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おねがい、ルイス  作者: 五十鈴スミレ
裏側 side.ルイス
6/9

一幕 夢が、輝かしいものであればあるほど

ルイス視点の、本編の裏側です。

全4話完結。毎日更新します。




 おねがい、ルイス。

 あまいあまい声が骨の髄まで染み渡っていく。

 彼女の声が、ねがいが、僕を動かす。僕を僕という形に収める。


 そうして今日も僕は幸福を知り、地獄を見る。





 最初は、幼くかわいいわがままから始まった、ままごとじみた約束だった。


「おねがい、ルイス。私をお嫁さんにして」


 それは彼女が十を数えた年だった。

 子ども特有の憧れだとか、他の人に取られたくないという独占欲の表れだろう。

 キラキラと輝く無垢な瞳は、恋や愛を知るにはまだ早すぎる。

 あと五年もしたら笑い話になるような、つたない愛の告白。

 当然、本気にはしなかった。

 まだ甘えたい盛りの彼女と違って、僕は十七歳。成人して二年も経っている。

 卿家の長男である自分は、子どもの言葉をいちいち真に受けていられるほど能天気ではいられない。

 向けられる期待を、重圧を感じない日はなかった。ショーロブレッダの名を背負うにふさわしい嫡子であれ。ラニアの地を守り導ける強き賢き器であれと。


 ただ、一瞬だけ夢想した。

 きっと彼女はとても美しく育つだろう。

 豊かに広がるバラ色の髪。葉のような濃緑の瞳は今と変わらずまっすぐ僕だけを映して。

 おねがい、ルイス。

 そう、かわいらしいわがままを口にする。

 僕は慈しみのこもった微笑みを浮かべ、すべらかな手の甲にキスを落とす。

 愛しい姫君のお願いを、自分だけが叶えられる幸福。

 そんな、まばたきひとつで消えるような夢幻を、ほんの一瞬だけ。


 だからかもしれない。

 本来なら、聞き流すことが大人として正しい対応だとわかっていた。

 子どものころの約束は、彼女が大人になったときに必ず枷になる。

 未来の可能性を狭めてしまうかもしれない。

 家格的には申し分ない相手だとしても、七つも年が離れている。

 妹のようにかわいがっている彼女のためにも、そのお願いを形にして叶えてはいけないと。

 わかっていながら、気づけば僕は小さな手を取っていた。


「お姫様の仰せのままに」


 僕がそう告げれば、彼女は野バラが咲きほころぶように笑った。

 彼女の笑顔をくもらせたくはないから。彼女の甘いだけの夢を壊したくはないから。

 あとになって彼女が少しでも婚約を重荷に思うことがあれば、すぐに解消すればいいだけのこと。いざとなれば多少の泥は被ろう。

 いくつもの理由と免罪符を重ねて、僕は、彼女をニーナと呼べる権利を得た。





「いらっしゃい、ルイス!」


 リーヴ家に行くと、いつも一番に駆け寄ってくるのが彼女だった。

 赤茶の髪が風をはらんで、ふわりと舞う。

 バラの香は、今まで庭にいたからなのか、彼女自身のまとう香りなのか。

 飛びついてくるやわらかな身体を抱きとめて、小さな婚約者に微笑みかける。


「出迎えありがとう、ニーナ。元気にしていた?」

「ルイスが来てくれたから、とっても元気!」

「まったく、かわいいことを言うね、僕のお姫様は」


 無邪気な返答は、妙齢の女性が言えば殺し文句になることだろう。

 綿毛のような髪を撫でるようにして梳けば、ニーナは甘えるように額をすりつけてきた。

 それは犬や猫が懐いているような様子で、かわいくもあるけれど微笑ましいと言うほうが正しい。


「ねえルイス、今日は私と遊んでくれる?」

「うん、今日はずっとニーナと一緒にいられるよ」

「ほんとう!?」


 陽に照らされた葉のようにキラキラ輝く瞳に、抗うすべはない。

 学校を卒業してから本格的に始まった卿家を継ぐための教育は、年を追うごとに本格的に、難解になっていく。

 たまの休養は効率を上げるためにも必要不可欠。婚約者のご機嫌伺いという大義名分があれば、誰にも文句は言われない。

 実際、まっすぐな好意を向けてくるニーナと過ごすひとときは、他では味わえない癒やしをもたらしてくれる。


「あのね、ルイス。一緒にお庭をお散歩してくれる? 遅咲きのバラが咲いているの。それからね、一緒にお茶会しましょう。私、ひとりで紅茶を淹れられるようになったのよ!」


