緑の眼の魔物
――来る。
氷の森は、一時ゴメルで動きを止めていた震天狼が動き出すのを察知した。
魔物トラッシュの捕食は間に合わないようだ。
可能ならばカルロの身柄も人質として押さえて使いたいところだったが、トラッシュの守りは存外に堅く、攻めきることができなかった。
トラッシュという魔物の力を、弱く見積もり過ぎたようだ。
――やむを得ない。
最初の策で、葬り去るほかないだろう。
なんにせよ、滅ぼさなければならない相手だ。
震天狼の熱は強すぎる。
氷の森の存在を脅かし、氷の森の存在目的を妨げる。
葬り去らなければならない。
使命を果たすために。
イベル山に陣取らせた蚯蚓型の大氷獣を前進させる。
大氷獣の存在には気付いているようだ。
疾駆する震天狼は、遠距離から熱線を放った。
直撃すれば、大氷獣も一撃で消し飛びかねない熱量の一閃。
だが、対策済みだ。
大氷獣は熱線のエネルギー移動に干渉、一八〇度ターンさせる形で震天狼へと反射した。
震天狼は軽く体をずらし、戻って来た熱線をかわして足を止める。
まずは、通用したようだ。
震天狼を警戒させる程度には。
そして雪下でのカルロ、トラッシュとの攻防にも手応えがあった。
氷獣ドルカス達が取りついていた障壁が、ついに破れた。
雪の中の氷獣たちが一斉にカルロ、トラッシュに爪牙を伸ばす。
そして、吹き飛ばされた。
高い雪の柱を立て、人影が空中に舞い上がり、哄笑が響く。
「……カカカカカ」
赤マントの魔物トラッシュの笑い方。
だがそれは、トラッシュではなく、トラッシュを身につけたカルロの声だった。
巻き上がった雪煙が止む。
――これは。
氷の森は、戦慄した。
ほんの数分前、雪崩に呑まれる前とは、異質なものがそこにいる。
憑依の深度があがっているらしい。銀色だった髪色は真っ白に、その双眸ははっきりと、緑色に発光していた。
だが、着目すべき点はそこではない。
最も大きな変化は、その身に帯びた魔力のあり方だ。
ズタズタのマントの中にくすぶり、わだかまっていた巨大な魔力が、今はマント全体、そしてマントを身につけた『カルロ』の全身を静かに、なめらかに循環していた。
「もう充分だ」
緑の眼の魔物がそう呟くと、赤いマントを縫い止めた黒い糸がするすると抜けて、三匹の小さな黒羊に変わる。
三匹はそこからさらに黒い毛糸に変わると、勝手にマフラーのように編み上がり、魔物の首にくるくる巻き付いた。
魔物はそれを軽く撫でたあと、ポケットに両手を入れる。
風に翻る赤マントには、裂け目はおろか、繕った形跡さえ残っていない。
魔物は視線をおろし、足もとを見下ろす。
「あがってこい」
そう告げた魔物は、そのまま地面の近くまで降下した。
雪の中から、ドルカスたちを初めとする氷獣たちが姿を現し、魔物を取り囲む。
「ふん」
魔物は鼻を鳴らし、氷獣達を見渡した。
「誰が言ったかは忘れたが、弱いらしいな、俺は。震天狼には及ばない。震天狼なら、おまえたちなど一瞬で消し飛ばせると。確かに俺には、そんな馬鹿力はない……だが」
魔物はポケットから右手だけを出し、パチンと指を鳴らす。
それで、終わりだった。
氷獣たちは、その瞬間に、全て動きを止めた。
なんの魔力も持たない、ただの氷塊と成り果てて。
「氷獣とやらを、ただの氷に戻すことはできる」
魔物は視線を動かし、氷の森を視た。
「俺の名は、ロッソ。アスガルの氷の白猿候スパーダの魔力と、記憶を受け継いだもの」
○
氷の白猿侯?
氷の扱いが得意ということだろうか。
「他にどんな脈絡がある」
ロッソはおれの声で偉そうに言う。
状況が状況だ。
おれの体を使ってもらうのは構わないが、「カカカ」嗤いだけは控えてほしいところだ。
喉を痛めそうな気がする。
「白猿侯スパーダは氷雪を支配する力を持っていた。氷の森がおれに食指を動かしたのも、その関係だろう。性質的に近いものがあるからな」
性質的に、取り込みやすいものに見えたのかも知れない。
『具合はどうだ?』
ロッソの補修は、簡単な仕事だった。
バロメッツたちの糸を使って繕ってやると、勝手に自己修復し始めた。
ヒドラとは違うみたいだが、なにかの自己修復系素材を使っていたらしい。
ロッソ自身に「元の姿に戻っていい」という意識が生じたことから修復機能が活性化したようだ。
というか、放っておけばいずれ修復するものを「元の姿にはもどらない」という強固な意志で押さえ込んでいたらしい。
こじらせすぎとしか言いようがない。
「雪の下でおかしな姿勢で縫ったにしては上出来だ」
ロッソの性格からすると、褒められたとみるべきだろう。
そこに、
「カルロ!」
大狼の姿のルフィオが飛んできた。
普段の行動パターンだと、雪の上に押し倒されてなめ回されそうな場面だったが、今はロッソを身につけて、憑依されている状態だ。ルフィオは少し距離を取って、「だれ?」と言った。
「俺だ」
風もないのにはためいて、赤マントはそう言った。
「心配するな。一時的に憑依しているだけだ。ことが落ち着いたら返してやる」
やや不満げに尻尾をゆらしたルフィオだが、この場はロッソにおれを預けたほうがいいと判断したらしい。
複雑な調子ではあるが「わかった」と告げた。
体の制御を一時的に返してもらい「ルフィオ」と声をかけると金色の大狼は子犬みたいに喉を鳴らしてすり寄ってきた。
頬や喉を撫でてやると、少し気分が落ち着いたようだ。
小さく尻尾を振ると「いいよ。もう大丈夫」と言って、イベル山からやってくるばかでかい蚯蚓みたいな氷獣に向き直った。
「離れてて」
「いや、俺がやる」
俺の喉を使ってロッソが告げた。
「あの氷獣には、熱の動きを操作する機能が付与されている。おまえとの戦闘を想定して調整した個体だろう。俺の方が相性はいいはずだ」
「関係ない」
「そこを曲げて頼む」
ロッソは落ち着いた調子で言った。
「俺はどうも、氷の森になめられているらしい。俺は別に構わんが、こいつが立腹している。養父であるホレイショに作られたものが、氷の森ごときになめられるとは我慢がならんと。思い知らせてやる必要がある。俺の真価が、どの程度のものなのか」
確かに似たことは言ったが、ダシに使われている気もする。
おれの名前を出されると弱いようだ。ルフィオは小さく困ったように唸った後「わかった」と言った。
「ケガはさせないでね。ぜったい」
念を押すルフィオ。
ロッソはいつものように、フンと鼻を鳴らした。
「当然だ。かすり傷もつけさせん」




