106回:Magician
イップスとは、鬱病に近い。やらなければならない事への責任感、迷惑をかけたくない人達へ責任感。精神に与えられた過度なプレッシャーが、正常な神経伝達を狂わせる。結果、命令した挙動を体が拒否してしまう。
体が言う事を聴かないという点では鬱と同じ。ではこの両者、何処が違うのだろうか。
イップスは、治る場合は短期間で治る。長い長い時間をかけて戦わなければならない鬱と違って、ふとしたきっかけで原因が取り除かれるのがイップスだ。ボールを叩きつけてしまう典型的なイップスも、眼をつぶって投げると何の問題もなく投げられたりする。景色を変えるだけで直ったりするのだ。
治らない人間は一生治らないが、正しく導いてくれる恩師がいる運がいい人間は、一発で治る。要は心のバグエリアを踏まないか、『忘れてしまえばいい』。もしくは『無かった事になればいい』。
その治療こそが、望田征士郎の切り札だった。
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遡る事15時間前。佐那が眼帯を取り外し始めたのを見て、閉じた芯太郎の瞼に事件直後の光景が蘇る。
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「シン、ほら。触ってみて」
「駄目だよ、患部に触れるなんて」
「……なら、せめて認識して」
そう言って佐那は眼帯を強引に外した。生々しい傷と縫いつけられた糸。自分がした事の大きさを認識せざるを得ない、彼女の容姿……。正視に耐えないながらも、眼を逸らす権利はない。
「よく見て。凄い傷でしょ。たくさん泣いたから、瞼も腫れた」
「ごめん、本当にごめん……」
「芯太郎の右半身が白いわ。いいでしょ、真っ白な世界」
「俺は、そんなつもりじゃ」
「謝るぐらいなら、抱きしめて。もう私を愛せるのはあなたしかいないのよ」
震える手で佐那を抱きしめると、望田家の家族に鉢合わせた。征士郎に思い切り殴られたのを覚えている。
「君のせいだ! 君が娘をこんな姿に!」
「出て行って! あなたが野球さえやっていなければ、この娘は!」
征士郎の拳も、親御さんの言葉も、佐那の傷も。全てが俺の神経を犯し、ゾワゾワと頭から降り始め、体を制圧していった。
『もう二度と、人に打球を当てちゃいけない』。その命令を悉く体が拒絶する。これが呪いの始まりだった……。
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佐那に打球を当てた時の事は、芯太郎の脳裏にハッキリと焼き付いている。一日たりとも、忘れた事はなかった。あの傷の生々しさ、凄惨さを。
しかし、取り払われた眼帯の下は、事件前の佐那の肌そっくりであり……。
「よく見て、シン」
「傷が……無い!?」
夜の闇に遮られて見えにくいだけなのか。それともあの光景は本当にただの悪夢だったのか。信じられないと言った表情で芯太郎が瞼に接近すると、佐那が優しく唇を奪った。
「んっ!?」
「黙っててごめんね。私、手術をしたの」
佐那は征士郎の見ている前で、赤裸々に話し始めた。手術費を保護者会が一部受け持ってくれた事、視力もほんの少しではあるが残っている事……。
「でも本当の理由は、芯太郎が苦しむ姿をこれ以上見たくなかった」
「佐那……」
「ずっとこの眼に傷を残して、芯太郎を縛る事もできた。けど、私は幸せでもシンが幸せになれない……だから、手術を受けたの」
美しいまま、自分が傷つけていないままの佐那が、目の前にいる。それだけで芯太郎は、『自分の罪を許せた』気がして、表情を緩めた。
その時、ずっと眉間に皺を寄せていた征士郎が、ニッコリ笑って芯太郎の手を掴む。
「俺も悪かったよ、芯太郎。今もわざとかどうかは、正直判別ついてない。でもお前の罪は今無くなったんだ」
「征士郎……俺を許してくれるの?」
「もうお前にとっては残りわずかな高校野球だけど……今まで辛かっただろう? だからさ、せめて。明日だけは、思いっきり楽しく野球をしよう。昔みたいにさ!」
「うん……うん。 俺、楽しい試合がずっとしたかったんだ!」
「ああ。ありのままのお前で試合をしていいんだ。楽しみだな!」
「うん、凄い楽しみだ!」
泣き笑いながら宿舎に帰っていく芯太郎を見届けると、征士郎は唾を吐き捨てる。
「悪かったな、大変だったろ」
「うん……泣きそうだった。でも久しぶりに綺麗な顔になれて、ちょっと嬉しかった。シンにも会えて……」
「これで恐らく、芯太郎のイップスは死んだ。トリガーは、間違いなくお前なんだからな」
征士郎は佐那の顔に涙を見つけると、優しく抱擁した。
「明日は俺が勝つ。芯太郎さえ封じれば、リードは一点で十分だ。勝って、もう一度芯太郎に真実を叩きつけてやる。生涯の絶望を、今度こそ……」
涙で特殊メイクの一部が乱れ、本来の傷が露わになっていた。
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「何やってんだ斎村ーッ!」
「てめぇ、ランナー三塁だと絶対打つんじゃねーのかよ! 何凡退してんだ!」
戻って現在。スローボールを打ち損じるという芯太郎の失態に、期待を裏切られた観客の罵声が飛ぶ。まるでプロ野球の様なヤジが、高校生に容赦なく浴びせかけられる。
芯太郎はボックスから足を外さず、望田を注視する。
――何を見てる? 俺は『許す』なんて、一言も言って無い筈だが。
望田征士郎はこの試合の勝利を確信し、斎村芯太郎はその逆だった。この試合に負ければ芯太郎は佐那に対する責任を取らなければならない。恐らく、征士郎の中ではその約束が生きている。、今更芯太郎は、征士郎が自分を許してなどいない事に気づいたのだ。自分を倒すためだけに、呪いを解いたのだ。
「責任感の強さからイップスになったお前の事だ。満塁で、スローボールで千載一遇のチャンスを潰した。チームに迷惑をかけた事実、体が見過ごさないよなぁ?」
もう流れは決まった。この大会中無失点の望田相手に、絶不調の真柄が投げ続ける智仁……勝ち目は無い。誰もがそう思っている。
だが、たった一人。
「よかったじゃーん、芯太郎。呪い無くなってさー」
「真柄、触らないでくれ」
肩に置いた手を払いのけられる真柄。芯太郎はグラブを受け取ると、センターに走っていく。
「痛てて。ほぉ、この痛みはいいぞ。もうそろそろ……頃合いかな」
真柄は不自然なほど、入念にロージンを付け始めた。




