36.海洋汚染を防げ! 前編
「今日やってもらいたいのはこれじゃ」
上空停止している宮殿ルーミスからの航空映像が、異世界救助隊指令室のメインパネルに映し出される。
……これは……太助でもすぐには状況がわからない。
「川の河口。川の水が海に流れ出してる場所」
「そうじゃ」
「結構大きい街。河口周辺に港があって、運河もある」
「デルマークン王国、王都コペンバーゲン。商業都市じゃの。ここで大きな船から小舟に貨物を乗せ換えて内陸へ運河で輸送もしておる。なかなかの発展ぶりじゃの」
「事故や火事が起こっているようには見えないけど」
「……少しずつ広がる目に見えない人為的な災害じゃ」
女神ルミテスがパネルのスイッチを切り替えると画面が色分けされたグラフィック画像になる。
すると、この川の近くの工場から、流れ出ている廃水がグラフィックで赤い色に着色されて、海に広がっていく様子が航空写真でわかる。いつも報告映像を頼んでいる鳥や動物たちにはわからない、パレスの高解像度分析カメラのおかげであった。
「排水? 海洋汚染?」
「そうじゃ」
海は世界最大のゴミ箱である。
近代までは、そう思われていた。
いくらでも無尽蔵に物を捨てることができ、どんな毒物でも好きなだけ放流できた。これが公害となり、人類に牙をむいて復讐するのは、科学や鉱工業が発達し、大規模な工場などが作られるようになった近代以降の話である。太助がいるこの世界は、石炭の採掘が始まって産業革命前夜といった時代と言えるかもしれない。
「なにが流れ出してるんだ?」
「有機水銀じゃの」
「水銀か――――!」
水銀。常温では固化しない唯一の液体金属である。伝導性、熱伝導性、熱膨張率が高く、他の金属と合金化しやすい上に、通常の過熱で蒸発させることもでき、あらゆる産業分野でかつて使われていた。古代では染料として使われた硫化水銀から、家庭でも水銀が使われていたものは電池、体温計、蛍光灯、電子部品など利用例は幅広い。
だが、猛烈な毒性があることでも知られ、その実害が出るようになってからようやく使用が禁止され、次々に市販の製品が水銀ゼロ化されていったのは太助でも知っている。
「水銀の工場があるの!?」
「そうじゃ」
「水銀なんてこの世界で何に使うの! ろくに電気もないくせに!」
「錬金術師が好んで使う素材の一つということもあるがの、金の精錬に大量に使われているのじゃ。ここは金鉱山に近いのでの、それでこの港に水銀の精錬工場が作られたのじゃ。まだ規模は小さいがの」
「あちゃー……」
水銀の毒性、公害の危険性がまだ周知されていないのだ。水銀を使う金の精錬は古代から使われていた古い手法で、江戸時代には佐渡の金山でもやっていた。
「工業廃水が海に流出しておる。海流に乗って全世界に拡散するであろうの」
「すぐにやめさせたほうがいいんじゃ……」
「金が絡むと人間は汚い。いくらやめてくれと頼んでもやめてはくれん」
確かに。公害ってだいたいそういう理由で起こる。何千人、何万人に被害が出て、裁判で罰せられ、法で禁止されなければ人間はやめてくれない。人類の歴史で繰り返されてきたことである。
金採掘のために労働者の健康など度外視で大量に使われていたというのも史実であり、まだまだ人の命が安かった。
戦後の日本でも水俣病という水銀汚染による障害多発の事例もあり、海にばらまかれれば多くの被害が出るだろう。
「人間の自業自得じゃ。たとえ害があろうと身をもって学んでもらえばよい。わちが助けたいのは愚かな人間ではなくて、人魚たちなのじゃ」
「人魚! この世界に人魚いるの!」
驚いた。人魚と言えばもっとも古いファンタジーの代表格キャラクター。あらゆる物語に登場するが、もちろんそんなものは実在しない。
「ジュゴンとかじゃねーの?」
「違うわ」
「人魚じゃなくて、魚人だったりして」
「……ここは異世界じゃぞ?」
「人魚いるの!? 本物の人魚!? 下半身がお魚さんで、上半身が美人さんの!」
「本物の人魚ってなんじゃ……。人魚は人魚じゃ。ちゃんと人魚族がおるわ」
