第83話:せんせんふっきですの!
(まむ……まーむ!……)
『……アレクサ……アレクサ聞こえますか』
脳内にわたくしを呼びかける声が響きますの。……わたくしは……ああ、そう。ミセスとの決闘の開始直後に倒れてしまって……。情けないですの……。
ん?ベッドの上ではないですわね、椅子に座っている?右手にはごつごつした杖のような物を握っていて、そして身体を包む水……いや海の感触。
『アレクサ、目を閉じたまま聞いてください』
(まむ!おきた!よかった!)
クロとスティングですか。ふむ、言われた通り目をつぶったままにしますの。
『アレクサは自分がミセス・ロビンソンの攻撃によって倒れたことは認識しているのですね?
ですが決闘はまだ続いています』
なんと?
『事後承諾で申し訳ないのですが、アレクサの身体に〈憑依〉してあなたの身体を動かしていました。今、アレクサはわたしの結界の中にいます』
申し訳ないなど!ああ、わたくしが不甲斐ないばかりに。
つぶっている目蓋の下から涙が溢れて海に溶けていきます。
『アレクサが目を開けると、この結界が消えるようになっています。
決闘は即座に再開されるでしょう。油断なさらず。全力で』
はい。ありがとうございますの。クロはいずこに?
『わたしの宿っていたなまこ君は吹き飛ばされてしまったので〈送還〉し、今わたしはあなたの頭上のウミユリに宿っています』
頭の上のこれですか。……スティング。落とさぬようにお願いしますね。
(あい、あい、まむ)
髪がふわふわと揺れて、頭上のウミユリがずれないように位置を固定したようですの。腰に流れていた髪はいつものように身体の両脇で巻き髪となります。わたくしは魔力を全身に巡らせました。
……では行きます!
『ええ、アレクサ』
(いえすまむ!)
わたくしが目を開くと、そこは海の中。明るい水の中には魚や珊瑚が鮮やかに色づき、わたくしは珊瑚の椅子に座っていますの。
おそらくこの海がクロの言う結界で、闘技場の上に球状に展開されている様子。その向こうにはミセスとラーニョの気配がします。
シャボン玉がはじけて消えるように海が割れ、景色は闘技場のものに戻りました。ラーニョはミセスの側に寄り添い、ミセスが口元に笑みを浮かべますの。
わたくしとミセスの声が重なります。
「Go Ahead! Kill Them All!」
「〈無慈悲なる徴税官〉、税率――九公一民」
ミセスの左掌の上に小規模な〈転移門〉。そこを通過しているのは無数の蜘蛛の糸。
転移先は……結界の外!空から垂れる糸がきらきらと輝き、それに触れた観客から魔力を吸い上げていきます。大規模な〈魔力奪取〉ですの!?
わたくしは地面を爆発させつつミセスの下へと突進。ラーニョが身体を割り込ませて進路を遮ります。そこに全力で拳を叩きつける!
ライブラの大時鐘を至近距離で打ち鳴らしたかのような轟音。
わたくしの拳はラーニョの漆黒の瞳の前数cmのところで止まります。〈魔力障壁〉でわたくしの突進からの拳を止めますか……!
ミセスが指を身体の前でゆっくり横に振りました。
ぞくり。
悪寒がしましたの。反射的に跳躍。なにかが足の下を通った気配。
闘技場全体に張られた結界が背後で軋む音がします。
空中にいるわたくし、こちらに向けてゆっくりと伸ばされるミセスの右手。
「〈空中歩行〉!」
わたくしは空気を蹴り横跳びに方向転換。わたくしのいた位置を貫き、背後で再度軋む結界。
地面に落下、そのまま転がり、振り下ろされるミセスの腕の方向から回避。
地面に斬線、縦に土埃が伸びていきますの。
この攻撃、ミセスは……。
「糸使いでしたのね!……〈魔力視〉!」
くっ……これでも見えませんの!
ミセスはほとんど聴き取れない、呟くような詠唱をしつつ、わたくしを右手で追っていきます。
ラーニョの極めて細くかつ強靭な蜘蛛糸を魔力で強化・操作。そしてミセスの極めて繊細な魔力制御により、攻撃する糸から余剰魔力を一切漏出させず、逆にミセスの背後に揺蕩わせている糸からあえて魔力を漏出させて光を放つ。
完全に不可視の糸使いですのよこれ!
