後報告になって申し訳ありませんが」
「重要な案件にもかかわらず見落とし? おかしいですな、あなたほど優秀な医者が……」
義父の中に浮かんだ怒りは疑惑へと変化していく。あらゆる可能性を考えているのだろう。
ピリピリとした空気に場の緊張が高まる。それでも、マールの表情に焦りはない。
「当初からその可能性が高いと思っておりました。だから、初期の流産にもかかわらず安静が必要な状態だったのです」
「では、なぜその時に報告をしなかった」
「子を産めないという事実に、彼女は精神的に追い詰められていました。ですから、本人が事実と向き合えるようになるまで報告は控えておりました。周囲の雑音はよくありませんから。私は医者として、患者を優先したまでです」
「知っての通り、私にはあなたを表舞台から消すことなど簡単だ」
「はい、存じております」
マールは義父相手に一歩も引かない。そんな彼を前にして、義父の威圧が薄くなっていく。
「もう一度聞く。本当ですか?」
「事実です。レティシア様がこれからホグワル候爵家の跡取りをなす可能性はないでしょう」
義父は小さく頷く。
医者の診断――いいえ、マールの言葉だからこそ信じたのだ。彼は義父から一度も目を逸らすことなく淀みなく答え続けた。
もし彼のあの態度がなかったら、私の嘘は成立しなかった。
マールの凄さに圧倒される。医者としても人としても素晴らしいと知っていたけれど、彼は義父と互角に渡り合える才覚も持っていた。
彼の横顔を見ながら心のなかで頭を下げていると、彼は膝上に置いた右手の人差し指を、癖のようにまた小さく振っていた。
ふっ、マール先生たら……。
こんな時でも不甲斐ない友人のために全力を尽くしている。
義父は黙ったまま考え込んでいる。
彼にとって跡継ぎを産む者は高位貴族でなければいけないのだ。血筋が家の発展に繋がる。
――なによりも優先すべきはホグワル候爵家。
男性にとって初婚でないことは不利にはならない。人気があるロイドなら高位令嬢との縁も余裕で望める。
義父にとってアリーチェの子はあくまでもスペア。つまり最悪なシナリオなのだろう。彼女の子を跡継ぎに据えたら、男爵家がここぞとばかりに擦り寄ってくるだけ。
「レティ、子供が出来なくともアリーチェの子がいる。君が負い目を感じて身を引く必要はないんだ」
ロイドが優しく私に話し掛けてくる。その目にも、その表情にも、優しさしかない。……あなたはいつだってそう。
自分は優しいと、誠実だと思っているのだ。私もずっとそう思い込んできた。たぶん、義母がアリーチェを仕掛けたりしなかったら、私は彼を良き夫と信じて一生をともにしたのだろう。
……あなたの優しさは紛いものだわ。
黙ったままの私に声を掛け続ける彼を止めたのは義父だった。
「ロイド、黙ってろ。レイリー殿、共同事業に差し障りは――」
「ないとお約束します。父は、娘がご迷惑をお掛けして申し訳ないと申しておりました」
父に代わってこの場にいる兄が頭を下げる。
父の言葉も、兄の謝罪も本心からのもの。娘として妹として案じてくれていても、子を産めない女性の価値は貴族社会で低い。
――だからこそ、私は嘘を吐いた。