異世界すげえ。なんかワクワクしてきたのがバレないように太助は冷静を装うのに必死になる。
「最初にやるのは水質調査じゃ。この海流の先60キロに人魚たちが棲む岩礁がある。その周りでサンプルを取ってくるのじゃ」
「……わかった」
「人魚たちに会ったら、わちの名を出してもよい。協力を頼め」
「人魚知り合い?」
「さてな、それは話してみんとわからんがの」
ウエットスーツ、足ひれのフィン、ウェイト、深水計、バッグ、ライト、その他いろいろ、こんな装備までそろうというのが凄い。そしてホースレス空気呼吸器を改造したフェイスマスク。これのおかげで空気ボンベが不要で時間無制限。
「……ハッコツもやる?」
「私は水に沈んだら、もう浮いてこれませんがな」
「ジョンは?」
「……オレ水恐怖症」
「……なんで恐怖症なの?」
「泳げない。南極で海に落ちて死ぬかと思った」
「そりゃトラウマにもなるか……」
と、言うわけで、この仕事をやるのは太助とスラちゃんだけ。スラちゃんにはゴムボートになってもらって海上待機をお願いする予定。
「じゃ、行ってくる。留守番頼む。もし火事とかあったら二人で何とかして」
「了解」
「ドラちゃん! ゆっくり! ゆっくり頼むわ!!」
スキンダイビングもスキューバダイビングも経験のない太助。学生時代体育はなんでも得意だったが、普通にプールでの水泳しか経験はない。いや、海水浴で泳いだ経験ぐらいはあったか。
海面すれすれを翼を立てて減速するドラちゃん。
その背からオレンジスライムのスラちゃんを抱えて飛び降りる。
バッシャーン!
水しぶきを上げて飛び込む太助。
「テレビで確かこうやってたような」という記憶から、背中から転がるように落ちる。
あっぷあっぷしてすぐ水面へ。
「スラちゃんゴムボート!」
ぷかぷか浮いていたバスケットボール大のスラちゃんは、ぷしゅーと膨れ上がって、ゴムボート型になってくれる。
そこに、今回持たされた機材をいろいろ乗せてから、太助もスラちゃんの上に乗り込んだ。
「ええーと……どこだろ」
見回すと、波に洗われて水しぶきを上げている岩礁が見えた。
「あれか……」
双眼鏡で見てみると、岩の上に人魚がいる!
「人魚! 人魚! 人魚! 人魚! 本物だ――――!」
それは絵本や童話に登場する人魚様そのものであった!
岩礁の周りでもぱちゃぱぱちゃしてて、楽しそうだ。
「美女! 美人! 美少女! おっぱ……」
水着なし。生乳。
俄然やる気になった太助は、ゴムボートのスラちゃんの後ろから「放水くん」を水面に差し込んで放水を推力にして、ゆっくりと岩礁に近づいた。
「こんにちわー! 異世界救助隊の者です!」
「……」
近づいて気付いた。
スケール感がおかしい。
なんていうか、そう、双眼鏡で見たときはわからなかったが、1/2サイズ。
うん、人間より小さかった。子供ではなく。
巨乳が、美乳が、ちっぱいが、じゃなくて体が1/2サイズだった……。
その美人美女美少女たちが、すんとした真顔になってこっちを見ていた。
「きゅわきゅわきゅわきゅわ」
何言ってんだか全くわからなかったが、少し間を置くと喋ってることが分かるようになる。
「なによーあんた!」
「あっちいってよー!」
「ここは私たちの海よ! ちかよらないでー!」
異世界言語翻訳能力に涙。めっちゃ嫌われてる……。
「あの、みなさん、最近具合が悪い、体調が悪いということはありませんか?」
目的は水質調査と人魚たちの健康被害調査なので、聞いてみる。
「あんたなの――!」
「毒まいたの!」
「あんたのせい! あんたのせい!」
「きゅわきゅわきゅわきゅわ」
……悪口は一部翻訳不可なのかもしれません。
「話を聞いてくれませんか。あの、この先の海で毒物である水銀が排水されているのです。健康に大変障害のあるものです。なので、この海の調査をして、毒物がみなさんに影響しているかどうか調べたいのです。なにか困ったことはないか調べさせてください」
「……」
人魚たち、顔を見合わせて話し合う。
「王女様が倒れたのー!」
「王女様の具合が悪いのー!」
「ほかにも倒れた子がいるのー!」
