63.聖女の役割
リリアナを見上げる顔には見覚えがある。――以前、リリアナに救いを求めてきた女だ。
「お嬢様、追い出しましょうか?」
「ううん、まだ大丈夫。おばさん、なんの用?」
二度もリリアナの元に足を運ぶということは、それなりの理由があるのだろう。聞いたところで救えるとは思えないが、もしかしたら本物の『聖女の雫』について何か知っているのかもしれない。
「幼いころから病を抱えていた娘が、『聖女の雫』を飲んで以来、目を覚まさないのです……」
女は大きな声で泣くと、廊下の絨毯を濡らした。『聖女の雫』を万病に効くなどと触れ回った覚えはない。あれは、『穢れ』を取り除くために作った物だ。
どうして人は聖女の力を万能だと勘違いしたのだろうか。
「誰かから『聖女の雫』の買ったらなら、残念だけど全部偽物だよ」
「買ったのではありません……! あれは絶対本物です。私の夫の物でした……」
「どういうこと?」
「十年ほど前……夫は『穢れ』に蝕まれておりました」
女はぽつり、ぽつりと言葉を続けた。
「何日も待って、どうにかいただいた『聖女の雫』を持って帰ったときには、夫は帰らぬ人となっていたのです。そのころ、私のお腹には夫との子がおりました。私は、『聖女の雫』を形見のように取っておいたのです」
「それを娘に飲ませたってこと?」
「はい。娘は病を患い、医者にも匙を投げられました。もう、『聖女の雫』に頼るしかなかったのです。それなのに……」
女は感極まって再び涙した。
リリアナはその姿を静かに見下ろす。穢れによって家族を失ったことも、病気で家族を失いそうになっていることも不幸なことだ。
一緒に涙を流すのが正解だろう。
しかし、リリアナの胸には靄ものようなものが渦巻いていた。
「いつ、聖女は『聖女の雫』は万病に効くと言ったの?」
リリアナの口からは五歳とは思えないほど低い声が出た。
(私はそんなこと一度だって言ってない! 『聖女の雫』は穢れに苦しむ人のために作ったものだもん!)
あのころ、『聖女の雫』は常に足りていなかった。
その一個で救える命があったはずだ。
「ロフ」
リリアナが名を呼ぶと、ロフは恭しく頭を下げ「承知しました」と答えた。
ロフはひょいと女を持ち上げる。
女がどんなに暴れようとも、ロフはびくともしなかった。
「ロフ、ついでにお父様に『聖女の雫』が危険なことを教えてあげて」
「かしこまりました。お嬢様はお部屋でごゆっくりお過ごしください」
今は少しでも長く一人になりたかった。きっと、ロフはそんなリリアナの感情を理解したのだろう。
彼は軽々と女を担ぎ、リリアナに背を向けた。
「聖女様っ! どうか娘をっ! どうして助けてくださらないのです」
女の声を背に受けながら、リリアナは自室の扉を開く。
もう女の声はしない。けれど、彼女の声が耳の奥から離れないのだ。
まるで責められているようだった。
(みんな、自分勝手だ……)
リリアナはくまのぬいぐるみを抱きしめると、顔を埋めた。
聖女の役目は終わったはずだ。今や世界を脅かす『穢れ』はもうない。
なのに、なぜいまだに聖女の役割を押しつけられるのだろうか。
ただ、聖女の力があるというだけだというのに。
聖女の両親――リリアナにとっての祖父母はよく「領民は弱い存在だから、貴族である私たちが守らなければならない」と言っていた。
前世は貴族として、聖女としてその教えをしっかりと守ってきたのだ。
自分自身を犠牲にして苦しむ領民のため、国民のために走り回った。
それを後悔したことがないかと言うと嘘になる。
聖女が人のために駆けずり回っているあいだに、両親は『穢れ』によって命を落とした。側にいれば防げた犠牲だ。
リリアナはぬいぐるみを抱きしめながら、ベッドに倒れこんだ。
平和になった今も、なぜ人はリリアナに犠牲を求めるのだろうか。
(私はもう間違えたりしないわ)
家族を失うくらいなら、悪女と罵られたほうがいい。
皆が願う平穏を求めることは悪なのか?
リリアナにはわからなかった。
◇
ロフは騒ぐ女を屋敷の外に追い出すと、ゆっくりと地下に向かった。
人間はか弱く愚かな生き物だ。
そんなちっぽけな生物が光りたるリリアナの心を揺るがすのは、許せなかった。
感情のままに処分することも考えたが、彼女はおそらくそれを望まない。
ロフにとってリリアナは絶対だった。
たった一筋の、光なのだ。
グランツ家の地下の一部は罪人を収容する牢がある。
貴族のどの屋敷にも大なり小なりあるような一般的なものだ。
古くから貴族に仕える使用人は、貴族の所有物であるという認識だった。
そのため、使用人の処罰は主人たる貴族に一任されているのだ。
グランツ家は使用人に寛大で、この地下牢を使うことはごく稀だったようだ。
ロフは大した手入れのされていない地下の廊下を歩く。
湿った空気が肌にまとわりつく感覚は、昔を思い出す。聖女と出会う前の忌まわしい記憶だ。
地下牢にロフの靴音が響いた。
奥から野太い男の叫び声が聞こえる。




