24 父として
二人分の靴音がしていた。
セナと、ガルの靴音だった。履いている靴が違うからか、歩き方からか、体重によるのか、響きの異なる音がする。
ヴィンセントとライナスは、建物内のエド・メリアーズ側の人間を拘束すると同時に、その他の人間を保護する役に回った。だから一緒に歩いていない。
派遣されると決まった教会の人間は鳥で来るそうなので、まだ時間がかかる。
その間に、やれることはやってしまうつもりらしかった。関係者の拘束、または保護、そして証拠の確保。
セナは、ガルを天使に案内された部屋を案内していた。決定的な証拠は、あの部屋のことを言うのだと思ったから。
しかしながら、漂う沈黙にほんの少しだけだけれど、居心地の悪さを感じる。
理由は歩いているうちに分かった。いや、分かったと言うよりは思い出したと言うべきか。
思えば、ガルと前にまともに会ったのは、白魔討伐の後だ。
自分のことは、切り捨ててしまった方が手間がかからなくていいのではないかと言って、彼に怒られた。
それきりまともに話していないから、この状況で気軽に話しかけるような空気を感じられないのだ。
むしろ思い出したがために、緊張を自覚した。
どうしよう。何か話すべきか。話したい。だけど何から? 何を、話すべきなのか。
『セナ』
そんなことを考えている内に、肩の方から声がかかった。
小さな白猫姿のシェーザだ。
着いたぞ、と言われ、あの石の扉の元に着いたことを知った。
「ここですか」
「うん」
扉を開き、ガルが中に入る。
中は、天井がガラス張りなので、太陽の光が室内に降り注いでおり、窓のない通路より余程明るかった。
一番目立って、一番怪しい台座にガルが向かう後ろからセナも部屋に入ったが、ふと傍らを気にした。
ベアドがいる方だ。
「……ベアド、大丈夫?」
ベアドは毛を逆立てていた。目付きも悪い。
セナが声をかけると、ベアドはこちらを見てから、ぽつりと呟くように答えた。
『……最悪だな』
と、一言。彼は口を重く閉ざした。
シェーザがここに入ったとき、異様な空気が漂っていると言っていた。ベアドも何か感じるのだろう。
ガルは台座に彫られている模様を注視していたが、不意に振り向いた。
「セナ、教会から他の人員が来る前に君はノアエデン……いえ、一応砦にしましょうか。北の砦に戻っておいてください」
邸にエデたちが来て、白魔に気がついた場合驚くだろうから、とガルは言った。
セナは、すぐには「うん」とは返事しなかった。
精霊たちは、受け入れてくれるだろうか。エベアータ家の領地、ノアエデンは精霊の特別な場所だ。
セナは、シェーザに目をやってから、ガルを見た。
前に、ガルはセナがエベアータ家を離れることを一蹴したけれど、今改めて確認しておくべきだと思った。
怒られた記憶に少し躊躇いが生じながらも、セナは口を開く。
「わたし、エベアータ家にいてもいいの?」
返事しないセナの様子を見ていたガルが、体ごと振り向き、正面からセナと向き合う。
理由を問われる前に、セナは言葉を続ける。
「ノアエデンは精霊がいるから、シェーザが無害な白魔でも白魔だし、わたしも純粋な人間、じゃないみたいだし」
白魔の存在を隠し続けていかなければならないのは、セナの決断によって確定した影響だ。そして、セナ自身自らの身のことを知った。
「わたしは、そこまでしてもらってエベアータ家にいてもいい人間?」
色々な問題を持ち込むセナは、エベアータ家に相応しいか。いてもいいのか。そんなに価値がある存在か。
ガルは黙ってセナの言葉を聞いていて、セナが言い終えてから、一呼吸分の間が空いて、静かに沈黙を破った。
「よく考えてからものを言いなさい」
セナの体が、ぎくりと固まった。
「と、先日言いました」
しかしガルの言葉は過去に言ったという内容で、今改めて言ったわけではないようだった。
「言葉足らずでした」
