まどろみが連れてくる日々
お題で過去編です。
番外の中の別枠で投稿させていただきます。
うだるような暑さの中、畳の上で一人大の字に寝転ぶ。
家中の網戸を締めて窓を全開にし扇風機を回しているものの、中々思うように温度は下がらない。
二階にある自分の部屋より、一階の和室の方が涼しげだと思ったのだが、単純に隣の芝が青いだけだったらしい。
気まぐれに吹く風で鉄でできた風鈴が、りりーんと心地よい音を立てる。
ガラスでできた風鈴よりも、重たくても見た目よりずっと優しい音が鳴る鉄の風鈴を好んで購入したのだが、風が吹かないなら結局どちらを買っても同じだったかもしれないと、汗のにじんだ額を手で拭い胸にたまった息を吐き出した。
「あつい・・・」
あつい、と思うのに冷房を入れようとは思わない。
何故だろう、と天井を見つめる。
見慣れた天井だ。だが、ここは決して凪の家ではない。
我が家と呼びたいくらいに親しんだ家なのに、ここは凪の家ではなかった。
「あつい」
あつい、あつくてたまらない。
それなのに、どうして自分はこの長袖の黒い服を脱ごうと思わないのだろう。
毎日毎日、黒いワンピースを着ているのだろう。
瞼を閉じて、息を吸い、吐き出す。
ただひたすらに呼吸をつづける。あついと思うのは、生きているから。
額からだけではなく、体のいたるところから汗がにじみ出る。
それもまた、生きているから。
みんみんと、あけ放たれた窓から蝉が唸り声を上げる。
他の音は聞こえないくらいうるさく思うのに、それでも瞼を閉じて意識を研ぎ澄ませば、音は聞こえてくる。
鳥の鳴き声、風で庭の木の葉がこすれる音、通りを歩いてるらしい誰かの話し声、そして───車の、排気音。
閉ざそうとしても聞こえてくる音は、やむことなく凪の頭を蹂躙する。
情報は世界中に錯綜し、欲しってなくても生きている限りは体のどこかから入ってくるものだ。
五感は澄まされ、普段は鈍いと言われることもある凪の中でもあふれかえる。
「凪は自分で思うよりずっと感覚が鋭いんだよ」
柔らかく響く声に、そっと眉根を寄せて唇を尖らす。
凪と似ていない髪色をしながらもそっくりなくせ毛の父は、眼鏡の奥で優しく瞳を細めた。
父はとりたてて秀でた容姿をしているわけじゃないが、傍にいると思わず気持ちがほころぶ、そんな人。
だから凪も普段より表情が豊かになり、ついふて腐れた顔もしてしまう。
「私は鈍いってよく言われるよ」
「あら、それは運動神経についてでしょ?大地が言ってるのは感受性よ。そもそも運動神経については凪は大地に似たんだから諦めるしかないわね」
「・・・・・・そりゃないよ、クリスさん。僕だって頑張れば」
「頑張ってどうにかなるくらいなら、もうどうにかなってるでしょう?ねぇ、凪」
ふわりと大輪の花のように微笑んだ麗人は、限りなく金色に近い腰まで伸ばしたストレートの髪をかき上げて、コケティッシュな笑顔を浮かべた。
凪の持つ瞳の色によく似ているようで、まったく似ていない空の青。印象的な色を持つ瞳でウィンクをした彼女は、身内のひいき目を抜きにしても美しい人だ。
凪が生きてきた人生はまだ長いものではないけれど、母以上に美しい人はテレビの画面の向こうでも見たことはない。
特に父相手に見せる笑顔は特別なもので、凪は何よりも母のその笑顔を好んでいた。
優しい雰囲気の翻訳家の父と比べ、母は闊達とした空気を持つ女性だ。
その気になればお淑やかな振る舞いもできる癖に、普段の母はとにかく底抜けに明るくて行動的で、どちらかと言えば大人しい父を振り回している。
凪は見た目としては小柄で華奢な母親に似ていると言われるけれど、母曰く中身は父親に似ているらしい。
