或る日のスー よだれ編1
フィカルが右へと移動する。それをスーの鼻先がグギュウウゥと追う。
フィカルが左へと移動する。それをスーの鼻先がゥググルゥッと追う。
「あはは、スー涙目になってる〜」
身を低く屈めているスーは目の前にあるジャマキノコに釘付けになり、すぐ近くにあるジャマキノコの匂いを嗅いでは短い手でガリガリと地面を掻いている。
「あのすいやせん、もうちっと大人しくさせて頂けると……はい」
「あ、ごめんなさい」
はーいよしよしと片腕を鼻の上に回して撫で回すと、大きくて黄色い目が瞬膜に何度か覆われる。普段は縦長で爬虫類っぽい瞳孔も今はほとんど真ん丸になってウルウルしている。
可愛い。でもあとちょっと我慢ね。
そう宥めるとスーはギューッと喉を鳴らした。
スーの苦行は、遠方から遥々やってきた商人の来訪から始まることになった。
「竜のヨダレ? 何に使うんですか?」
ギルドのソファで向かい合った商人は、小太りで緑の綿毛のような髪をした中年男性だった。いかにもな揉み手をしているその隣で静かに座っている男性は何も喋らないが、ローブに白い杖を持っているところから魔術師だろう。平和なところが多い東南地方ではほとんど見ないけれど、危険な旅路を行く商人は魔術師や腕の立つ傭兵を雇うことも多いらしい。
揉み手の商人は小さなハンカチで額の汗を拭い拭い、私達に低姿勢で説明した。
「はい、これが幾つかの薬剤の代わりに使えるんで。それも効果を上げるもんですから、我々としてもぜひ取扱いたいものなんです、はい」
「へぇー……この水甕5杯っていうのは、どれくらいの大きさで」
「はい、こちらのね、中型サイズで考えております。我々も悪徳ではございませんのでね、一度に大量に欲しいとは言いませんので、この程度、少しだけ頂けたらと、はい」
大体2リットル程度が入りそうな水甕をサッと取り出される。5杯だと10リットルか……。いくらスーが大きいとは言え、それだけヨダレが採れるのだろうか。商人のおじさんは少しだと言っているけれども。
商人のおじさんが提示した金額は銀貨3枚。依頼としては高額な部類に入るけれども、いかんせん物の相場がわからない。
私は隣に座るフィカルを見上げた。フィカルはきょとんと見返してくるだけで、特に何もないらしい。そもそもスーにあまり興味がないフィカルは、賛成も反対もないようだった。でもそんなフィカルが好きなスーはつくづく報われない竜である。
「スーに付ける轡が歪んだって言ってたし家の柵もちょっと壊されたし……スーが嫌がらないんだったら受けようか?」
こっくり。
自分の食い扶持は自分で稼ぐ、スーは立派な社会人である。
お預けを始めて30分。水甕はスーの空腹と引き換えにして順調に満ちていっていた。
食べちゃ駄目と言われていることはわかる。だけどそう言われる理由がわからない。そんなスーは物悲しげな声を出して抑える係の私とフィカルに訴えている。
ギルド事務所前の広場で繰り広げられている(スーにとっての)悲劇は中々終わらない。完全にビビりながらもヨダレが水甕から溢れないように入れている商人のおじさんは意外と肝が太そうだった。付き添いの魔術師の人はやや離れた場所に立っているけれど杖を構えているので、スーが暴れる素振りがあればいつでも魔術を使えるようにしているのだろう。
「あと一瓶で終わりですかね」
「はい、そのことなんですが、これほど沢山溢れさせているとは予想外でして、はい、もしよろしければ、あと2瓶ほど追加を頂けたらと思うのですが……、はい」
「えー……でもスーは割と頑張ったほうだと思うんですけど」
「そこをなんとか! ほら竜も嫌がったりはしていないようですし、どうです、あと2瓶で倍額!! お願いします!」
「倍か……」
壊れた柵だけではなく、割られた石畳を修理できるなぁ。
スーは本当に嫌であれば、私の拘束をするっと抜け出して飛んでいってしまうことが出来る。知らない人に触られるのが嫌いなので商人のおじさんが触れようとすると身を捩るけれど、威嚇をすることもない。目がウルウルしているもののまだ許容範囲といえるだろう。
商人のおじさんに「じゃああと2瓶だけ」というと、おじさんはヨダレが垂れている瓶を抱えたままペコペコと頭を下げた。
「それにしても立派な竜でございますねぇ。しかも2人に従うとは! どうやったかぜひ知りたいものです、はい」
「よく聞かれるんですけど私もフィカルもわからないんで、スーが変わってるんだと思います」
「ほぉーそうなんですか、しかしはい、噂で伺ってるんですが、どうもこの竜を持て余しているとか……?」
持て余す。
確かに、スーはテンションが上がると大きな声で鳴くので、ご近所さんへのお詫びを定期的にしている。竜は力が強いので、スーとしては普通の動作でも物が壊れることも少なくないのだ。最近は森へ行くと、これはスーの跡だなというのがわかるようになってきた。
「まあそうですかね」
「この大きさですからね、ええ、しかしもし宜しければなのですが、どうです、我々にこの竜を預けるということもできますよ、はい」
「え? でも懐いてない相手には結構怖いですよ?」
「それははい、複数に従う性質であれば我々もいくらか手段を講じますのでね、どうでしょう、金貨1枚ほど出すことも出来ますが……」
金貨1枚。意外と安いのね、スー。
フィカルが事あるごとにぽんと出してくる金貨1枚分とは……。いや、それでもすごく高価だ。勇者がいると金銭感覚が狂いそうになっていけない。
いつの間にか商人のおじさんはスーを買い取る気満々のようだった。ちらっとフィカルを見ても、無表情でスーの鼻先にジャマキノコを当てている。「断る」は出ないらしい。
しかたないので私がやんわり断ることにした。
「いや〜でもスーは結構気難しいですしね。あとこう見えて色々役立ってますし」
「ええそうでしょうね、しかし街で飼うというのは難しいところがあるのでは? 我々が管理して、必要なときにお戻しする、ということもできますよ」
「うちのスーは自由なんで、そういうことは出来ないんじゃないかと思いますねー」
商人のおじさんは商人らしく、なかなかに押しが強い。
交渉云々ではなく、そもそも竜は上下関係を力で推し量るのが基本なのである。アグレッシブなスーを力で抑え付けないで言うことを聞かせることが出来るのか疑問だったけれど、商人のおじさんはそこはあまり重要視していないらしい。この人も一応冒険者ギルドに入っているはずなんだけど、知らないのかな。
「ではどうですか、我々に懐くかどうか試してみては」
「スーを試すんですか?」
「そうです。離れた位置で一斉に呼んで、こちらへ来るようでしたら値段交渉に入っていただきたいです、はい」
スーはフィカル大好き竜だし、私もなかなか懐かれているんだけど。
どうする? と訊くとフィカルも頷いたので、商人はまたペコペコと頭を下げた。
「スー、まだ動いちゃ駄目だよ。じっとしててー。いい子だねー」
念願のジャマキノコを食べたと思ったら、また我慢。
理不尽だ! とでも言うようにスーは尻尾を地面につけて振り回している。
ギルドの建物近く、乗ってきた荷馬車の近くに立った商人・魔術師チームと、私とフィカルチームの間には大体5メートルほどの距離がある。スーを入れると正三角形になるような位置だ。
「じゃあ始めましょうか。スー! おいで!」
私が呼びかけると、スーはキュッと一度背を伸ばすように高くなって、それから足を踏み出した。
ご指摘頂いた間違いを修正しました。(2017/09/19)