ガルは、微笑した。いつものにこやかなそれではなく、自嘲を感じる弱いものだ。
「あのときの言葉は、私の勝手でした。何もセナに伝えていなかった私の自業自得でもありました。戸惑わせましたね」
自業自得とは、ガルに似合わない評価だ。
「まず、答えておきましょう。エベアータ家にいるかいないかは、セナが嫌だと思うのなら出ていっても構いません。ですが、私はセナが出ていくべきだとも、出ていって欲しいとも思いません。──むしろ、出ていって欲しくないと思います」
セナは驚いた。
驚いて、戸惑った。戸惑ったのは、最後の言葉にだ。
だって。
「わたし、出ていって欲しくないって思われるようなこと出来てない、お父さんに何も返せてない……」
むしろ迷惑をかけている。
「そこですね、根本は。セナは、自分が手間をかけるから、その手間をかけるのならいっそ自分を追い出した方が良いのではないかと考えているわけですね」
「う、うん」
一時的ではなく、一生の問題にもなった。
「私がそのように判断すると思いましたか」
「思った、と言うより……わたしはお父さんに引き取られた理由があるから。お父さんは跡継ぎが欲しくて、でも、問題を持つわたしを跡継ぎにするのは、持ってる問題上ばれたときを考えると、危険性の方が高いと思うから、他の人を探した方が……って……」
言っている内に、何だか悲しくなった。
セナには、そうありたいと望む資格はない。
シェーザのことを後悔することはない。自分の存在の問題もある。もしも前もって、その選択をすればエベアータ家にはいられないと言われていても、セナは選択を変えることはないだろう。セナにしか出来ないことだった。
だけれど、エベアータ家から離れなければならないことへのこの感覚もやはり変わらないだろう。
なぜか。この世界に来て、親しい関係を築いた存在がノアエデンにはいるからだろうと思った。
そして、ガルには何も返せないからだ。
セナは生き延びる術を得た。環境を無くすのは自分のせいだ。何年も前、ガルと取引をした内容をセナは得た。
一方で、ガルは何も得ない。互いに利点があったから取引したのに、彼の取引の結果だけゼロで、大損だ。
自分だけ、取引内容を全うできない情けなさ──いや、今は悲しいのであって、情けないのではないはずだ。確かに情けなさはあるけれど──
「セナにそう思われる自分に、怒りを感じましたよ」
「……え?」
「私に、セナを切り捨てる可能性を見えたというのは、私がそう見えるように接してきたからでしょう。言われてみると、心当たりがないわけではありませんでした」
お父さん? と言いたくなった。どうしたの? と。
「私は、セナの父であれたかという質問をされたなら、はいとは言えません。私は、確かにセナに次期当主になってもらうため、まずは教会で一人前になってもらうために教えを授け、接していました。セナは私を父と呼んでくれていますが、ずっと教師と生徒の方という言い表し方の方が近かったのかもしれないと思いました」
教会の一員になるため、ノアエデンを出た日、同じようなことを思っていたことを思い出した。
ああ、そうか。自分と、ガルは。
やはり、親子という関係にはほど遠かったのだ。
「私は、セナのことをあまりに知らないということに気がつきました。遅すぎにもです。知ろうとしなかったと。……出会う前のことを、聞いたことがありませんでした」
確かに、聞かれたことがない。聞かれたと言えば、うなじに数字があったことで奴隷であったことはあるかと聞かれたときくらいだ。
「それを、今回事が起こってから後悔しました」
後悔、なんていう言葉がガルから出てくるなんて思わなかった。
「なんで」
「聞いておけば、何か違和感程度であっても感じていたかもしれないと思ったからです」
ガルに出会う前。
孤児院に至る前。
「セナ、君は孤児院にいる前にどこにいたか記憶はありますか。どのような経緯で孤児院にいることになりましたか」
