竜の牙6
濃厚な血の匂いが漂っている。
泥の中を泳いでいるように体が重く感じた。斬られたあちこちが今しがたまで熱かったが、今は寒さで手先が震えている。
足は既に地面から上げる気力もなく、フィカルは引き摺るように動いていた。
生まれてこのかた身内を苛んできた痛みが一際激しく体を蝕んでいる。それでも何かから逃れるように足を動かしていた。
辺りを見回すと黒い液体が胸まで迫っている。ひどく動き辛いそれに抵抗しながら、フィカルは動くことをやめなかった。
「どこへゆく……災厄よ、なぜ死なぬ……」
既に首から下のない老人が黒い液体に浮いて、赤黒い眼でフィカルに呼びかけている。
「教えられてきたはずだ、お前の運命を……成すべきことを成せ……」
「災いを振り撒くな……」
辺りには幾つもの首が浮かんでいた。知っている顔もあるが、フィカルはそれに応えようとはしなかった。感覚も覚束ない足をひたすらに動かす。痛みに耐えて、ただこの場から去るために。
「役目を果たせ……自らの命を捨てよ……」
「お前がいる限り、災厄からは逃れられることはない……」
「どこへ行っても変わらぬ……お前の名は……」
軽い足音がする。
ただ前へという意志のみで動くフィカル。
それを追い掛ける骸の声。
その更に後ろから、小さな生き物が近付いてきている。
「お前の名は……」
フィカルが目を開けると、家の中はしんと静まり返っていた。手は無意識に剣を握っている。空いた手で自分の体を触っても、痛みも汚れもない。
息を吐いて軽く頭を振り、物音を立てずに寝台から降りる。部屋を出てすぐの扉を開けると、夜目には眩しい光が部屋に満ちていた。窓際に置かれた寝台には白くて丸いものが積み上がり、その間からだらりと腕が飛び出ている。
そっと近付いて白い手を握ると、傍で魔草が花を揺らした。
剣を鳴らさないように床に置いて、手首から肘まで、少し冷えた皮膚を辿る。首元の丸い寝具を取ると、上半分を布で隠したスミレの顔が見えた。
一度大きく息を吸ったスミレは、ゆっくりと体をこちらに向けてそのまま再び寝入ってしまう。その動きで背中に出来ている隙間を丸いものでそっと埋めて、フィカルは屈み込んだ。
スミレの寝息は暖かく、柔らかく、夜風のように細かった。間近で覗き込むと僅かにフィカルの頬へと当たるそれを何度も感じていると、ようやくフィカルは深く息を吸う事を思い出す。
ここには何もない。何もフィカルに強いるものはおらず、逃れるべき事柄もなく、のしかかる苦痛もない。
しかし過去はいつでもしっかりとフィカルを見つめている。
己の名前となって纏わりついている。
スミレ、と吐息だけで呼んだ。
ゆっくりと眠るスミレを今すぐ起こしてしまいたい。そう思って、フィカルは溜息を吐いた。いつものように名前を呼んで、いまだに耳に残るあの声を引き剥がしてほしい。
背を撫でてくれた手を握ると、温かく、僅かにとくとくと脈が伝わってくる。焦ることはない。じきに夜は明けて、スミレはいつものように笑いかけてくれるはずだ。胸に湧き上がる淀みをもう一度吐き出して、フィカルはそのまま座り込む。
スミレがフィカルの名を呼んでくれるまで、フィカルは寝台に頭を預けしばし目を瞑った。




