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56.劇場の火遊びを消火せよ! 後編


 客の一部は、もうその演劇に飽き始めていた。

 バカップルのイチャイチャなど見せられて誰が楽しいものか。

 唯一の見どころは、悪役令嬢マリアンヌを演じる名女優の怪演っぷりである。

 次はどのタイミングで登場するのか? どんな嫌がらせをしてくるのか? 次はどんな罵声を浴びせてくるのか?

 もう客の興味はそこ一点に絞られたようなものである。狂気じみたヤンデレ、ドS、ストーキング、サイコパスっぷりが笑えて来るほどだった。


「わたくし、あんなこと言っておりませんわ!」

 マリーはハンカチを咥えてきいいいい――――っと悔しがる。

 そんなとき、事故は起こった。


 悪役令嬢がテーブルの上の物を片っ端から、王子と泥棒猫に投げつける場面である。掴んだテーブルランプが投げられ、それが舞台小道具に引火した。

 めらめらと横張のカーテンに燃え移り、炎上する。

「あはははははははは! 燃え……、燃えろ、燃えるがいいですわ!」

 さすがに少し目が泳いでいたが、女優はアドリブで演技を続ける。これが悪かった。観客はこれを舞台の演出と思ってしまったのである。

 女優はすぐにスタッフが舞台裏から消し止めてくれるものと期待して、劇を続けたのであったが、火はたちまち燃え上がり、舞台の幕を炎で包んだ。この時代、舞台で使われている道具に、難燃材など存在しなかった。


 観客は拍手した。手に汗握る名シーンだ。

 あわててスタッフが客に見えないように舞台裏からバケツで水をかけるももう遅かった。舞台の上にまで火が上がり、上下する巻き上げカーテンの緞帳(どんちょう)にまで燃え移った。


 客たちは思いもよらないスペクタクルシーンに手に汗握り、固唾を飲む。まだこれが火事だとはわからない。

「逃げるんだ、マリアンヌ!」

 思わず女優の役名で叫んだ王子役俳優。それも悪かったと言える。舞台から役者が逃げ出すのを、場面転換だと多くの客が勘違いした。炎に包まれて火の粉が舞う舞台に客は酔いしれて拍手した。なにより貴賓席の王子と王子妃の二人がスタンディングオベーションで拍手しているのが最悪の事態を招こうとしていたのである。


「まずい」

 ジョンはこれが本物の火事だということにとっくに気が付いている。



 ウォオオオオオオオオオオオ――――――――――――ン!


 ジョンは立ち上がって、狼の吠え声をあげた!

「火事だ! みんな避難しろ!」

 大音声で客に呼びかけるジョン!

