第二王子、よみがえる記憶
どこからか、ヴァイオリンの音色が聞こえる。
王城の執務室で、私はその音に顔を上げた。
兄の婚約者であるカティナベルと学園で話してから、数日が過ぎていた。
あの日から、劇的に何かが変わったりはしていない。だが、彼女と兄の関係はぎこちないながらも、なんとか決裂することなく、保たれているようだ。
学園内や城内で見かけたかぎりでは、吹っ切れたかのように朗らかな彼女に、兄上がたじろぎ、逃げ腰になっているようだった。……兄上の気持ちも、分からないでもない。自分が敵と認識している存在が、とんでもないお人好しを発揮して、自分を救おうとするなんて、誰が想像できるだろうか。そんな心情は、実際に相手から説明された身でも、理解し難い。そして、理解できないものは正直、気味が悪い。
私はため息を吐くと、窓の向こうへ目を向けた。執務室から見える中庭は、冬にも関わらず、色鮮やかで、先日、カティナベルが泣いていた庭の寒々しさとは対照的だ。あの庭は王妃が幼少の頃過ごした、実家である隣国の森に似せて作られたもので、高貴な身分の者の目を楽しませるため、工夫が凝らされた城内の庭の中では異質なものだった。
この部屋から見えるのは、明るい色合いの砂利を敷き詰めた道。その両脇には葉を落とした黒々とした木々を背景に配置された、寒さから赤や黄に色づく葉と枝。薄暗い冬の雨の中、ここだけが暖炉の火のように赤々と色づいている。
換気のために窓を細く開けさせれば、外から冷たく湿った空気が入り込み、暖炉で暖まった空気にぼうっとしていた私には心地よく感じられた。
――雨の匂い……。土と緑の匂いだ。
朝から降り続く穏やかな雨に、心が落ち着いてくる。私は雨音に耳を澄ませながら、休憩のために用意したお茶に口をつけた。
――兄上、すごいですっ!
雨の匂いとヴァイオリンの音色に、朧気な記憶が蘇る。
――どうしたら、兄上みたいにできますか?
本当にあったことなのかどうかも、あやふやな記憶が呼び水となり、様々な記憶が蘇ってくる。
私はずっと、兄上を軽蔑してきたと思っていた。だが、本当に小さな頃は兄上を憧れの目で見ていたのではなかったか。
静かな雨のように優しく響く歌声。
女性が伸びやかに歌っているかのようなヴァイオリン。
ときに小鳥がさえずるように、風が吹き抜けるように空気を揺らす横笛。
繊細に、時に大胆に。優しく、激しく、世界を彩ってゆく音楽。
そう、兄上は天才、否、神童だった。
惜しむらくは、彼の身分が王族、長男だったこと。
彼は音楽に人生を捧げることが、許されない立場だった。




