47.ピザの斜塔の崩壊を防げ! 後編
「火事だ――――!」
深夜の大声、鳴らされる鐘の音に、ピザ大聖堂の大司教、アルンツ二世は飛び起きた。窓際に歩み寄り、窓を開けて外を見る。
ピザの斜塔が煙を吹いていた。
もくもくと、塔全体から。
全部の階層の支柱の間から、大量に煙を噴き出している。
「なっ、なんで火事!? 火の元になりそうなものはなにもないのに!」
大聖堂の敷地に孤立して建っている塔、どうやら大聖堂への延焼はなさそうだが、それにしても既に塔全体が煙に包まれている。
ただでさえ斜めに傾いている塔、これに火が加われば今度こそ塔が崩壊するかもしれない。
「女神よ、お守りください……」
大司教はハラハラしながら塔を眺め、祈り始めた。
すると、三人の男が駆け寄って、塔周辺の司祭たちに声をかけたのが窓から見えた。
「さがって! 危険です!」
「誰だお前たちは!」
「消防の者です!」
「消防?」
「消防署の方から来ました!」
「消防署? 衛兵団ならともかく、そんなものこのピザ市には……」
「いいから、消火、お任せください!」
ヘルメットをかぶり、分厚い服を着た男たちは叫ぶと、手元の筒から、物凄い水を噴き出して消火を始めた。
その水柱は、56メートルもあろうかというピザの斜塔の頂上まで吹き上がった。
「ああ、神よ、ありがとうございます。どうか勇気ある者たちにご加護を……」
大司教は深く頭を下げ、祈りを捧げる。
消火活動は順調。吹き上げる白煙は次第に収まっていった。
「ぺっぺっぺっ! なんだこの匂いは!」
下で僧侶たちが騒いでいる。窓から見ている大司教にもその刺激臭が伝わってきた。思わず窓を閉めて咳をする。
「消火剤です! ご心配なく!」
その後も顔にマスクをしたその男たちは、やけに念入りに消火剤を塔にふりかけ、水浸しにした。
「もう大丈夫です」
「あ、ありがとう! 助かりました!」
完全に白煙は消え、男たちは司祭たちと握手している。
「こらああああああ! 貴様ら! 何者だ!!」
今頃になって教会にピザ市衛兵団がなだれ込んだ。
三人の男たちは逃げ出して、教会の周りを取り囲む塀に下げられたロープを伝って場外に消え、塀の向こうから銀色のワイバーンが飛び立っていった。
そのワイバーンを見て、大司教は「……なんという神の使いか」とつぶやいた。
「大司教!」
下から衛兵団長が窓から見下ろす大司教を見つけて声を上げた。
大司教はゆっくりと首を左右に振った。
追うな。
その顔はそう団長に伝えていた。
「さて、これで補強は済んだわけだが」
内側から焚いた白煙の凝固剤、外側から振りかけた接着液が重合し、二液接着樹脂の含侵により、積み上げられた石材はその隙間から浸み入った接着剤で完全に固着された。
「倒壊の危険はまだまだあるわけじゃの」
「そう」
太助はルミテスに黒板に図を描いて説明する。
「崩れることはない。だが、このまま傾斜が進行すれば、円筒の形のまま、ばったりと倒れるわけだ」
「それは避けたいのう」
「ま、とりあえずもってくれればそれでいい。計画通り、嵐を待とう」
空は暗雲が立ち込め、風が吹き始め、雲行きがどんどん怪しくなった。
ピザ市に、数年ぶりの大嵐が接近している。
強風が吹き荒れ、ゴミや木の葉が舞う横殴りの雨の深夜、上空千メートルからワイヤーで降下してくる男たちがいた。
男たちは誰にも気づかれぬまま、ピザの斜塔に何十もベルトを巻き付け、そのベルトを低い雲の上からぶら下がっている長いワイヤーに接続する。
「パレス空中固定完了。いつでもいいですよ太助さん!」
「いいぞベル。毎秒5センチで頼む」
「了解。けん引開始します!」
その指示に、ワイヤーが少しずつ引っ張られ、ぴんと張る。
一万五千トンの巨体であるピザの斜塔は、静かに、少しずつ動き出し、その傾斜を少しずつ、少しずつ、復元していた。
「ベル! 毎秒1センチに減速!」
「毎秒1センチに減速!」
「いいぞーベル! 続けて! 続けて!」
太助は暴風雨の中三脚を立て、水準器から斜塔の傾斜角を測定中。
「けん引中……」
「もうちょっと、もうちょっと」
「続行中」
「よーしストップ!」
「けん引作業終了、パレス空中固定します!」
「ハッコツ! ジョン! 発泡硬化樹脂注入開始!」
「了解、注入開始!」
今ワイヤーで引っ張られて傾斜を復元したピザの斜塔は、その基礎部分と地面の土の間に大きな隙間ができていた。そこに「放水くんポータブル」でジョンとハッコツは薬液を注入する。
液体樹脂は隙間にどんどん流れ込み、規定量吸い込まれていった。
その後、薬液はウレタン状に発泡し、隙間の奥からぶくぶくと盛り上がってくる。
「作業終了。時計スタートしてくれませんかなベルさん」
「作業終了確認。時計スタート、発泡樹脂固化まであと二時間。退避してください」
「退避ですぞ太助殿!」
「まてまてまて、発泡樹脂に土かけとけって。バレるぞ!」
三人はスコップで土をすくっては、土の隙間からはみ出した発泡樹脂にかけてゆく。その後三人は、大嵐の中、その現場から逃げ出した。
誰にも見られていなかったとは思う。
二時間後、パレスからのワイヤーが切断されて、ベルトごと巻き上げられていった。一万五千トンの傾斜を修復するには、パレスそのものをクレーンにする大掛かりな工事が必要だったということになる。
翌朝、塔を見た司祭、市民たちは驚愕した。
「と、塔が……」
「まっすぐに……」
「か、神の。女神様のご加護じゃ……」
その後の調査会では、あの大嵐で地下水の流れが変わって、傾斜が復元された。あの日の大風に吹かれて傾きが直った、など、多くの原因報告がされた。
結局原因は不明であるが、倒壊の危機を免れたことに、多くの関係者が安堵した。
しかし、そこは怒り狂っている女神もいる。
「ベル! 修正角プラス2度と申したであろう!」
「え……、太助さんには修正角プラス5度って聞いてましたけど?」
「太助――――――――――――!!」
まっすぐになってしまったピザの斜塔。もはや斜塔でも何でもない、ただの塔になってしまったのは言うまでもない。
「女神様の奇跡により、こうして斜塔は元通り、まっすぐとなり……」
「斜塔じゃないんじゃねえ……」
「それじゃただの塔でしょ」
「いこいこ」
「あ、あああああ、お待ちください! 我々はその奇跡をですね!」
こうしてかつてのピザの斜塔は、誰にも見向きもされない、観光価値のないものになってしまった。ピザ大聖堂の市民、観光客からの布施、入場料は大減収となり、大聖堂では毎夜、ミサが続いている。
「ルミテス様、お願いを申し上げます。塔を、斜塔を、また傾けてください! あと4度、いえ、3度でもいいのです! あと3度、あと3度、2度でもいいです!」
そんな祈りが、祭壇の祈祷所から毎晩響く。
「知らんがな――――!!!!」
その勝手な声を無視して、ルミテスは布団をかぶって寝てしまうのであった……。
次回「48.血清を輸送せよ! 前編」