空間が刻まれるのを空気の流れや手の方向、勘でなんとか避けていきますが……。
左の二の腕の袖が軽く引かれるような、ただそれだけの感触とともに、腕がぼとりと落ちました。鮮血が溢れ出し……クロ!スティング!
「〈止血〉!」『はい』(やー!)
左腕の断面から噴出する血が止まり、わたくしの言葉にする時間すら無かった命を受けて、クロがわたくしにかけている[能力下賜:再生]への魔力を大きく回し、左の縦ロールが伸びて落下した腕を掴み、切断面に押し当てます。
「〈大治癒〉!」
さらに治癒魔術を重ねがけしますの。左手をぐーぱーと開閉しました。うむ、左腕の接合に成功ですの。
……あぶないところでした。
わたくしは右手で左袖を引き抜きます。左だけ半袖になってしましましたわね。
白の魔術礼装の左半身が真っ赤ですの。
ミセスが手をおろして仰います。
「おどろいたねぇ。腕を落としても、すぐに接合して動かせるのかい」
わたくしは左腕を上げて力こぶを作るようなポーズを取り、右手で二の腕をぽんぽんと叩きます。
「ですわね。試すのは初めてですけども。
ミセスの手の動きもブラフですわね?今の糸は明らかにその向きから来ていなかったですの」
「そうねぇ。そうとも言えるし、そうでないとも言えるわねぇ。
手を向けなくても動かせるけど、手を向けた方が正確に、速く動かせるのは間違い無いわよ?」
この攻撃を始めてからラーニョが動いていません。ただ、その場で前脚を上げてわさわさと動かしていますので、糸の生成と操作をしているのでしょう。
その糸をミセスが強化、さらに〈念動〉で細かい操作をしているということですか。
この量の糸をどうやれば絡むことも無く操ることができるのか……。気が遠くなりますのよ。
「さあ、続きを始めるかねぇ」
ミセスがそう言って手を上げましたの。
わたくしは急ぎ〈浄化〉で血と土埃を落としつつ、脳内でクロに尋ねます。
……えーと、クロ。ミセスの操作している糸が知覚できないのですが、なんとかする方法はありますか?
『ああ、たしかにわたしでも感知しづらい。
そうですね……〈海霧〉』
一瞬だけ辺り一面が海原となったかのような幻視。そして地面から冷気とともに霧が立ち昇ります。霞がかる視界、そこに無数の輝くものが。
なるほど蜘蛛糸に水滴が!
きらきらと光る斬線を避けていきます。先ほどより少し遅いですか?ああ、水分を含んで重くなっていますわね。目に見えるようになったことと相まって格段に避けやすいですの。
顔のそばに飛んできた糸を髪の毛が迎撃します。
剣を斬り結ぶような硬質の音が幾度も響きました。
(ちょっといたい)
ふむ。迎撃は可能ですが、お互いに斬り飛ばすことは出来ないと言った具合ですか。
ところでミセスの裏に回り込むように移動しようとしていたらバラバラにされていたかもしれませんわね。闘技場全体に糸が張り巡らされていましたの。
なるほど、わたくしに向かっていたのはあくまでもその一部にしかすぎないということですか。
「繰糸術、潜み糸。それより変形、籠の中の鳥だねぇ」
無数の糸が組み上がり、直径5m程のドーム状にわたくしを取り囲んでいますの。
糸に光る水滴は水晶でできた籠のよう。
ミセスは開いた右手を見せます。
「これを閉じれば、糸は一瞬で引き絞られて、あなたに殺到するわ。
……降参するかい?」
わたくしは笑みを浮かべて答えます。
「冗談」
「いいわねぇ、アレクサンドラ。奥義、死の繭玉」
ミセスは拳を握りました。
籠が全方位より隙間無く殺到しましたの。
クロの使った〈海霧〉の解説。
海霧は通常であればSea Fogと訳すのが普通です。
Haarはマイナーな英単語、スコットランド東海岸、北海の上で発生する海霧のことですね。
また霧で糸が見えるようになるかについては、蜘蛛の巣は水を非常に多く集める性質があります。これがとても綺麗なので、ビーズ細工とか好きなら「蜘蛛の巣 水滴」とかで検索していただくのお勧めですよー。そもそも蜘蛛をキモいと思わないの前提ね。
蜘蛛好きなら「ハエトリグモ 水滴」とかもおすすめ。




