黒い記憶
「あの穴は行き止まりだったニャ……いや、違ったニャ! 狼のいる森に出るニャ!」
「狼?!」
勇次は思わず聞き返す。狼森の事だというのはわかるが、まさかあんな所に通じているとは……自分は、この村の事を何もわかっていなかった。だが、この状況ではありがたい話だ。まず、明日の正午に子供たちを学校に連れて行く。そして自分たちが戦っている間に、子供たちを防空壕のトンネルから逃がす。後は……あの志賀とかいう奴だけは、刺し違えてでも殺す。今、自分にできることはそれくらいしかない。
「そうか……ミーコ、ありがとな」
そう言うと、勇次は立ち上がった。まず、店に隠しておいたハンドバッグを取り出す。昔、カラタロウが山で拾ってきた物だ。中には数百万円の札束が入っている。当時、駐在所の三島は勇次を嫌っていた。そのため下手に届け出るとあらぬ疑いをかけられるかもしれず、さりとて三日月村では使う場所もないので、いざという時のために使わずに保管しておいたのだ。だが、今がその時だろう。そう、こうなった以上……せめて金くらいは渡してやりたい。ソーニャと春樹は……普通に生きる上では、知る必要のないことを知りすぎた。もう、普通の人生は歩めないだろう。本人の意思とは無関係のところで始まってしまった悪夢……その影響は覚めた後も一生残るのだ。
そう、一般人の心の傷は時と共に癒えるものが大半だ。しかし、彼ら二人の傷は……恐らく生涯消えることがないだろう。あの若さで、生涯消えることのない傷を背負い生きていかねばならない人生とは一体どんなものなのか……小さな頃から妖怪におどかされ続けてきた勇次には、何となく理解できる。理解したくもない話だったが。だからこそ、せめて少しでも手助けをしてやりたい。自分には、金を渡すことくらしかできない。
勇次はふと、落ちているレジに目を向けた。この中には何が入っているのだろう。古い紙幣などが入っているのかもしれない。世の中には、古銭を高く買ってくれる人がいるという話を聞いたことがある。ならば……ぶっ壊して確認してみよう。金目の物は少しでも持たせてあげたい。
彼は手を伸ばし、レジに触れようとした。だが、ふと異変に気づく。さっき、このレジを思い切り殴った。その時に、拳に凄まじい痛みを感じたのだ。そして腹を立て、レジを床に叩きつけた……しかし、その拳の痛みがすでに消えているのだ。こんなに早く消えるはずがないのに。
勇次は自分の拳を見つめる。痛みはない。しかも……傷らしきものも付いていない。
そういえば、トカゲ人間との戦いも……あの時、自分は尻尾の強烈な一撃を喰らっている。しかも二度。確かに背骨が折れたような……いや、それどころではなかった。体内で何かが爆発したような、そんな感覚があったのだ。あれは内臓が破裂したのではないのか。にも関わらず、自分は……。
(お前、大丈夫かよ……)
あの時、カンタも心配そうに言っていた。あれは間違いなく重傷だったはず。しかしその後……自分は普通に動いていた。いや動いていたどころではない。奴らと殴り合い、取っ組み合い……。
待てよ……。
俺は何で今まで気づかなかったんだ……。
これは……どう考えても普通じゃないぞ……。
俺は普通じゃない……。
今まで考えたこともなかった。自分が異常な腕力の持ち主であること。ケガの治りが異常に早いこと。病気らしきものにかかった記憶がないこと。
しかも……それらの事実について、今まで深く考えたことがなかった。しかし今さっき、レジを床に叩きつけた瞬間……何かが頭を通り抜けるような感覚に襲われ……だが同時に、頭の中にかかっていたモヤモヤがわずかに晴れたような感覚もあったのだ。
そして……浮かんできた疑問。思い至った一つの仮説。
あまりにも荒唐無稽な考えである。しかし試さずにはいられなかった。勇次はレジを持ち上げ、もう一度床に叩きつける。凄まじい音。同時に、頭の中を駆け抜ける不快感。そして……破壊され、飛び散るレジだった物。散乱する部品の中から、奇妙な象形文字の書かれた札のような紙切れが一枚、ヒラヒラと飛び出した。
「勇次! 何だ今のは!」
「何だニャ!」
「どうしたのだ!」