 言葉で、声で、表情で。まるで飼い主に懐く犬のように、全身で好意を伝えてくる。

 子息のいないリーヴ家では、いざというとき姉妹で家を支えることができるよう、他家よりも厳しく躾けられていると聞く。

 本来なら侍女に任せることでも、一人でできるよう。そんな教育は自立心を育むことだろう。

 まだ十歳とは思えないほどしっかりしているニーナが、子どものように甘えるのは、自分にだけ。


「ね、おねがい、ルイス」


 そう、他愛のないわがままを口にするのも。

 うかがうように見上げてくる瞳には、断られることはないとわかっている期待がありありと浮かんでいる。

 春の陽だまりを飲み込んだかのように、胸があたたかい。

 ニーナの前でだけは、なんのしがらみもなく、自然と笑うことができた。


「もちろん、お姫様の仰せのままに、ね」


 白く小さな手の甲に、騎士のように唇を落とす。

 可憐な姫君のかわいらしいわがままを叶えてあげられることが、誇らしかった。


「だいすきよ、ルイス」


 あまい、砂糖菓子のような声がささやく。

 ショーロ家の嫡子としてではなく、ただのルイスを慕ってくれる。

 ニーナと一緒にいるときだけ、僕は重い荷を下ろして、息をつくことができた。





「婚約したと聞いた」


 懇意にしている商家主催のガーデンパーティーで、そう声をかけてきたのは、一つ年下の友人だった。

 アレクシス・シュアクリール。僕と同じ卿家の嫡男だ。

 金茶の髪と紫色の瞳を持つ少年は、ひと目でわかるほどの困惑をその整った顔に浮かべていた。


「ああ、うん。さすがに耳が早いね」

「卿家同士の婚約だからな。リーヴ家と聞いて、カンナ嬢かエレナ嬢だと思ったんだが……」

「驚かせてしまったかな。ニーナとだよ」


 カナは同い年、エレは三つ下。どう考えてもニーナよりも釣り合いが取れている。

 ニーナの相手なら、僕よりも彼女と同い年の弟のほうがお似合いだ。

 親の意向が絡んでいるわけでもない婚約で、五つ以上年が離れていることはあまりない。

 これが五年後に結ばれた婚約なら、別にめずらしいことでもなかったのだろうけど。


「そういえば、ジルは?」

「……いつもどおりだ」


 アレクはため息をつきながら視線を他所へ向ける。

 それを追いかけてみれば、ニーナよりも幼い令嬢に話しかけている少年がいた。

 ジルベルト・イーツミルグ。彼も、アレクと同い年の卿家の跡継ぎだ。


「ああ……エステル嬢が困っているね。君に助けを求めているように見えるけど、いいのかい?」

「私が間に入ったところで何も変わらないからな。ジルにやめる気がないなら、エステルに慣れてもらうしかない」


 こちらに、というよりもアレクにチラチラと視線を投げかけてくる令嬢は、エステル・シュアクリール。アレクの妹で、今年で八歳だったはず。

 人の目を気にしないジルからのアプローチに、うんざりしているのが見て取れる。

 あの年でしつこい異性の対処法を身に着けなければいけないなんて、エステル嬢も災難なことだ。


「ジルは今に始まったことではないからいい、問題は君のほうだ。あ、いや、問題といっても、別に悪くはないと思うが……その、年が離れているだろう?」

「まあ、そうだね」


 七つの年の差が、周りに不思議に思われるくらいには開いていると知っている。知っていながら婚約を結んだ。

 なぜ? とアレクの紫紺の瞳が問いかけてくる。

 僕はそれに苦笑を返した。


「おままごとに付き合ってあげるのも、悪くはないかなと思っただけだよ」


 アレクは瞳を見開く。

 その口が何かを言う前に、僕は続ける。


「年の離れた妹のいる君ならわかると思うけど、あの年代の恋なんて幻想さ。甘えさせてくれる年上の男性が王子様に見えているんだろう。憧れの王子様が完璧じゃないことがわかれば、きっと一気に夢から覚める」