どちらのことを聞かれているのか一瞬考えた。
千奈か、エルフィア。
いいや、迷うまでもない。この世界での「わたし」だ。
「お父さんも、ライナスさんから聞いたの?」
ヴィンセントがライナスから聞いたと言っていたし、エド・メリアーズとのやり取りで何となく感じていた。
違和感とは何に対して抱いていたかもしれないとガルが言っているのか、察しがついた。
セナが孤児院に至った経緯が、よくある理由でなければ鋭い彼は微かにでも違和感を抱いたかもしれないのだろう。
孤児院にいた子供は、皆理由が誰かと被っていた。親が死んだ、養える大人がいなくなった、捨てられた。いずれかの理由に当てはまった。
しかし突然異世界に放り出されたと思っていたセナは、正直どの場合にも当てはまらなかったと言える。親が死んだのではなく、捨てられたのでもなく。
問われていたら、セナはきっと答えにまごついた。そこにさえ、ガルは気がついたかもしれなかった。その時点でセナがまごついた理由とはずれていてもだ。
「これが天使召喚陣であることなどは」
台座に描かれている模様が示された。
ここで何が行われていたか、「セナ」が何をされたかは知られている。
「……お父さんは、わたしに記憶が二つあるって言ったら信じる?」
エルフィアの事情だけを話そうと思ったけれど、やめた。
「セナと、エルフィア」
ガルは、疑問を呈することなく聞く姿勢を示していた。
「天使が教えてくれたの。わたしの魂は、二つに分かれてた。二つがそれぞれ別々の体に入って生まれて、『セナ』と『エルフィア』として生きてた」
セナとエルフィア。
「お父さんと会ったときから、さっきまで、わたしには『セナ』の記憶しかなかった。だけど、さっき『エルフィア』の記憶を見せてもらった」
千奈の記憶だけを持って、セナとして生きてきた。だけれど今、エルフィアの記憶がじわじわと染み渡ってきている。魂が一つになったように、同化されようとしているようだ。
「セナは、何でもない普通の家庭に生まれた。でもずっとずっと病気がちで、──一度死んだと思う」
「死んだ、ですか」
さすがに、ガルが声を上げた。
セナは頷いた。
「魂が半分だったから生き難かったんだろうって天使が言ってた。だからわたしはたぶん死んで、でも、気がついたら森の中にいた」
雪が降って、極寒の森の中に。
あのときは訳が分からなかった。
今、訳が分からないのはガルだろう。
「どうして森の中にいたのかはもう一人わたし──エルフィアに関係があって、エルフィアはメリアーズ家にいた。もう半分の魂を持って生まれたエルフィアは、ずっとずっと眠ってた。そこにはライナスさんがいて、ライナスさんのお母さんがいて、──メリアーズ元帥がいて、エルフィアはここに似た場所に連れて来られて、その儀式をされた」
冷たくて、熱くて、痛くて、こわい儀式を。
「メリアーズ元帥は、わたしのことを077番って言った。わたしの首にあった数字はそういう番号だった」
ガルの表情がわずかに動いたけれど、口を開くことはなかった。最後まで聞こうとしてくれているのだろう。
「その儀式は天使の魂を入れるものだったみたいだけど、わたしには元々入ってたから、代わりに力だけが目覚めさせられて、わたしは逃げた」
こわくて、離れたくて仕方なかったから、目覚めた力が翼になった。
「逃げた先がどこだか分からない森だった。そこで、召喚されてる途中だったもう片方の魂がやってきて、わたしの中に入って、一つになって──わたしはセナとしてまた目覚めた」
そして、孤児院にいることになった。
「これが、孤児院にいる前のわたしの話」
とても特殊な「わたし」の話だ。
これがわたし。今の「セナ」の全てだ。
「どちらも、今のセナの記憶なのですね」
話が終わったと分かり、ガルがまずそう言った。
「信じてくれるの?」
「信じますよ」
「記憶が二つあることも、一回死んでるとか言ってる、ことも?」
