38 信じるための道
ザルクによる尋問は、夜が明けるまで続いた。
だが、エルザの口から得られた情報はあまりに断片的だった。彼は帝国の駒ではあるが、作戦の全貌を知る中枢の人間ではない。密約書を街に流し、内部の混乱を誘発する。その任務の存在は知っていても、詳細まで伝えるほど帝国の管理はザラじゃないだろう。
「……つまり、この密約書が本物か偽物か、お前も知らないと?」
「知るわけがない。我らは、ただ命令を遂行するだけだ」
地下牢の冷たい空気の中、エルザは力なく吐き捨てた。その目にはもはや抵抗の色はなく、ただの疲労と諦めが浮かんでいる。これ以上、彼から何かを引き出すのは不可能だろう。
翌朝、本庁の会議室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
集まったのは、俺、フィオナ、ザルク、ラズ、ネリア、そしてユラン。ザルクの報告を聞き、誰もが表情を硬くしている。
「どうする、カイの旦那。このままじゃ、街の空気がどんどん悪くなる一方だ」
ラズが腕を組み、苛立たしげに指で机を叩いた。
「人間と獣人、互いに疑いの目を向け始めた。この火種は、放っておけば大火事になる。いっそ、トウラから来た連中を一時的に隔離でもするか?」
「それは最悪の手だ」
フィオナが即座に否定した。
「そんなことをすれば、我々が公式に『トウラは裏切った』と認めることになる。帝国の思う壺だ。それに、何の罪もない者たちを罰することは、この街の理念に反する」
「だがな、フィオナ。理念だけじゃ民は守れねえんだよ。万が一、密約書が本物だったらどうする? 俺たちは呑気に構えてる間に、背中から刺されることになる」
ザルクの言葉も、また真実だ。
理想と現実。信頼と危機管理。その間で、俺たちの判断は揺れていた。
俺は、机に置かれた密約書をじっと見つめていた。バルハの顔が、ゴウランの誠実な瞳が、シェルカの 悪戯っぽい笑みが、次々と脳裏に浮かんで消える。
あれが、すべて嘘だった?
俺を利用するための、巧妙な演技だった?
……いや、信じたくない。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。皆の視線が、俺に集中する。
「俺は、トウラへ行く」
迷いはなかった。
会議室の空気が、ぴんと張り詰める。
「正気か!?」
ネリアが声を上げた。
「敵の懐に、わざわざ首を突っ込みに行くようなもんだぞ! もし密約が真実なら、生きては帰れん!」
「それでも、だ。このままここで疑心暗鬼に駆られて、仲間同士でいがみ合うくらいなら、俺は自分の目で真実を確かめたい。……俺は、バルハを信じてる」
俺は立ち上がり、仲間たちの顔を見回した。
「これは、罠かもしれない。だとしたら、俺たちが疑い合った時点で、敵の勝ちだ。逆に、これが真実なら……俺は、この手で裏切り者に落とし前をつけさせる。どちらにせよ、この目で確かめないことには始まらないだろう」
俺の覚悟を感じ取ったのか、誰もが言葉を失っていた。
最初に沈黙を破ったのは、フィオナだった。
「ならば、私も行こう。貴殿一人が危険に赴くのを、見過ごすわけにはいかない。騎士団長として、そして……一人の仲間として、貴殿を守る」
「俺もだ、カイ。護衛がいなきゃ話にならねえだろ。最悪、血路を切り開くのは俺の役目だからな」
ザルクが拳を鳴らす。
「面白くなってきたじゃねぇか。そういう賭け、嫌いじゃねぇぜ。俺も乗った」
ラズがニヤリと笑う。
「主が行かれるのならば、いかなる道であろうと、このユランがお供いたします。すべての災厄は、我が角が砕きましょう」
ユランが静かに頭を垂れた。
ネリアは深い溜め息をついたが、その顔には諦めと、ほんの少しの信頼が混じっていた。
「わかったよ。あんたが決めたんなら、止めても無駄だ。留守は任せて。あんたが帰って来る場所は、あたしたちが絶対に守り抜くから」
その言葉が、何よりも心強かった。
「ありがとう、みんな。……行ってくる」
作戦は迅速に決定された。
表向きは「トウラとの定期的な物資交換と外交交渉」とし、俺、フィオナ、ザルク、ラズ、そしてユランの五名で、秘密裏にトウラへと向かう。
街の統治はネリアと村長のオルドに一任。リゼットには医療班の指揮を、ガランとデリンには警備隊の補佐と、拘束した帝国スパイたちの監視を頼んだ。
街の民には、詳しい事情は伏せた。ただ、「俺たちの同盟は揺るがない」とだけ、短い演説で伝えた。
不安げな顔をする者もいたが、ほとんどの民は、俺の言葉を信じて静かに頷いてくれた。
出発の朝。ルディアの門の前には、見送りの仲間たちが集まっていた。
「カイ、絶対に無茶はしないで。生きて帰ってきて」
ネリアの言葉に、俺は力強く頷いた。
「当たり前だ。美味い飯を用意して待っててくれ」
俺たちは馬に乗り、ユランを先頭に森へと続く道へ足を踏み出す。
背後から、仲間たちの声が聞こえた。
「カイ様、ご武運を!」
「行ってらっしゃい!」
その声に背中を押されながら、俺は前だけを見据えた。
道は険しいかもしれない。待ち受けるのが、信じていた者からの裏切りという、最悪の真実かもしれない。
それでも、俺は進む。
この手で築き上げた信頼を、こんな不確かな紙切れ一枚で終わらせるわけにはいかないからだ。
森の木々が、俺たちの行く手を覆い隠していく。
目指すは、獣人たちの集落、トウラ。
真実を確かめるための、静かな旅が始まった。