破壊音を聞きつけ、妖怪トリオがこちらに来た。だが勇次は構わずに、その札を拾い上げる。すると次の瞬間、札から伝わる衝撃……電気ショックにも似た衝撃を受け、勇次は札を落としてしまった。だが勇次は再度、札を拾う。電気ショックのような痺れと痛みを無視し――
札を破り捨てた。
その瞬間、頭に流れ込む記憶。失われていた時間……忘れていた経験……そして真実。勇次はその場で両手を着いた。尖った破片が両手を傷つける。だが、そんな痛みすら気にならなかった。復活してしまった記憶……その重さの前に打ちのめされていたのだ。
勇次は呆然とした顔で立ち上がる。
そのまま妖怪トリオの前を通り、扉に向かった。
「勇次……お前、大丈夫かよ……」
カンタの声。勇次はふと、この三人は初めから何もかも知っていたのではないかという疑念を抱き、彼ら一人一人の目を見つめる。だが、彼らからは押し隠した悪意は感じられない。自分に対する暖かい感情、そして気遣い……その二つだけが感じられる。この三人の目は純粋なものに溢れていた。自分に対する好意……そのためだけに、ここにいてくれる。それで充分だった。
「すまないが、子供たちを頼む。狼に会ってくる」
そう言うと、勇次は扉を開けた。
「おい勇次! 一人じゃ危険だ! 俺も――」
「一人で大丈夫だよ。明日までには帰る。絶対に付いて来るなよ……子供たちを頼んだぜ、カンタ」
カンタにそう言い残し、勇次は一人で夜の闇の中を歩き始めた。
三日月村の夜は暗い。紛れもない本物の闇が覆っている。明かりと呼べるようなものはほとんどない。人家からわずかに洩れる光……あとは月明かりだけが頼りである。勇次も、今までは夜に出歩いたことなどなかった。
しかし今、勇次は迷うことなく歩いていた。夜の闇が障害たりえていない。同時に、闇の中に見え隠れする何者かの存在。さらに、こちらに向けられた視線……だが、攻撃してくる気配はない。どうやら志賀の言ったことは本当だったらしい。明日までは安全なようである。
勇次は闇の中を迷うことなく進んで行き、そして狼森にたどり着いた。夜の狼森は何が起きてもおかしくはない雰囲気だ。入り込んだら最後、森そのものに呑み込まれてしまいそうである。
だが、勇次には何のためらいもなかった。森にずかずか入り込んで行く。目当ての狼はここにいるのだ。前のように、放っておけば現れるだろう。
そして彼の予想通り、狼は現れた。夜の暗闇の中でも神々しく輝く白く大きな体。身にまとっている、手で触れることができそうな妖気も相変わらずだった。だが、明らかに違う部分もある。前に会った時には、土着の神なのかもしれないと思わせるほどの威圧感があった。しかし今、勇次の目の前にいる者はお世辞にも神とは呼べない。打ちのめされ、疲れ果てた哀れな妖怪にしか見えなかった。その瞳には絶望の色が見える。恐れも見える。悔恨の念も見える。
狼は黙ったまま、勇次の顔を見つめた。
ややあって、口を開く。
「全て知ってしまったのだな、お前は……」
「ああ、全て知ってしまったよ。今まで、会うたびに偉そうなこと言いやがって……あんたは本当にクズ妖怪だ。できることなら今すぐ殺してやりたいが……子供たちを魔歩呂町まで送り届けろ。そうしたら許してやる」
「それは……無理だ」
「……あんたは、俺に借りがある。そのくらいのことはやってくれてもいいんじゃないのか?」
勇次の口調は静かなものだった。しかし、言葉の奥には凄まじい怒りが秘められている。狼は目を逸らした。
「無理だ。私は今、森を離れるわけにはいかない。ここに連れてくれば、匿ってやってもいいが……」
「仕方ねえ。それで我慢してやる。あとは……奴らの情報だ。あんたの知る限りのことを、洗いざらい吐いてもらおうか」
「……どうしても、奴らと戦うつもりなのか?」
狼の悲しげな問い。勇次を見つめるその瞳は潤んでいる。しかし、勇次はその瞳を正面から見返す。勇次の瞳には決意と虚無感というかけ離れた二つのものがある。さらに、ある種の清々しさ……そう、己の存在理由を失った者に特有の、諦めから来る清々しさがあった。
「あんたは黙って、俺の言う通りにすればいいんだ」
「……」
狼はうなだれた。顔と尻尾がだらんと下がっている……狼の体が一回り小さくなったようにすら見えた。ややあって、狼の絞り出すような声。