裏で、信じてもらえていなかったことほど悲しいことはない。
セナの注意深い言葉に、ガルは「では理由を言いましょうか」と信じる理由を話し始める。
「名前で区別をつけるなら、セナの方が私が知っていると言える君でしょう。ならばそのもう片方──ライナスが言っていましたよ。君は妹に似ている、あれは妹だと。妹の名前はエルフィア。それほど似ていて、しかしセナにはライナスを覚えている節がありませんでした。それが、今の話でちょうど辻褄が合います」
ライナスが。
「魂は、命を終えればまた巡ってきます。それに、セナ、魂が十分ではないことは時折そう言い表すことがあるのです。生まれてすぐ、目覚めることもなく亡くなった赤子の場合などです。君の場合、天使の魂だったからか欠けて十分でない魂が一生分生き、そしてまた巡り、魂が完全な形になっただけと言えるのですよ。──過程に強制的な力がかかっていたことは問題としてありますが」
そんな理由を聞き終えて、セナは。
この人、冷静だなぁ、と思った。
セナは、信じてもらえるのかどうか分からなくて覚悟していた部分があるから。何だか、笑いそうにもなったけど、目の奥が熱くもなった。
「話してくれてありがとう、セナ」
苦しい記憶はたくさんあった、優しい記憶もあった、怖い記憶もあった。
それらを全て知るはすがないのに、全てを包むような手が、セナを撫でた。
見上げたガルの目の奥に怒りを見た気がしたけれど、すっと消えた。
「セナ、私は君の父でありたいと思います。セナに娘であって欲しいと思います」
セナはまた驚いた。驚いているうちに、養父は穏やかな声音で言う。
あ、と思った。
「セナがいる北の砦の状態が悪化していると聞き、心配しました。白魔のことがあり、天使の剣のことがあり、君のこれからを考えました。エドに誘拐されたと知り、エドに怒りを覚えました。そして今の話を聞き、後悔と怒りがあります」
この穏やかな雰囲気を、知っている。声は違っても、この声の雰囲気を知っている。
「私にとって、セナのことは利益や不利益の問題ではありません」
いいですか、セナ。と、彼は教師のように言ったけれど、声音はそうではなかった。
「セナが私にかける『不利益』と思っているものは、君が言う通り、客観的に見ればエベアータ家が背負わずともいいものになるのでしょう」
なぜなら、それらは得にはなりえないものだから。
「しかし私はそれを背負いたいと思います。正しく言えば、背負おうという意識はありません。娘を守りたいと無条件に望むことは、父親として不思議なことではないのではありませんか?」
思ってもみないことを聞いた。予想もしていなかったことを聞いた。セナは目を見開いた。
ガルは取引の成果のみを望んでいると思っていたからだ。
ガルは自業自得と言ったけれど、違う。きっと、セナだって、何も見ることが出来ていなかった。気がつくのが遅すぎたのは、セナもだ。
ガルがその気なら、もっと早くに切り捨てるなり、セナの扱いを変えることは出来た。でも彼は一貫して、セナに変化が降りかからない選択をしてくれている。その、決定的な言葉だった。
「お父さん」
わたしで、いいの? と尋ねる言葉が掠れた。
ガルは微笑んだ。
「君が不安に思うこと全てに改めて答えましょうか。まず、白魔の存在について秘していくことは容易です。彼が下手をしなければ」
肩の辺りから『お前達もな』という言い返しがあった。
「ノアエデンにいるに当たって、白魔と精霊との関係についてはこれから考えましょう。道はありますよ。森は論外でしょうが、邸周辺内であれば可能性はあります」
その点を不安の理由にすることはないと言われて、セナは頷いた。
「それから、セナが純粋な人間でないという点ですが、これは全く懸念には及びません」
そもそも、とガルは淀みなくその言葉を続けた。
「私自身が純粋な人間ではありませんから」
え?




