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沼地

 ──青灰色の濁流の中を流される。

 もみしだかれ、押しつぶされそうになりながら流されていく。


 長い時間……いったいどれくらいの間、流され続けているだろう。

 それでも意識だけは細々とつながり、いつのまにか考えることさえもできるようになっていた。


 彼がいなくなったのちの日々も、閉じこもった部屋の中で、感情の流れに押しつぶされそうになりながら考えていた。 インキュバスと呼ばれる魔物のことを。


 インキュバスがなんのために触手を伸ばして巨大化しようとするのか、ふしぎだった。

 強くなって生きのびるためだろうか。

 自分の周囲すべてを取り込めば満足するのだろうか。

 すべての命を取り込んで、自分以外に誰もいなくなって、いったい何が残るのだろう。


 そう考えているうちに、思いがけない方向から別の考えが浮かびあがり、時がたてばたつほど頭を占めて離れなくなった。


 わたしたちは……王族も兵士も民もすべてが、インキュバスの幼生体がいろいろな姿を持っていることを恐れていた。

 どんな姿で生まれているかわからないから、変態するまで狩ることができない。

 最初の段階、たとえば胎児のころを調べれば共通点がみつかるにちがいないといった意見も飛び出し、調査を進める人々もいた。


 けれど、いまのわたしはそんなふうには思っていない。

 もとからインキュバスとして生まれるのではなく、ただの非力な魔物に何か別のものが入り込み、繭を作って変態する。

 その別のものの名前をこそインキュバスと呼ぶのだと、わたしはたぶん知っている。


 インキュバスというのは種なのだ。

 さびしい魔物の体内に巣食う種のようなものなのだ。


 種は根を張り芽を出し、伸びていく。身体の奥に、胸の奥に、心の奥に。

 枝を張り出し蔓をからませ、根を広げて伸びていく。

 そして伸びながら夢をみる。

 ひとりぼっちの魔物がみている、長い夢。


 さびしい。さびしい。仲間がほしい。

 そばにいて。いっしょにいて。もっと、もっと、もっと。


 ラキスが川に落ちたとき、その体内にインキュバスが入り込んで彼を生かしているのではないかという推測は、わたしの中ではごく自然に浮かんできた考えだった。

 魔物の血をひく若者の身体に種が入り込むのは、さぞたやすかったことだろう。


 ただ証拠となるものは何もなく、城を出たのは一種の賭けだった。

 単なる推測にすがりつきたいだけだったともいえる──丘に登る途中で出会った僕の身体に、銀の鱗を見るまでは。


 気がつくと、激しい流れはいつのまにかおさまっていた。

 果ての見えない青灰色の沼地のほとり、静寂の中にわたしはいた。


 沼地だと思うのは、水面が波打つようなゆるい動きを感じる気がするからだ。

 といっても、わたしが立つ場所との境目はごく曖昧で、はっきりしない。

 いま立っている場所がたしかな地面であるとは思えない。

 頭上にあるのが空だとも思えない。


 ひたすら暗く静まりかえった空間。

 上も下も、右も左も、重く濁った青い闇。


 ふと、どこかでかすかな音が聞こえるような気がした。

 聞きとれないほど小さい……もしかすると声だろうか。

 わたしは音のするほうに向け、沼にそってゆっくりと歩きはじめた。


 前方がわずかにかすみ、青灰色のこまかい粒子のようなものが、わたしの行く手に幕となっておりてくる。

 雨……? 