 夢が、輝かしいものであればあるほど。

 きっとその落差は激しいだろう。

 僕はいつまで彼女の一番でいられるだろうか。


「ルイは完璧に近いと思うがな」

「神童ともてはやされた君にそう言ってもらえるなんて、光栄だな」

「……過去のことだ」


 アレクは居心地が悪そうに眉をひそめる。

 気を害しただろうか。皮肉じみた言い方になってしまった自覚はある。


「それに、見た目だけならジルのほうが王子らしくないか?」

「ジルは極端すぎるからかな。もう少しうまくやれば、エステル嬢の態度も違っただろうにね」


 エステル嬢が今よりも幼いころから、ジルは一心に彼女を口説いてきた。

 正直、周りからすればたちの悪い冗談にしか見えない。

 ジルの性格からして、きっと本気なのだろうけれど、彼のアプローチの仕方ではエステル嬢に気味悪がられるのも当然だ。

 本気なのなら、余計にもっと違うやり方があっただろうに。

 たとえば、そう、彼女にとっての理想の王子を演じたりだとか。


「では、ルイに結婚の意志はないのか?」

「十歳の子ども相手に、そんなことは考えられないよ」

「なら、どうして婚約したんだ」

「言っただろう、おままごとだよ。かわいい妹の夢を砕くのもかわいそうだからね。自然に覚めるまで待ってあげようと決めたんだ」


 夢はいつか覚めるものだ。幼い恋はいつかただの憧れだったと悟るものだ。

 彼女のために僕にできるのは、目覚めが少しでも優しいものであるよう、今はまだ甘い夢を見せてあげることだけ。

 僕は王子様でもなんでもないのだと、ニーナが気づくのはいつの日か。

 早く、傷が浅くすむうちに目覚めてくれればいいのだけれど。


「……ジルみたいな人間が増えたら、面倒だとは思っていたんだが」


 アレクは険しい表情で、深いため息をつく。

 僕にとって喜ばしくないことを言われそうな雰囲気に、少し身構えた。


「年の離れた妹のいる私は、子どもは子どもなりに物を考えていることを知っている。それは決してエステルが特別なわけではない、と思う。子どもだからと、あまり見くびらないほうがいい」


 責めるような視線と声音に、神経を逆撫でされる。

 見くびっているつもりはない。ただ事実を言ったまで。

 けれどきっと、もしアレクが僕の立場になったなら、僕とは違う答えを出すんだろう。十歳の幼い少女の告白も真摯に受け止めるんだろう。

 宵の色をした瞳は、彼の真っ当な精神をそのまま映し出したかのように澄んでいる。

 いつも、目をそらしたくなる。醜い自分を悟られてしまいそうで。


「何年経とうとニーナ嬢の気持ちが変わらなかったなら、どうするつもりだ?」


 その問いかけに、思わず鼻で笑ってしまいそうになる。

 ああ、こんなところが見くびっているように見えるのかもしれない。


「そんなこと、あるのかな」

「ないとは言いきれないだろう」


 そうだろうか。言いきってしまっても問題ないと思うのに。

 言いきってしまったほうが、楽なのに。

 ほんの一瞬見た幻が、ふいに浮かんで、消えた。


「そうだね……そうなったら……」


 だいすきよ、ルイス。変わらず向けられる愛情と信頼のこもったまなざし。

 それはきっと、ある意味で幸福だろう。

 けれど同時に、途方もない地獄でもあるだろう。

 最初から存在しないものは、あきらめがつく。そういうものだと、仕方のないことだと納得できる。

 あるかもしれないと、期待してしまえば。

 失う恐怖は、いかほどか。







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