……悪影響が出ているらしい。これは放っておけない。
「あの、王女様が倒れたなら、ぜひ会わせてもらえませんか。もしかしたら治療できるかもしれませんので」
人魚たち、また顔を見合わせてきゅわきゅわきゅわきゅわ。
「おかしなことしたらころすよー!」
「のろうよー!」
「魔法かけるよー!」
「サメに食わすよー!」
「うん、いいよいいよ。そうして。でもその前に一度王女様に会わせて」
ぴょん。
数人の人魚が岩礁から飛び跳ねて海に飛び込む。
「ついてきてー!」
「はい!」
太助はメディカルパックの包みと、サンプルバッグを持って水に飛び込んだ。
素早い動きの人魚たちについていくのは苦労した。置いて行かれそうになったが、ふと思いついて水中で放水くんを使ってみた。絞った放水を後ろに向けると、それが推力になって水中でもけっこういい感じに移動できた。使えるなかなかいいアイデアとなった。
十数メートルの海底に沈没船が沈んでいる。人間サイズ用の船だ。船室に案内され、潜ってゆくと、船員たちの寝室だったらしい場所にその王女様ってのがいた。
頭にちいさいサンゴと真珠の冠をかぶっているいい女だった。なぜかこのお方だけが普通に人間サイズで大きく、粗末な板だけの船員ベッドに横たわっていた。
王女様ってことは、どっかに人魚の王がいるってことかと思う。あるいは女王かもしれない。人魚の雌雄がどうなっているのかは知らないが、男の人魚ってのはあんまり見たくないなあと思う。
王女様、美人さん。プロポーションがすばらしく、何と言ってもそのお胸が美しい。
「あ、誰……」
「異世界救助隊の者です。世界中誰であろうと、命の危機にある方を救助して回っております」
「異世界救助隊……ごほっ」
苦しそうだ。
「初めて聞きました。人間のお方が私たちにいったい何の御用で」
「私は人間ですけど、そんなのは今は関係ないと思ってください。最近、水質が悪くなり、体調がすぐれない。体の具合が悪い、そういうことはありませんか?」
「そうなっておりますが……お見苦しいところを」
いえいえ大変すばらしいお顔とお体となんといってもその美乳で眼福をさせていただいておりますと太助は言いそうになったが、抑えた。
「……これを飲んでみてくれませんか? 神泉の聖泉水から作った薬です」
ルミテスが、「飲んでも効用がある!」と太鼓判を押した、あの大浴場の湯本からちょろちょろ流れてくる源泉を瓶に詰め、祝福をかけたものである。
女神様の聖水って、アレじゃないよな? と何度か聞き直してぶん殴られたのは秘密である。
「神泉……。もしかして女神ルミテス様の?」
「ご承知でしたか」
「異世界救助隊というのは?」
「そのルミテス様が、困っている地上人を救うべく組織した救助組織なんです」
「そうでしたか……」
「みんなー!」
太助は周りを見回して、人魚たちに宣言する。
「もし王女様が、これを飲んで、もっと具合が悪くなったり、死んだりしたら、今すぐ俺を殺していい!」
人魚たちがびっくりした。
「でも、もし治ったら、俺に協力してくれないか!」
そして、太助は瓶を王女様に渡して、空気呼吸器の面体を取った。
「がぼっ」
もちろん太助は息ができなくなる。必死に息を止めて我慢する。
太助はだんだん苦しくなってくる。
王女はそれを見て目を見開いた。
「は、はやく……飲んで……がぼっぶぼぼぼぼぼ」
慌てて王女は瓶の栓を抜いて、その神泉の水を飲みだした。
水の中では瓶の水はめっちゃ飲みにくい。
でも苦労しながらも王女様はそれを飲んでくれた。
太助も息が切れそうだ。
「飲みました!」
「がぼっぐぶぶぼ」
太助は面体を当てて、ぜーはーぜーはー息をする。吐き出すたびに空気の泡が水中に吐き出される。
太助はそのまま気を失いそうになったが、その太助を、女王様がそっと抱き上げて、その豊かな胸で抱きしめてくれた。
もしそれを飲んで王女が死ぬようなことがあれば、自分も死んでやる。
信用しろ。
太助の命を懸けた訴えは、確かに人魚の王女に届いたのだった。
次回「37.海洋汚染を防げ! 後編」