 掌を差し出してみたが、ぬれる感触はどこにもなく、まるで霧雨のようだ。


 城の中庭に雨がふっていた日のことを、思い出した。

 小雨にけむる夕暮れの中庭。雨の向こうから聞こえていたのは、静かな弦の響き。


 名前をつけられた魔物を討つのは、はじめてだったから……。そんなふうに言っていた。

 北の塔で魔物を手にかけるとき、その名前を呼びかけたのだろうか。

 振り返るのを待ったのだろうか。

 魔性のしるしを肌に刻みこんだまま、どんな気持ちで魔物を狩っていたのだろう。


 霧雨がしだいにうすれ、小さな声が聞きわけられるほどに近づいた。

 子どもがすすり泣く声だった。


 目の前で両親を食い殺された、まだ八歳の男の子。

 ただひとりだけ食い殺されず見逃されて、生き残った男の子が、沼のほとりにしゃがみこんで泣いている。

 やがて大きくなったとき、剣士の道を生業として選ぶ子が。

 剣士になったその理由を、憎しみや復讐のためとは言わず、贖罪という言葉で語るようになる男の子が。


 わたしは、彼のほうに少しずつ歩み寄っていった。

 そして足をとめ、怖がらせることのないように、そっと声をかけた。


「……ラキス」


 男の子が、両腕の上に顔を伏せたままの姿勢でわたしを見た。

 わたしはほほえんだ。


「やっとみつけた。こんなところにいたのね」


 けれど彼は、わたしの言葉がおわらないうちにぎゅっと目を閉じ、両手で耳をふさいでしまった。

 わたしはかまわず続けた。


「あなたは嫌だと思うけど……一度だけ、あやまらせてね」


 さらに一歩近づき、心をこめてゆっくりと言う。

「ごめんなさい」


 足元で水の揺れる感触があった。汚泥のゆるやかな動きが伝わってくる。


「あやまるのは一度でおしまい。これでおあいこだわ。あなただってわたしに隠しごとをしたんだから」


 男の子が顔を上げた。

 頼りなげな幼い視線を、のがさずつかまえた。


「怒ってないわ。大丈夫」


 駆け出して、そばに行ってあげたかった。

 そうしようとして、けれどできないことに気がついた。

 沼の境目がいつのまにか完全に溶けくずれ、足元にあった汚泥が膝まで上がってきている。


 ……上がっているのではない。わたしが沈んでいるのだ。

 青灰色の沼はいつしかあたり一面に広がり、その中にたたずむわたしの両足に、汚泥が重くのしかかる。

 動けない。


 「……わたしを取り込むの?」


 男の子は沈まずに同じ姿勢を保っていた。

 わたしの足元あたりにちらりと目をやり、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに無表情に戻った。


「あなたがそれを望んでいるなら、嫌とは言わないわ。したいようにすればいい。でも……それが望み? 本当に?」


 ずずず、と両足が沈み込んだ。

 まったく動かすことができない。というより、動かすものがもうないのかもしれない。

 身体から感じとるのは、周囲がゆるやかに揺れ続けている気配だけ。

 汚泥の沼に溶け込んだ足は、きっともう、形をなくしてしまっているのだ。


 わたしのかわりに、男の子が立ち上がった。

 わたしから離れていこうとするその背中に、声を強めて呼びかけた。


「望んでいるのは、そんなことじゃないはずよ。こちらに来て。わたしは動けないんだから」


 足をとめて彼が振り向く。そのまなざしに、胸がつまった。

 問いかけずにはいられなかった。


「覚えている? 天馬の瞳が何色なのか」


 返事を待った。静寂の中でじっと待った。やがて……。

 男の子のかすかな答えが伝わってきた。


 ──星空の青。


「じゃあ翼の色は?」

 ──浄化の雪の白。


「わたしの瞳は?」

 ──大地の茶色。


「そんなにたくさんの色を知っているのに……ずっとここにいるつもり? たったひとつの色しか見えない、こんな場所に」


 にわかに汚泥が波立ち、わたしを押し包むようにして膨れ上がってきた。

 天井が落ちるように頭上の空間が押し狭まり、左右から濁った闇が迫ってくる。

 急激に腰まで沈んだ。さらに沈み続けた。

 男の子はこちらに向き直っていたが、たたずんだまま動かない。


「取り込めば、ずっといっしょにいられるかもしれない。でも、わたし自身はいなくなる。あなたのことが大好きな、エセルシータはいなくなる」


 持ち上げていた両手が沈み、髪が沈み、ひじが沈んだ。波立つ汚泥が胸にかかった。

 でも、まだ声が出せる。伝えられる。


「わたしはエセルのままでいたい。エセルのままでいっしょにいたい。あなたといっしょに生きていきたい」


 男の子は両手のこぶしを握りしめ、食い入るように汚泥の波をみつめていた。

 わたしは叫んだ。


「あなたが来てよ。あなたがわたしのところに来て。お願い、ラキス!」


 わたしが叫ぶのと、汚泥の大波がわたしを呑み込むのが同時だった。

 大波が呑み込むのと、若者の手がわたしの腕を強くつかむのが同時だった。

 そしてそれらとほとんど同時に、わたしの胸の前で、圧倒的にまばゆい光が満ちあふれた。


 胸元にあった首飾りが、衿を破って浮かびあがり、わたしとラキスの間で輝いている。

 次の瞬間、その刀身が粉々にはじけ散り、封じられていた魔法炎が光の奔流となって、爆発するようにあたり一面を染めあげた。

  


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クリックで前日譚に飛びます。ラキスの幼年時代のお話です。星の下の晩餐会
― 新着の感想 ―
[良い点] 姫のラキスへの説得が格好良いなと思いました。 私もエセルはエセルのまま、2人で仲良くいて欲しいですね。
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