竜の牙5
オオハタオリソウ摘みであれば、15メートルほど離れているけれど近くにいることは出来る。それすらも首を振ったフィカルは、最近過保護すぎるほど心配が絶えないようだった。
実際、フィカルと私がそれぞれ一人になる空間など、家の中くらいになっているのである。外、特に他に誰かがいるような状況では、フィカルは手を伸ばせば届く範囲で常に周囲に気を配っている。
宵祭で不審者にナイフを向けられて以降、何か怪しい気配などを感じたことはないし、トルテアの結界にもカルカチアの結界にも反応はないらしかった。手の甲へと付けられている守りの魔術は定期的に掛け直してもらっているし、収穫で忙しいこの時期には街の外から来る人間もひたすら荷運びをする商人だけで、森に近い場所にある私とフィカルの家周辺にはもちろん近付くことすらないのに。
「まあまあフィカル君、そんなに目くじら立てなくても」
「断る」
「こ、コントスさん、こんにちは」
「うん、こんにちはスミレちゃん」
断ると決めたら人の話を聞かずに断るフィカルの腕を叩いて窘めながら、私はいつの間にかやって来たコントスさんに挨拶をした。いつも元気なお弟子さんは2日前に守りの魔術を掛け直してもらった時にコンコンと風邪気味だったためか、今日は留守番をしているようだ。
「機織り小屋、男子禁制になっているだろう?」
「はい。あの守り神が怒るんですよね」
「そう。それだけじゃなくて、あの機織り小屋は強力な妖精の加護があるからね。魔術が入る隙がないんだよ」
魔術師である目に見えない妖精のこだわり抜いた加護によって、一見普通の建物に見える機織り小屋は非常に強力な守りを得ているらしかった。天災から守り、家屋を朽ちさせにくくしているそれは、他者の魔術を近寄らせない強い力が働いているのだという。
「正直、魔術師であれば女性でも入れないんじゃないかな? 大体の魔術師は自分に何かしらの魔術を掛けていることが多いから」
「そうなんですか?」
「そうそう、僕は今風呂に入らなくていい魔術を実験中で、背中が常にサラサラだし」
そんな魔術なのかと拍子抜けしてしまったけれどそれだけじゃなく、魔術師は基本的に自分にも守りの魔術を絶やさないらしかった。魔力が高い人間は色々と狙われやすいらしい。そのために、魔術師の素養がある魔力の高い子供を予め大人の魔術師が保護をして、師弟制度として身を守る術を教えているということだった。
「小屋には入れないけど、フィカル君は入り口で待っていればいいんじゃない? どうせ小屋の中で手伝いをしている間は一歩も外に出ることはないんだし」
機織り小屋には炊事場も水場も完備されている。大機織りのときに機織り娘達がいちいち食事に席を立っている暇がないのと、染色も小屋の中で行うものもあるからだ。だから小屋の手伝いをするときは、始める時に食材を持っていき、そこから掃除洗濯食事などをすべて中で行って、交代で眠るために家に帰る以外はずっと小屋の中にいるらしい。
「森でオオハタオリソウを摘むよりも、小屋で手伝いをした方が安全だと思うよ。もちろんその間は守りの魔術は使えないんだけど、僕が掛けるよりうんと強力な存在が守ってるしね」
なんなら仕事が終わったらすぐに守りの魔術を掛けて、また始まる前に解除してもいいよ。
そう言ってくれたコントスさんの言葉もあって、フィカルは渋々決断をしたようだった。話を聞いていたシシルさんもにっこり笑って頷いて、私を小屋の中での手伝い班にしてくれると約束した。
「じゃあ明日から、日が昇ったらスミレは小屋に来てね」
「はい、シシルさん。コントスさんもよろしくお願いします」
「今日はゆっくり寝るんだよ」
2人に対する別れの言葉もそこそこに、フィカルは私を抱き上げてそのまま家へと帰ってしまう。大人しく揺られていると、街中では狭い道を塞がないよう人家の屋根を道に使っているスーもひょいひょいと付いてきているのが見えた。
ようやく日が傾き始めた頃なので、まだヒカリホオズキの光はそれほど明るくは感じない。家に入ってドアを閉めるとフィカルはそのまま真っ直ぐ椅子に座ったので、私は必然的にフィカルの膝の上に落ち着いてしまう。腰に佩いたままの剣は邪魔ではないのだろうか。
何がそんなに心配なのかと思ってしまうほど、フィカルは気を緩めることが少なくなった。スーもいつも通りに過ごしていることからも、変な気配を感じている様子はない。フィカル本人に聞いてみても、不審人物などはいないと応える。なのに何がそんなに不安なのだろう。
ぎゅっとしがみつくようなフィカルをじーっと眺めてみる。しばらく私の首に顔を埋めていたフィカルは、そろそろと距離を取ってふうと息を吐いた。いつもの無表情だけれど、紺色の瞳が前よりも曇っていると感じるのは気のせいだろうか。