 ジョンとマリーの周りにいた客は、そのジョンの姿を見て恐怖した。

 これをサプライズの演出と思った客も、中にはいたかもしれない。


「みなさん! 逃げて! 避難してください!」

 劇場の支配人が燃える舞台の上に上がって、叫んだ。そのことでようやく一部の客がこれが本当の火事であることに気が付いた。

 その声を聴いて、ざわめきが広がり、いまさら客は逃げはじめた。

 もちろん通路は大混雑。折り重なって人が倒れた。火はもう舞台裏に燃え移りそうになっていた。


「早く! 早く避難を!」

 舞台の上から炎上する木材がバラバラと落ちてきて、支配人も舞台から飛び降りてそこから逃げる。

 バカ王子と泥棒王妃は今になってやっとこれが舞台演出でなく、本当の火事だと分かったのか、逃げ出そうとして煙に巻かれていた。

 ジョンがポケットから無線パッチを取り出して、自分のほほに貼り付ける。

「パレス、パレス聞こえるか! 応答頼む! パレス、応答頼む! こちらジョン! パレス! 応答頼む!」

「こちらパレス指令室。どうしました?」

 ベルから無線に返事が来た。


「劇場で火災発生。劇場で火災だ。マリー、ここどこだ?」

「イタルア首都ナポリタンのサン・カロラ劇場ですわ!」

「ナポリタンのサン・カロラ劇場! サン・カロラ劇場だ! 出場頼む!」

「サン・カロラ劇場確認しました。急行します。20分かかります」

「急いでくれ!」

 ジョンは懐から、どこに持っていたのか、小型の放水くんを取り出してベルトをくぐらせたすきに背負う。

 劇場は大混雑。人にあふれて舞台にたどり着けそうもない。


「マリー、すまん」

 ジョンは表情が変わって、現場の顔になった。

 マリーが一番カッコいいと思う顔だった。

「他の客と一緒に避難して。怪我しないように、巻き込まれないように、慌てずに」

「わかりましたわ」

 マリーはジョンに抱き着いて、その口元にキスをすると、ハイヒールを脱いで両手に持ち、駆けだした。


 ジョンは周りを見渡し、走ってジャンプして、貴賓席に飛びつく。

 悲鳴が上がる貴賓席。

「本物の火事だ! さっさと逃げろ!」

 貴賓席から貴賓席へ、次々と飛び移っていくジョン。

 舞台袖の柱に飛び移ってつかまり、下に滑り落ちる。

 すぐに放水くんを構え、放水を始めた。

 すさまじい水しぶきに客や役者たちから悲鳴が上がる。


 マリーは途中で立ち止まり、客席から舞台を見下ろしていた。

 舞台の中央で放水ノズルを構え、降りかかる火の粉をものともせず勇猛果敢に、そして的確に消火を続けるジョンの、最高にカッコいい場面が、まるで舞台の一場面のように演じられていた。

 マリーはその夜最高の場面に見とれて、拍手を送った。




 残火処理に追われるジョン。

 そのガラガラになった舞台客席通路から、太助とハッコツが完全装備で入ってきた。

「さすがだな、ジョン」

 まだ放水しているジョンに太助が笑いながら声をかける。

「『放水くんポータブル』、持ってきておいてよかっただろ?」

「助かった」

「うんうん」

 実は太助も、ヘレスとのデートの間、ずっと放水くんを隠し持っていた。

 肌身離さず、万一に備えていたというわけだ。


「あらかた終わっておりますなあ」とハッコツも笑う。天井は煙で覆われているが、今はどの出口も開け放たれていて、煙は外に吐き出されていた。

「マリー、まだいたのか」

 誰もいなくなった客席で一人、ぽつんと座っていたマリーに太助が声をかける。

「こんな名場面、見逃すって手はありませんわ。生の舞台はやっぱり、大迫力ですものね」

 そんなことを言って手を振るマリー。

 太助はそれに苦笑いを返す。


「カッコよかったか?」

「惚れ直しましたわ!」

「上出来だ。ジョン、もう帰っていいよ。デートの続き楽しんで」


 防火服もなしに、火の粉を浴びて、ところどころ毛とタキシードを焦がしたジョン。放水を止めてうなずく。

 客席では一人、マリーが立ち上がって拍手している。


 太助とハッコツは、舞台の中央でジョンをはさんで、その手を取った。

 にやり、笑いながら客席に向けて頭を下げる。ジョンもなんだかつられて一緒に頭を下げた。


 最高のカーテンコールに、マリーの拍手はやまなかった。




「ひどい目に合わせてすまなかった」

 ジョンはマリーをなんとか見よう見まねでエスコートし、他の紳士淑女たちと共に劇場を後にする。

「どうしてですの? 最高に素敵な夜になりましたわ!」

 マリーは街灯の下で、笑顔でくるくると回って見せた。

 ナポリタンの火消し部隊があちこち走り回っていて、遠巻きに野次馬たちがもう鎮火した劇場を見上げていた。上空では銀色の翼を広げてドラちゃんが上昇している。

 手回しサイレンを(うな)らせて救急馬車が走ってきた。

 火消し部隊の担架に乗せられて、この国の第一王子、フィリップ・イーケメン・ドストライクとその王子妃が運び込まれる。

 二人ともなんか怒鳴って、文句言って、悪態をついている。

 なあんだ、生きてましたのね。

 マリーが思ったことは、それだけだった。


 全身びしょぬれで火の粉をかぶってさんざんなタキシードのジョン。

 ちょっと煤けて、淑女と言うにはみすぼらしくなってしまったマリー。


「今夜は最高の宿に泊まりましょ!」

「……今のオレたちを泊めてくれる宿があるか?」

 マリーは、手に、フェラリー家のゴールドカードを持って微笑み、ジョンの手を引いて、まだざわめく深夜の街を歩きだした。

「まだデートは、終わってませんのよ……」


 最高にカッコいい、わたくしのダーリン。

 今夜は寝かせませんことよ。

 マリーのステップは、軽やかに歩道に靴音を響かせた。




次回「57.空の孤島の日常2」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今夜は私の中の火を消してくださいってかw
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