運動神経抜群な母は幼馴染の道場にも通っていつの間にか有段者になっていたけれど、同じころに通い始めた凪と父はさりげなく一週間でやめるように促された。
今では毎週母の鍛錬の日には二人そろって晩御飯を作り、迎えに行くのが日常になっている。
この細い腕のどこにそんな力があるのだろうと思えるくらいに軽々と凪を抱き上げた母は、ふて腐れを通り過ぎて軽く落ち込んだ凪の頬に唇を寄せた。
「ふふ、気にすることないわよ。運動神経が悪くて、どうしようもないくらいどんくさい大地に似てるとしても」
「ちょっ、クリスさん、さすがにそれは酷い気がする」
「あら、文句は最後まで聞いてからになさいな」
あまりな言いように話の腰を折った旦那に向かってくすりと口角を持ち上げた母は、そのまま父の頬にもキスを送った。
「感受性が強くて臆病で優しいところも、大地にそっくりよ。それに頭がいいところも、ね。運動神経は鈍いかもしれないけれど、そういう意味ではあなたはきっと私よりずっと鋭いわよ」
テレビで感動もののアニメを見るたびに大号泣する父は、確かに感受性が強いのだろう。
でも凪はうるっときても父みたいに涙を流したりしないし、むしろどうして彼らがそういう行動をしたかにばかり目が行ってしまう。
父とは見ているものも感じているものも違うのに、どこが似ているのだろう。
類似点を見いだせないので感受性が鋭いの意味が分からず、むむっと眉間のしわが深くなる。
難しい顔をしている凪の頭を、ほんの少しだけ眉尻を下げて困ったように笑った父がそっと撫でた。
「そんなに難しく感じる必要なんてないんだよ。いつか、僕の言葉の意味が、凪にもきっとわかるから」
柔らかい掌が頬まで下がり、くすぐったさに身を竦めて瞼を閉じた。
「凪、───な、ぎ!!」
「起きろ、凪!」
「・・・ん」
がくがくと体が揺さぶられる感覚に、意識が強制的に浮上する。
暗い世界に光が入り、ぼんやりとした景色がピントを合わせる頃に、いつの間にか自分が眠っていたのだと気が付いた。
「大丈夫か、生きてるか!?」
「バカ、生きているのは見ればわかるだろうが!───凪、体調が悪いのか?水を持ってきた、飲め」
隣でがくがくとさらに凪を揺さぶろうとした秀介の頭を拳で殴りつけた桜子が、床の上に置いてあったグラスを持って差し出してくる。
上半身を支えられながら起こし、促されるまでに水を口に含んで、初めて喉が渇いていたのだと知った。
一口だけのつもりが気が付けば最後の一口まで一気に飲み干し、ほうっと一息つく。
「凪・・・」
「ん、大丈夫。寝てただけだよ」
「───びっくりさせるなよ、俺らが二階に本を取りに行ってる短い間に寝るとか、どんだけだ」
「最近は暑かったからな、ゆっくり眠れなかったんだろう。冷房をつければいいのに」
「なんとなく・・・うちでは、あまりクーラーを付けないから」
ぽろりと零れた言葉に、秀介と桜子が息をのんで視線を交わらせる。
一瞬でこわばった彼らの表情を見て、しまったと奥歯をかみしめた。
「そう、だったな。なら、宿題をしに図書館に行かないか?私はほとんど終わったいるが、いつも通りだとこいつの宿題を最終日に手伝う羽目になるしな」
「あー、そうだな。たまには夏休みの間に余裕持って俺も宿題を終わらせときたいし。凪、いいか?」
「・・・うん、もちろん。私はもう絵日記以外終わってるし、図書館にある本で勉強でもしようかな」
慌てて話題を変えた二人に微笑み、凪はたまっていた息を、気づかれないようにゆっくりと全て吐き出した。
───両親を亡くしてなお、一度も涙すら流すことができない。
そんな自分のどこが感受性豊かなのだと、今は声すら聴くことができない彼らに、聞いてみたかった。




