490話 今までありがとう
「え?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
だから、ついつい間の抜けた声をこぼしてしまう。
「今、なんて?」
「逃げましょう」
「逃げる、って……どうしたの、いきなり」
「ハルは、どうして平気でいられるの? どうして、こんな現実を受け入れているの? 私は、こんな現実は否定したいのに……」
なぜかレティシアは悔しそうだった。
とても悔しそうだった。
唇を噛んで。
それから、どこか泣きそうな目をこちらに向けてくる。
「誰もハルのことを知らない、どこか遠い場所に行きましょう? それこそ、世界の果てとか。そこで、畑を耕しながらのんびり暮らすの。私は狩りをしてもいいわ」
「立場が逆のような」
「例えの話よ」
「でも……どうしてそんなことを?」
「うんざりだと思わない? 魔王とか勇者とか天使とか神とか……そんなことは知らない。私達には関係ない。私はただ、普通に過ごせればそれでいいの。勇者? そんなものはどうでもいい。ただ単純に、ハルと一緒に冒険者になって、あちこちを旅できればそれでよかった。それ以上は望まなかった」
「……レティシア……」
「でも、現実は違う。私は勇者になって、魔人になって……ハルは新しい魔王になった。必然と天使と戦うことになった。神とも。どうしてそんな過酷な運命を背負わないといけないの? なんてことはない。ハルはただの一般人のはずよ。それなのに……」
「ありがとう」
湧き上がる気持ちを我慢できず、レティシアをそっと抱きしめた。
「……あ……」
彼女は俺を否定しない。
突き飛ばすようなことはせず、されるがまま。
混乱しているのか。
それとも、俺を受け入れてくれているのか。
そこはよくわからないけど……
そのまま俺は素直な気持ちを言葉にしていく。
「レティシアは、そうやって今まで俺のことを心配してくれていたんだよね。二人でパーティーを組んでいた頃、酷いことをしていたのも、俺を守ろうとしてのことだった」
「それは……」
「今ならわかるよ、レティシアの不器用な優しさが。全部を話すわけにはいかない。でも、他に方法がない。だから、ああするしかなかった。とても不器用なやり方だけど、でも、全力で俺を守ろうとしてくれた」
「……」
「今までありがとう、レティシア。君のおかげで、俺は今、ここにいることができる。たぶん、あの時のことがなかったら、俺はここにいないと思う。途中でどうにかなっていたと思う。だから、俺はレティシアに助けられたんだ」
「……ハル……」
「ありがとう」
もう一度、素直な気持ちを口にした。
レティシアがそっと俺の背中に手を伸ばす。
弱々しく。
でもしっかりと抱き返してくる。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「ハルのためと思ってああしていたけど、でも、私のためだったのかもしれない。ハルと離れたくなくて、一緒に……私は魔人になった影響でおかしくなっていったのに、自分の行動を正当化するように……」
「レティシアは正しかったよ。確かにやり方は不器用だったかもしれないけど」
「でも、私は……」
「気にしているなら……許すよ」
「……あ……」
レティシアの体から力が抜ける。
そんな彼女をさらに強く抱きしめた。
「レティシアのしたこと、全部許すよ。水に流してしまおう」
「いいの……?」
「いいよ」
「でも、どうして……そんな……」
「だって」
にっこりと笑う。
「俺、レティシアの幼馴染だから」
「……ハル……」
「俺も君と一緒にいたいんだ。これからも。だから、もういいよ。昔のことは気にしないでいいよ」
「……」
「その上で、言うよ。俺は逃げないよ」
「でも、それは!」
「うん。とても過酷な道を歩くことになると思う。レティシアはそれを心配して、一緒に逃げようって言ってくれたんだよね?」
レティシアは無言で頷いた。
ただ、その顔はどこか気まずそうで……
彼女自身、逃げるという選択をよく思っていないのだろう。
「なにもかも忘れてのんびり暮らす。悪くない話だと思う。本当に」
「なら……」
「でも、ダメなんだ。そうしたら楽だと思うけど、あまりにも無責任すぎる。それをできないくらい、俺は色々なものを背負いすぎた。それを放り出したくない」
「……」
「それに……なによりも、まだみんなと一緒にいたいんだ」
アリス。
アンジュ。
ナイン。
サナ。
シルファ。
クラウディア。
そして、レティシア。
ずっとみんなと一緒にいたい。
逃げたらそれは叶わない。
だから逃げるわけにはいかない。
そんな単純だけど、とても大事な想いが根底にある。
「だから、俺はがんばるよ。この先なにがあろうと、がんばって乗り越えてみせる」
「辛い目に遭うかもしれないのに?」
「俺は一人じゃないから。だから、乗り越えられると思う。みんながいて、レティシアがいる。助けてくれる?」
「それは、もちろん」
「なら、大丈夫だよ。うまくやっていけると思う。だから……」
今度はレティシアの手を取る。
俺よりも小さく、細い手だ。
こんななのに、今までずっと一人でがんばってきた。
「今度は、俺がレティシアを守るよ」
「……ハル……」
「だから、一緒に行こう?」
「ばか」
レティシアは涙をこぼす。
でも、笑っていた。