「フィカルは、何がそんなに心配なの?」
伸びてきた銀色の前髪をかき分けてじっと見ながら訊いてみると、フィカルは紺色の瞳を少し伏せて、何かを言いよどむように唇を動かした。フィカルは大体しゃべらない時はきっぱり喋らず、喋る時は少しだけでも戸惑うことなく喋るので、こうして躊躇っているのは珍しい。
割と長い間そのままの状態で待っていると、ようやくフィカルの喉が震えた。
「スミレ、……いなくならないでほしい」
「……えっと、いなくなる予定は特にないけど」
「良くない存在なのに、スミレは優しくする。他の良くない存在にも優しくしてほしくない。行ってほしくない」
迷い迷いといった感じで、フィカルはことさらゆっくり喋った。私は首を傾げる。
話が見えないのですが。
「私、良くない存在に対して優しくした? そんなことあったっけ?」
フィカルはこっくりと頷いて、長い指で自らを指している。
「……フィカルが良くない存在なの?」
こっくり。
フィカルはいつも通り無表情で、ガラスのような紺色の瞳は特に揺れることもなく私のことを見ている。フィカルが冗談を言ったことは一度もない。
「えーっと……私、別にフィカルのこと、良くない存在とか思ったことないけど。むしろいつも助けてもらってるし、どちらかというと良い人だと思うけど。もしかして何か悪いこととかしたの?」
フィカルは強いし、大体の能力において人よりも優れている。その力を悪用することは特に難しいことでもないと思うけれど、合理的かつ無駄のない行動しかしないフィカルが欲にまみれた犯行をすることを想像するのも難しい。
その考えを肯定するかのように、フィカルはフルフルと頭を振った。
「……別に悪いことをしていないのであれば、特に良くない存在とはいえないのでは」
「……良くない存在だから」
フィカルが喋る時、いつも喋ること自体を嫌そうにしている感じがする。喋ることそのものがフィカルの負担になっているのではないかな、と思ったことがあるけれど、今のフィカルの憂鬱さは、自分が言っていることに対してのものではないかと思った。
よくわからないけれど、フィカルはフィカル自身のことを良くない存在だと思っているらしい。
そして、その良くない存在であるフィカルに優しくした私が、今来ている他の悪いヤツに対しても、同じように親切にするのではないか、と心配しているのだろうか。
心外である。普通に心が狭いので、危害を加えようとした相手に対して優しい気持ちを抱いたりすることはない。そもそも不審者とか怖いから近付きたくないし。
そう説明してみたけれど、フィカルはあまり納得していないようだった。
そもそも自分のことを良くないと思っていて、それに優しくした事実があるということで、私はフィカルの懸念の種を消せないのかもしれない。根本的な誤解が私とフィカルのコミュニケーション上に立ちはだかっているようだ。
ムニ、とフィカルの白い頬を両側から挟んで、ゆっくりと説得をする。
「あのね、そもそもフィカルが親切だから、私もフィカルに優しくしたいなって思うんだよ。知らない人がいきなり攻撃とかしてきたら、普通に嫌だし逃げるし、多分フィカルに助けてって言うと思う。私がこの世界で1番信頼してるのはフィカルだから、フィカルがどういう存在なのかは置いておいて、とりあえず自分からフィカルのそばを離れることはないから」
伝わりますように、という思いでじっくり喋ると、フィカルの紺色の瞳は小刻みにあちこち揺れて、伏せて、背中に回った腕にまた引き寄せられる。
「……スミレに側にいてほしい」
「もちろんいるよ。今までもそうだったでしょ?」
ぎゅっと力を込める腕は大きく強く、体格も能力も私よりもうんと優れているのに、今のフィカルはなんだか小さい子供が見えないオバケを怖がっているような風に見えた。
フィカルは私が攻撃されることを怯えているというよりは、私が自分の意思でフィカルから離れていってしまうかもしれない、という不安と戦っていたのかもしれない。
確かによく考えてみれば、フィカルよりも強い人なんか今までに見たことがない。その辺の小悪党が束になったとしてもフィカル自身も苦戦するとは思っていなさそうだ。
何がどうなって私がフラフラ知らない人間について行きそうなイメージになったのか知れないけれど、全くの誤解なのでそんな見えない敵と戦わず安心してほしい。
それから私はアネモネちゃんがヒカリホオズキから離れて心配そうに肩に登ってくるまで、そして全く音がしない家の中を不審に思ったのかスーが鼻先で窓を塞ぐまで、しょんぼりとした大型犬のようなフィカルの背中をずっと撫でていた。
ご指摘頂いた間違いを修正しました。(2017/12/15)