「教えてくれ……なぜだ……お前にかけられた呪いは強力なものだったはず……自力で解くことはできなかったはず……なのに……なぜ……」
「ああ、確かに強力だったな。俺の記憶を封じ、さらに俺の思考にまで影響を及ぼしているとは……恐れ入ったぜ」
そう、勇次は今の今まで、自分の体が異常であるという自覚が全くないまま生活していた。普通の人間なら感じるはずの疑問を感じなかったのだ。
それら全ては呪いのせいであった。本人も意識せぬまま、呪いによって洗脳されたような状態で勇次は生活していた。
しかし――
レジを最初に床に叩き付けた瞬間、彼を支配していた呪縛にほころびが生じ――
そして今では、完全に解放されている。
「あんたが札を預けた奴はな、よりによってレジの中に入れてやがったのさ。だから……むしゃくしゃしてレジをぶっ壊した瞬間、札が出てきて……呪いが解けちまったってわけさ」
「なんだと……」
狼の呆然とした声。
「いい加減な奴に預けるから、こうなるんだ。それよりも……さっさと話してくれよ」
翌日。
勇次はソーニャと春樹を連れて、のんびりと歩いていた。周囲には人の姿は見当たらない。勇次はどこか虚ろな目をしてはいるが、それでも怯えた様子は見受けられなかった。一方、ソーニャと春樹は緊張しきった面持ちだ。さらにその後ろから、妖怪トリオが付いて来る。妖怪トリオも無言のままだ。
やがて、彼ら六人は新田小学校にたどり着く。だが広い校庭に蠢く者たちを見た瞬間、ソーニャと春樹は凍りつき……そして震え出した。
それはまさしく、悪夢の中でもお目にかかれない光景である。充満する吐き気のしそうな悪臭、ギャアギャアという奇怪な鳴き声、その源となっているのは……人と動植物を力ずくで掛け合わせたような不気味な生き物たちである。それも一匹や二匹ではない。校庭を埋め尽くさんばかりの数なのだ。ある者は胸が悪くなるような奇妙な動きをしながら……またある者は口から腐食性の体液を垂れ流しながら、ある一点を見つめている。
その一点とは、ソーニャと春樹であった。怪物たちは二人の存在を感知したとたん、一斉にその方向に首を動かし、二人を見つめている。その視線は餌を見つめるものではない。不気味ではあるが、同時に優しさのようなものを感じさせる目で二人を見ている。
だが恐怖に震えるソーニャと春樹には、そんなものは分かるはずがない。二人はその場に立ちつくしたまま、前に進むことも後退りすることもできない。蛇に睨まれた蛙のような状態だった。二人の生物としての本能が告げている。この状況では何をしても無駄なのだ。自分たちは成り行きを見守るしかないのだ、と……。
その時、怪物たちの群れが一斉に動いた。彼らは二つに分かれ、道を開ける。その怪物たちの作った道を通り、こちらに向かって来るのは志賀だった。志賀はにこやかな笑みを浮かべている。自分が圧倒的に有利であることを知っている者の目をしていた。
志賀はそのまま歩き続けたが――
「そこで止まれ」
言ったのは勇次だ。彼の声はひどく虚ろだった。目の前の男によって生み出された、得体の知れない怪物たちが校庭の約半分を埋め尽くしているというのに、全く動じていない。だが、どこか悲しそうな表情をしている。
「……あー、勇次くん、君は状況がわかっているのかな――」
「ソーニャ、春樹……目を開けて、よく見るんだ。お前たちの家族は、ああなっちまったんだ」
志賀の言葉を無視し、勇次は二人に言った。その言葉には、優しい感情が一切こもっていない。厳しさと悲しさに満ちていた。
だが、志賀も口を開く。
「春樹くん、ソーニャちゃん……君たち二人は怪物にはならない。人間のまま……いや、君たちは神のような存在になれる――」
「いい加減にしろ。てめえらは異世界で神様扱いされて喜んでるクズ野郎だ……自分たちの勝てる相手しかいない世界でな」
勇次は初めて感情を露にする。だが、勇次の言葉を聞いた志賀の表情も変わった。余裕たっぷりの雰囲気が消える。その顔には、怒りの感情が浮かんでいた。
「なんだと……」
「カラタロウがな、お前らは空から来たって言ってたんだよ。だから、てっきり宇宙からのエイリアンかと思ったんだが、違ってたんだな」




