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婚約者の回想3・浮気直後




「ふざけないでよっ! あんな人、地獄に落ちればいいっ……!」


 心を浮上させるのは時間も手間もかかるが、落ちるときは一瞬だ。

 部屋にひしめく一級品の品々しなじなの中から手元のクッションをむんずとつかむと、私はソファを乱暴に叩いた。

 

「浮気とか、馬鹿にするのもいい加減にしてっっっ!!!」


 わたくしは怒りに任せ、クッションを部屋の向こうへ投げつけた。握りしめた手は荒れ狂う感情に小刻みに震えている。


 ――許せない、許せない、許せないっっっ!!!


 頭に血が上り、胸の内ではどす黒い感情が暴れている。


 ――私が今まで、どれほど悩み、努力してきたのかも知らないで……っっっ!!!


 わたくしはずっと、彼にキツく当たられるのが理不尽だと思っていた。

 政略結婚で立場は同じはずなのに、なぜ、私が一方的に非難され、嫌悪されなければいけないのだろう、と。彼の陛下への反発が原因のようにも思えたため、八つ当たりされているのだ、とも感じていた。

 人を無視したり、軽んじて冷たくあたる彼の人間性にも眉をひそめた。

 そして、なにより、努力が報われないことに苛立っていた。

 彼から向けられる蔑みの視線に耐え、笑顔を作り、友好の手を差し伸べ続け――私は、こんなにも我慢・・しているのに……っ!

 それまでは不快に思っても、些細ささいなことだ、と流したはずの全ては消えていなくて。浮気の件が火種となって、積み重なった小さな記憶を燃料にして、怒りの炎が大きく燃え上がる。



 ――最初は婚約者以外の女性と親しげにするなんて、悪い噂の種になるようなことをする軽率さに呆れただけだった。

 愛称で呼び合ったり、頻繁ひんぱんに二人で楽しそうにしていたり。たったそれだけのこと、とも言えるが、噂が広まるのは早かった。「二人が恋人同士のように見つめ合っていた」というのは良い方で、「殿下が身分の釣り合わない女の尻を追いかけている」「女性の方が媚を売って、殿下にまとわりついている」など、批判的な内容のものばかり。

 もともと殿下への評価が低かったこと。また、私や公爵家と親しくし、恩がある、とまで言ってくださる方が有力者に多かったこと。身分差を重要に思っている方が多いこと。そういった様々な要因が彼らに対する風当たりのきつさに繋がっていた。

 下衆ゲス勘繰かんぐりでしかなかろうが、噂が一度広まってしまえば、事実かどうかは重要ではなくなる。ただ疑惑があるというだけで、いつまでもその人の評判をおとしめ、信用を落とし続ける。責任ある立場、公人こうじんであれば隙きを見せてはいけない。軽はずみな行動は、所属する組織全体の信用を落とすのだから。


 ――……なんで、こんな簡単なことも分からないのかしら。


 心の内から小さな囁きが聞こえた気がした――と同時に、首を振って見下すような物言いを打ち消す。


 ――まず、大事なのは相手を知ること、話を聞くことだわ。そのためには、根気強く、相手が心を開いてくれるのを待たないと。忍耐強さが大事なんだわ。


 彼の行いに軽い苛立ちを覚えたが、そんな自分をいましめた。だが、それも段々と難しくなっていく。

「二人が手を取り合っていた」「抱き合っていた」「キスしていた」

 そんな噂が飛び交い始め、不安と焦燥にかられる日々が続くと、とうとう、一言、苦言せずにはいられなくなってしまった。とにかく、彼をなんとかしてまともな道に戻したかった。人心じんしんが離れては、いくら王太子と言っても名ばかりのものになってしまう。彼は自分で自分の首を絞めているのだ。


『殿下、あの子とのこと噂になっていますわ』

『だから、何だというんだ。文句があるなら、婚約破棄でもなんでもすればいいだろう』

わたくしから婚約破棄なんてありえません。少し考えれば分かりますでしょう……? 早く、あの男爵令嬢とは距離をとってくださいませ』


 私の必死の忠告に、彼はうるさい、と吐き捨てて立ち去った。私の苛立ちはつのるばかり。

 そして、ある令嬢たちが噂していたのを聞いてしまったのが先月のこと。


『あの二人、昨日の最後の授業に出ていませんでしたわね』

『授業で使われていなかった部屋に二人きりでいたらしいですわ』

『出てきたところを見ていた人がいるんですって』


 その時は、殿下の不名誉になるような話を言いふらさないように忠告し、彼女たちも私に聞かれてしまったことで青ざめており、その場はどうにかなったかのように思われた。

 けれど、あの殿下が行動を改めなければ、その後も目撃者が増え続けるのは当然のことで……。


『知ってます? 曾祖母様ひいおばあさまが社交界デビューした頃は、家同士で結婚を決めて本人の意志を聞かないのが普通だったんですって』


 その日、学園のご令嬢たちが輪になって、クスクスと意地の悪さが滲む笑みを浮かべていたかと思うと、突然、やや大きめな声でおしゃべりを始めた。


『あぁ、わたくしも聞いたことがありますわ! そういう仕来しきたりの影響かしら。その頃は夫婦でダンスをするかたはほとんどいなかったらしいです。夫婦で踊るなんて、田舎者扱いされたらしいですわ』


