76. テラスの戦い
「テラスだ! 急げ!!」
廊下の窓の向こうに見える、テラスを指差しながら、セシリアの前を走るのは、短く刈り込んだ髪型と、彫りの深い顔が印象的な、二十歳そこそこの青年だ。肩幅の広い軍服が良く似合うのは、彼が頭よりも手足を使うことをモットーとしていることの顕れである。
「テラスにも、『翼ある人』がいますっ!! 危惧したとおり、ついに帝都にもヤツらが!」
セシリアの後ろで叫ぶのは、いかにも利発そうな顔をした青年。学者のように知的な雰囲気は軍人のそれにそぐわないほどで、常に冷静な分析を是としている。しかし、時として若さがそれに追いつかないこともある。現に、彼の声は少しばかり上擦っていた。
「ジャック、テラスにアルサスと皇帝陛下は!?」
前を行く青年にセシリアが問う。
「いるっス! 陛下もあの小僧も!」
「よし! マーカス、バヨネットの安全装置は外しておけ。ジャック! テラスへ駆け込むと同時に、敵を一掃する」
セシリアは指示を伝えると、ジャックを追い抜いて、テラスへと駆け込んだ。ざっと見た目算ではあるが、テラスに降り立った「翼ある人」の数は、五人ほど。人ではないから、五匹と呼ぶべきか。いずれにしろ、テラスの教導団兵は皆、足並みを崩して、混乱の真っ只中にあり、アルサスと皇帝の姿はテラスの端に追い詰められていた。
すでに、バヨネットのパイルが切れたのか、先端に取り付けられた小剣で応戦するアルサス。しかし、敵は斬っても撃っても、けして死なない化物。
「アルサスっ!」
セシリアはその名を呼び、軍服のウェストポーチから、予備の弾倉を取り出した。ちょうど宝石箱程度の大きさのそれを、アルサスめがけて放り投げる。気づいたアルサスは、小剣で切り結ぶと、顔をこちらに向け弧を描いて、飛来した予備弾倉を受け取った。
「空の弾倉を取り外して、アタッチメントに取り付けろ!」
そう指示しながらも、自らのバヨネットを小脇に構えて、撃ち放つ。しかし、「翼ある人」は新手の登場にも、まったく動じる様子もなく、三叉の槍を突き出す。セシリアは咄嗟の機転で、トリガーから指を離し、三叉槍を小剣で受け止める。
「皇居には、一匹も入れさせないっ!」
セシリアの声に同調するかのように、ジャックとマーカスのバヨネットが火を噴く。交差するパイルが、「翼ある人」を貫いた瞬間、それは光の粒に姿を変えて風に消えた。
「他のヤツも片付けろ!」
命令を飛ばせば、ジャックたちは「サー、イエッサー!」と、ダイムガルド帝国軍お決まりの返答を返し、一気呵成に、敵へと飛び込んでいく。セシリアは踵を返して、アルサスとアイシャを狙う「翼ある人」の下へ駆け寄った。
アルサスが弱いわけではない。この眼で見た、センテ・レーバン騎士団伝統の「迅雷の剣技」は一対一の戦術において、圧倒的優位を誇る。アルサスは、記憶を喪っても、なお体に染み付いた、騎士団の剣技を見事に会得しているといっていいだろう。教導団の教官にして指令官であるモーガンに対しても、まったく劣らない。だが、たった一匹の「翼ある人」に苦戦するのは、他でもない、彼にぴったりと寄り添う少女の所為である。
自分たちダイムガルド人が、崇め敬う皇帝陛下が、自分と変わらぬ少女であったことは、驚きに値する。代々皇帝陛下は、下々の前に現れたりしない。御前会議でも、侍女たちに代弁を頼むほどである。皇帝の正体を知っているのは、皇室の世話係である宮内省の一部の人間だけだ。ましてや、陸軍省下のいち将校であるセシリアは、そのご尊顔を拝する機会など、皆無に等しいものであった。
だが、その衝撃と感傷に浸っている暇はない。
セシリアは、バヨネットを振り上げると、「翼ある人」の背後から迫り、その背中を袈裟に斬った。傷口から、光の粒が溢れる。だが、とどめには到らず、「翼ある人」はくるりと振り向くと、左手を伸ばした。一瞬、セシリアはその黒く何も感情のない瞳に、眼を奪われてしまった。
殺意も悪意も怒りも悲しみもない。人形の瞳よりも、無機質。なぜそんな眼をしているのか。余計な感傷が胸を過ぎったのだ。
「くっ!」
セシリアは、首筋を強く握られ思わず呻いた。背丈ならば、「翼ある人」の方が、頭二つ分ほど高い。そのため、首根っこをつかまれたまま、高く上げられたセシリアの足は、地面から離れてしまう。まったく持って冷たいのに、何の殺意のない手がぎりぎりと、セシリアの首を絞める。
