８３回：甲子園にワカメはない
「成田、追いついてくれぇー！」
「く、くそぉッ」
球足の速いライナーが、またも右中間を割った。四連打で二点を献上し、なおも二、三塁。しかもまだノーアウトである。
里見は気づいた当初、全員左打者打線を侮っていた。だがこの破壊力はどうだ。
普通はプロ程には人材を揃えられないから、全員を左で揃えれば当然、ベストメンバーからは遠ざかる。左投手に対して右打者を使うのは有効だが、右投手に対して左打者を使うのはさほど意味がない。つまり、全員左にしていい事はほとんどない。
普通はそうだ。だが、対智仁高校となると全く別の意味を持ってくる。右打者の引っ張った打球は、ゴロかスタンドに届く打球でない限り左中間の悪魔に吸い込まれる。そうやって今までの高校は智仁に敗れてきた。
ならば流し打ちに徹すればいいじゃないか、と考えるがインコースに球を集められると、流し打ってもセカンドフライが関の山。ならば全員が引っ張って、強い打球を打つにはどうしたらいいか。
「その答えが左ってわけさ」
８番打者・相手捕手の丹羽が里見に語る。先程から里見は、アウトコース一杯に構えて動かない。
「無駄なんだよなぁ、それも」
そう、外ギリギリは狙おうとしても狙えるものではない。そして残念な事に、今日の審判は竹中の外角にやたら辛い。コントロールが定まらない竹中は、もう内寄りに投げるしかなかった。
――せめて、スライダーで詰まらせてやる！
だが、真柄と違い竹中の変化球は二級品であった。待ってました、とばかりに振り抜いた打球は一塁線に鋭く飛んだ。
「抜かせるかぁ！」
伊集院のガッツが、何とか打球を手前に弾く。すぐさま起き上がって自分で一塁を踏むと、応援団に向かって派手にガッツポーズを決めて何とか雰囲気を作ろうとする。
だが弾いた感に三塁ランナーも還り、はや０対３。なおも１アウト三塁。竹中はマウンドでグッタリとしている。緊張とこの先の不安から来るダメージが、彼の精神を蝕んでいく。すかさず里見がマウンドへ向かう。
「竹中、俺達なら３点差は射程圏内だ。前を向いて投げろ」
「無理ですよ……あの大麻から、いくら先輩達でも３点はもう、無理ですよ！」
「馬鹿！ 試合を投げなきゃ、しん……」
芯太郎がなんとかしてくれる。そう言いかけた自分をぶん殴りたくなった。里見の心も、どこかこの点差に弱って来てしまっているのか。
と、その時。唐突なアナウンスが告げられる。
「智仁高校、守備の交替をお知らせいたします。レフトの斎村君がセンター、センターの高坂君がライト、ライトの成田君がレフト。以上に代わります」
球場から失笑が漏れた。苦し紛れに空気を変えに来たとしても、外野をローテーションするだけだったのだから当然である。
「ぶはは、何やってんだ智仁！ バレーボールじゃねーんだぞ」
「あのバンダナ、今度はセンターかよ。カリーが見てんぞ、せいぜい頑張れよー」
そのドサクサに紛れて、何と休養中の真柄がベンチから伝令に出てきた。
「ちょっと待ちなさい！ 勝手にマウンドに行くな！」
「あー、見つかっちゃった」
「※守備のタイムとしてカウントする。いいね？」
「はーい。内野、ちょっと集まって」
そのふにゃふにゃな声に救われた気がした。里見にしろ竹中にしろ、一息入れたいところだったので尚更丁度良かった。壇ノ浦の好判断である。
だが真柄が話す内容は実にくだらなかった。
「球場ってさ、たまにワカメ生えてるじゃん」
「はぁ？ ワカメですか？」
「そうそうワカメ。あれ、分かんないかな」
「イシクラゲの事か？」
生物を専攻している里見は知っていた。普通は習わないが、ワカメの様なアレの存在が気になる野球人は多い。
「そーそーイシクラゲ。こないだ知ったんだけどさ、あれ食えるらしいよ～」
「マジでか！？」
「俺は食いたいと思わないけど、芯太郎はあれ見ると食欲そそられるんだって。いくらワカメ好きだからって変態だよね～」
「オホン！」
朝比奈が咳払いをする。本題があるのなら早く話せ！ という事だろう。
「何が言いたいかって言うとね。甲子園てイシクラゲないじゃん」
「そりゃ、天下の甲子園だぞ。あんなものあるわけないだろ」
「芯太郎のやつ、鑑賞用のイシクラゲもないレフトに飛んでこなくて暇してただろうからさ。イシクラゲ代わりにいっぱい打球ごちそうしてやってよ」
里見の肩をポンポン、と叩くと、真柄は帰って行った。ランナーが三塁にいるのだから前進守備か定位置か、その辺の事を話し合うのが本来の守備タイムの在り方なのだが……。
「スクイズはないと見た。というかスクイズやらせても１アウト欲しいだろ？ 竹中」
「……正直、一点やってもランナーいなくなる方が嬉しいです」
「よし、一点は覚悟した。定位置で守るぞ」
散っていく智仁ナイン。芯太郎に打たせる配球をしろ。真柄は（恐らく）そう言ったのだ。
――外の高めなら、引っ張れば自然と右中間に飛ぶだろう……。
そう、今日の竹中のコントロールだと、狙って投げられるのは高めしかない。早速要求すると、竹中は難無く外角高めに放って来た……ただし、胸の高さの甘い球である。
響く金属音。引っ張った打球はやはり右中間を抜けて。背走する芯太郎のグラブに収まった。
「あ、アウト！」
深いところに飛んだため、タッチアップでの一点は防げない。４対０。それでも今日の時の人、斎村芯太郎の美技に観衆が酔いしれる。
「す、すげー……あれを追いついたかよ」
「今殆ど打球見てなくなかった？」
「流石、カリーに褒められるだけの事はあるな」
バツの悪さから目のやり場を失い、イシクラゲを探す芯太郎。残念ながら甲子園には存在しない。
その芯太郎の動きを見た大麻は、ベンチで拍手を送る。
「やっぱり、そう来たか。あいつは昔から左打者相手だとセンターに移動させられたもんさ。これ以上、右中間狙いは得策じゃないだろう。けど、遅すぎたな智仁さんよ」
「大麻、ってことは作戦はもう？」
「ああ、終いだ。だが、この点差は大収穫だろ」
０対４。芯太郎封じの全員左打線で、４点ももぎ取れたのだ。予想以上の戦果に大麻の顔も綻びかけるが、直ぐに頬を叩いて気合いを入れ直した。
「４点。俺には十分すぎる援護だぜ」
※守備のタイム……守備側がマウンドに集まって相談するタイム。二人以上の野手がマウンドに集まって相談をすると、守備のタイムとしてカウントされる。１試合３回までしか使えない。