 芝居がかった口調の相槌が、神経を逆撫でる。


『夫婦のどちらも愛人とパーティーに参加するのが流行りだったらしいもの。それが洗練された、王都の貴族の振る舞いだったんですって』

『わたくしたちは幸せね。最近は恋愛結婚が流行はやりですもの』

『今どき、家同士で婚約者を決めるなんて、頭の固いお祖父様、お祖母様が大きな顔をしている家くらいですものね』


 話の流れから、どうやら、この聞えよがしなおしゃべりは私に向けたものらしい、と察する。


『お祖母様やお父様たちの時代は駆け落ち結婚が多かったみたいですけど、悪い男に騙される令嬢も多かったらしくて。本当に、恋愛結婚が普通の時代で良かったですわ』

『えぇ。勝手に相手を決められるなんて、きっと、惨めに違いませんもの』


 最後のセリフに、わっと笑い声があがる。

 いやだ、言い過ぎよ。ふふ、そこまでハッキリ言ってしまうの? ひどい方ね。と、諌めるような言葉が飛び交うが、皆が嬉しそうに、また、満足げに笑っていた。


「白々しいっ! 余計なお世話よっっっ!!!」


 ボフンッ、と叩きつけた羽毛のクッションが弾む。あのわざとらしい笑みを思い出して、何度もクッションを叩きつけた。

 あの子は自分が王太子の婚約者に選ばれなかったことで、ずっと私に憎々しげな視線を送っていたけれど、学園で実際の私達の様子を目にするようになってからは、いつも小躍りしそうなほど上機嫌で、それを隠しもしない。周囲が皆、殿下を見下しているから、自分も彼を見下しても良い、と思っているのだろう。実際、殿下にはなんの力もなく、殿下が彼女を嫌悪しても実害はないに違いない。また、彼女は自分の機嫌次第で権力を振るうだろうが、私はそういった行動を嫌悪している。だから、私を見下した態度を取ろうが、実害はない、と考えているのだろう――実際は、私の後ろには現国王陛下とその臣下の方々がついているので、彼女の振る舞いは浅はかとしか言えないのだけれど……。

 そう。理解ってはいるのだ。彼女のような人間に一々、腹を立てる必要はなく、自分は堂々としていれば良いのだ、と。それでも、反射的に湧き上がる感情はコントロールができない。他人にあざけられれば腹が立つし、悔しいし、屈辱を感じてしまう。気苦労が増え、不満がたまり、心に余裕がなければなおさらだ。寛容になるどころか、どうでもいい些細な事柄でさえ、心がささくれ立つ。


 ――私は何も悪くないのに……っ!


 そう思う心があれば、なおさら感情は乱れ、心はどす黒く染まる。

 なぜ、殿下が馬鹿なせいで私までも馬鹿にされ、あざけりや、憐憫れんびんの視線を向けられなければならないのか。理不尽だ、と思うと同時に、殿下へ非難の目を向けずにはいられない。

 だが、そんな自分の考え方が間違っていることも、よく分かっていた。汚い感情に飲まれようとしている自分を客観的に見ている自分もいるからだ。

 殿下の一言一言が、一挙一動が、まるで泥の中から現れた亡者の手のように自分を引きずり落とそうと絡みついてくる。

 沈むまい、と抗ってはいるものの、心の中はぐちゃぐちゃで、すでに泥まみれになっているように感じていた。


 ――ああ、嫌だ。こんな自分も、私をこんな風にしてしまう彼も……。嫌い。嫌い嫌い嫌い……っ!


「……大っ嫌いっ!」


 力任せに放り投げたクッションが壁に跳ね返され、床を転がる。息を荒らげて、そのクッションを睨みつけていたが、膝を抱えた。


「こんな私自身が、一番嫌い……」


 こんな心も、自分も――みんな消えてしまえばいいのに、と体をギュッと抱きしめた。


<蛇足、または裏設定>

先々々代の国王陛下が女性にだらしなく、国民の前に出る時以外、様々な催し物に愛人を伴って参加していた。特に仮面舞踏会を好んでいたらしい。王妃は対抗し、不貞、跡継ぎ問題に引っかからないよう、男装の麗人のエスコートで出歩くようになる。

結果、家が決めた政略結婚に不満が溜まっていた貴族たちもそれにならい始めた。

「結婚は家のため。跡継ぎを用意できれば、自由恋愛を楽しむ」というのが、王都の洗練された貴族の振る舞いとされた。(同時期に自由恋愛の末、恋人と国外へ出奔する夫人も続出したらしい)恋愛結婚はダサい、田舎者、という感覚だったようだ。

そんな親を見て育った子どもたちの世代から駆け落ち結婚が増え、現在は演劇の影響もあり、恋愛結婚が流行り。

とはいえ、貴族の結婚なので、家格が釣り合うのは大前提。家長の許可は絶対必要。

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