「セシリアを放せーっ!!」
アルサスの叫びが響き渡った。その瞬間、「翼ある人」の背中から胸にバヨネットの小剣が突き出す。不意に、「翼ある人」はセシリアを離した。アルサスは、すかさず引き金を引く。ばりばりと何本ものパイルが敵の体を貫いて、その光の粒と共に空へ飛んでいった。
解放されたセシリアは、肺に大量の空気を吸い込んで咳き込み、ふらりと膝を突く。
「危ない、隊長っ!!」
突然背後からマーカスの声が飛んでくる。セシリアはハッとなって、振り向いた。迫り来る黒い影。別の「翼ある人」が膝を突いたセシリアに狙いをつけて、槍を投げつけたのだ。
逃げられない! そう思った瞬間、転がるようにマーカスがセシリアの眼前に飛び込んできた。槍の切っ先は、マーカスの右大腿を貫いた。
「ぐあっ!」
強烈な衝撃にマーカスが悲鳴を上げる。だが、彼の傷口から、口から血が逆流するでもない。その代わりにはらはらと光の粒が溢れてくる。
「マーカスっ!!」
「くそっ! なんだよ、これっ!」
マーカスは血の気が引いた顔で、太ももに刺さった槍を引き抜いた。不思議なことに痛みはない。だが、少しずつ体の力が奪われていくような感覚。慌てて、軍服のポーチから布切れを取り出したマーカスは、それを大腿に巻いた。彼が丸太のようにどさりと倒れこんだのは、その直後だった。
「マーカスーっ!!」
セシリアはまだよろめく足で立ち上がり、部下の下へ駆け寄る。そんなセシリアの傍を、パイルが掠め飛んでいった。セシリアの背後で、アルサスがマーカスを仕留めた「翼ある人」めがけて、バヨネットを撃ったのだ。
アルサスのパイルは幾重にも重なり、「翼ある人」を光の粒に変えた。それを皮切りに、テラスの戦況は好転の兆しを見せる。セシリア隊、そしてアルサスの奮戦ぶりを見て、生き残った教導団兵たちが奮起したのである。いくつかの叫びと怒号、そして無数のパイルと剣戟が奏でる音を背景に、テラスに降り立った「翼ある人」はすべて姿を消した。
「ジャック! マーカスを救護班の衛生兵のところへ!」
セシリアは、気を失ったマーカスの体を抱き上げながら、ジャックに命じる。ジャックはそそくさと駆け寄ってくると、セシリアからマーカスを受け取り「しっかりしろ」と声をかけながら、彼を背負ってテラスを後にした。セシリアは、そんな部下二人の後姿を見送ってから、生き残った教導団の方に向く。
「教導団兵! 貴様たちの目論見は破綻した。モーガンはもうこの世に居ない! 直ちに投降し、近衛騎士団に加勢して、『翼ある人』を討つならば、貴様たちの罪も軽くなるであろう!」
高らかなセシリアの声に、教導団の青年たちは少しばかりの戸惑いを見せながらも頷いた。そして、教導団との訣別の証に、青い腕章を腕から毟り取った。
「では、我らは街に降り立った『翼ある人』の掃討に取り掛かります」
小隊長らしき少尉の青年が言う。歳の頃は、セシリアより少しばかり上か。血気盛んを絵に描いたような顔をしている。階級が上に当たるセシリアに敬礼をすると、生き残った少ない部隊を率い、踵を返した。数十分前まで、その命を奪おうとしていた皇帝には、眼もくれず。
「大丈夫か、セシリア!」
テラスが一気に静寂に包まれると、足音を立てながらアルサスが駆け寄ってきた。セシリアは、多少の安堵を込めてゆっくりと振り返った。ひと心地つきたい気持ちもあったが、アルサスの傍に寄り添う少女の姿を見れば、まだ、「セシリア・ライン中尉」である必要があると、思い直した。
「大丈夫だ。それよりも、アルサス……皇帝陛下、お怪我はありませんか?」
アルサスの後ろで少しだけ青い顔をした少女は、ひしとアルサスの左手を握り締めている。二人に何があったのかはよく分からないが、どうやらアルサスを信用しているようだ。
「わらわは無事じゃ。それよりも、これはいかがいたしたというのじゃ。センテ・レーバンの……ガモーフの秘密兵器なのか?」
「いえ、そうではありません。彼らは『翼ある人』。世界を滅ぼそうとしている、ある男の兵隊です。世界中で、今多くの人が、光の粒になって消えています。それはすべて、その男と『翼ある人』の起こす悲しみなのです。我が国も、すでに、レメンシアをはじめとする、いくつかの街が襲われました」
部下の死を悲しむ心の隅で、何故かちくりとする胸を押さえながらセシリアは、アイシャに説いて聞かせた。
「戦争……なのか?」
と、怯えたアイシャの眼をセシリアは見据えた。「翼ある人」の眼とは違い、瞳がゆらゆらと揺らめく様は、絶対不可侵の皇帝陛下が、機械や魔物ではなく、自分たちと変わらない「人」であると感じた。
「陛下。僭越ながら、わたくしめは陛下がヨルンの悲劇で、腹違いの兄上であるライベル親王殿下を失われたことは存じ上げております。それ故、戦争を憎んでおられるということも、父より聞いております」
「父上とな?」
「はい。我が父……と言っても、戦災孤児のわたしを拾ってくれた養父ですが、名をオスカー・ラインと言います。陛下の兄上と共に戦い、両足を失った敗軍の将です」
セシリアは静かに言った。
彼女が陸軍准将のオスカー・ラインに拾われたのは、十二年前。まだ五つだった、セシリアはセンテ・レーバン、ガモーフとの戦争で両親を失い、戦災孤児となり無限の砂漠で行き倒れた。それは、アルサスがそうであったのと同じように、もしも、哨戒中のオスカーに見つけてもらえなければ、いずれエイゲルに亡骸を啄ばまれていただろう。
オスカーには子がなく、セシリアはオスカーとオスカーの妻の養女となった。そうして、十年前、ヨルンの戦いに従軍する父オスカーを見送った。オスカーは、当時の近衛騎士団の大隊長として、アイシャの兄であるライベル親王殿下の軍に随伴していた。ライベル殿下は、アイシャにとって腹違いの兄であり、またライベルには皇位継承権がなく、いずれは軍の一翼として妹の身をまもる立場にあった。
しかし、火蓋の切って落とされたヨルンの戦いで、ライベルは白き龍の光に包まれ、塵も残さず消えてしまった。また、オスカー・ラインも両足を失った。何とか命からがら生き延びて、ダイムガルドに帰還したものの、父はそれ以来、近衛騎士としてライベルを守れなかったことを後悔し続けている。そんな父の背中を見て育ったセシリアは、「軍人の家系だから」と言いつつも、自分を拾ってくれた父の無念を晴らすために軍人となったのである。
「兄上は、とても優しいお人じゃった。わらわのことを守ると、そう言って、十年前戦場に出て戻らなかった……。それでも、わらわはそなたの父が悪いとは言えない。確かなことは、戦争こそ憎むべき相手だということ。わらわは、沢山の本を読んで、そう結論したのじゃ。わらわの代に何があっても戦争はしない。それが、亡き兄上への手向けの花だと思ったのじゃ」
「戦争が正しいとは言いません。ですが、ご覧下さい陛下!」
セシリアは顔を挙げ、その視線をテラスの向こうにむけた。眼下に広がるのは、ダイムガルド帝都の街並み。遠くで高角対空砲が唸り声を上げ、民家、工場、軍施設、様々な建物と煙突が立ち並ぶ街の景色のいたるところから、悲鳴と光の粒が舞い上がる。それが何を意味しているのか、アイシャにも分からないはずがない。「翼ある人」はその無機質な瞳で、都民を次々と光の粒に変えているのだ。
「戦うべき時に剣を取らなければ、悲しみが増えるだけです。陛下がお守りするべきは、ダイムガルドの人々。そして、世界に生きる人たち。ウルガン様が我らに教えてくれました、銀の乙女が生み出した『翼ある人』も、金の若子メッツェ・カーネリアも、世界を滅ぼすことを諦めたりしないと」
セシリアの声を聞きながら、アイシャは食い入るように帝都の惨状を見つめた。小さな肩がやや小刻みに震えている。
「どうして、こんなことが起きたのじゃ? 世界を滅ぼすなんて……絵本の中では、魔王の所業じゃ」
「それは、分かりません。ですが、メッツェたちが魔王であるかはさておいても、少なくとも、御眼に映る光景は、現実ということです」
「そうじゃな……」
アイシャは瞳を伏せて、振り返った。
「アルサス……もしもわらわが、わらわが戦争をするといったら、そちはそれでもわらわのことを守ってくれるか?」
「もちろん。お兄さんのようには行かないかもしれないけれど」
アルサスがそう答えると、アイシャは再び街のほうに向き直り、「そうか……」と短く返した。街では、エイブラムスの召集した近衛騎士団が金色の甲冑を身に纏い、「翼ある人」の鎮圧に乗り出していた。それは形勢が徐々に逆転しつつあることを示していた。
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