15 天使と聖獣
「……あ」
この天使が、シェーザの願いをことごとく退けていたという話を思い出した。
そして──ベアドから同じ話を聞いていた。その話を彼は最も側にいた天使から知った話であると伝聞調で語っていたのではないか?
「『気がつきましたか』」
少女が──天使が首を傾げる。
『グランディーナなのか』
ベアドがまたその名を呼ぶ。
「『そうですよ、私の愛しい獣。ベアド──ベアドルゥス』」
微笑む天使は、まるで謳うように肯定した。嬉しそうな声音が混ざっている。
一方で、聖獣は肯定にあることに気がつき目を瞠る。
『どうして、記憶が』
転生するはずであるという、この世界の理。
二千年前、全ての天使が死んだのであれば、今ベアドルゥスが肯定されたことはあるはずがないことだった。死んだらそこまで。その魂は巡り、次に会えたとしても記憶はないはずである。
微笑んでいた天使が、少しだけ表情を曇らせた。
「『魂が巡る前に、人間に呼び寄せられてしまったためです。召喚、と言うそうです』」
その言葉にベアドルゥスが口を開いたが、彼が何か言う前に、天使が元の通り微笑んだ。
「『ですが、あなたに会えるとはいいことがあるものですね』」
再度、ベアドルゥスは口を開きかけたが、今度は自分で閉じてしまう。
白い獣の様子は、『彼女』に声をかけられる度、その内容を聞く度、複雑さが増していくようだった。
セナはそんなベアドが少し心配になったが、宥めるべく触れることはできなかった。
「『人間の世界を守ってくれているようですね。ありがとうございます』」
『…………人間のためじゃない』
辛うじて、ぽつりとベアドが答えた。
彼らは、人間のために戦ってくれているわけではない。いつだって一番は天使だ。
天使が作り、遺された世界だから守っている。
『──どうして』
そう言った聖獣の声は微かに震えていた。
主語のない問いかけだったが、天使は何を問われたか分かったようだった。
彼女は答える。
「『あなたたちが死ぬ必要がなかったからです。白魔は私達を狙っていました。それなら、あなたたちが死ぬ必要はありませんでした』」
『ああいうときのために俺達はいる』
「『違いますよ。あなたたちは戦えるだけであって、戦う必要はないのです』」
今度は、獣は間髪入れず口を開いた。
『俺達はお前達のために存在していた! ──今も存在している……!』
ああ、そうか。
セナは、その前提を忘れていたかのようだった。
二千年、シェーザが失った存在があるように、ベアドもまた、二千年前失ったのだ。
聖獣にとっての存在理由である、天使を失った。
シェーザが二千年間失ったときの感情を忘れず褪せさせていなかったように、ベアドも二千年抱き続けている感情があるに違いない。
彼は、今戦っているから。
シェーザと違った点は、記憶のある存在と出会ったことだろうか。
悲痛なまでの響きの声に、天使が目を細めた。
彼女が一歩、二歩、歩き、そのまま流れるようにベアドを抱き締めた。
少女の細い腕と頬がふわふわの毛並みに埋まる。
抱き締められた獣の、美しい色合いの瞳が震える。
「『知っていますよ、あなたたちの思いは。昔も、今も』」
天使が獣を優しく撫でる。
「『ごめんなさい。辛い思いをさせたことでしょう』」
『……謝るくらいならするな。知っていても、意味がない』
その思いが叶えられなければ意味がないと、獣は呟いた。
「『そういうものです。あなたたちが私達を大切に思ってくれているように、私達もあなたたちが大切です。愛しています』」
だから。
「『次、また共に生きましょうベアド』」
彼女は一つの約束を口にする。
「『今度こそ私に記憶はないでしょうが、また、私達の楽園で共に時間を過ごしましょう。次はより強固な壁を作ります。二度と繰り返さないように、何も失わないように』」
天使が獣の毛並みから顔を離し、ベアドを真正面から見た。
「『天界に天使が戻ったとき、また皆で過ごしましょう』」
ベアドもまた真っ直ぐ天使を見つめ返して、しばらくして何も返答することなく、黙って俯いた。
天使は微かに困ったように微笑み、そんなベアドを撫で、手を離した。
「『来てくれて、ありがとうございます』」
「あなたがわたしに会いたいって言ったの?」
ベアドの方を気にしつつ、セナは尋ねた。
ガルが、そんなことを言ったはずだ。
「『そうです。還る前にあなたにもう一度会っておきたかったのです』」
「かえる……?」
とは。
「彼女を還すことになりました」
補足したのはガルだった。
人間の中に入っている天使を還す。自由にする。
「教会の決定です。天使を還すことが、天使が少しでも早く天界に戻ることに繋がることは間違いありませんから。今は阻害している状態です。そのために、メリアーズ家が作り出した天使召喚陣と呼ぶべきものの解析を私がしています。それもあって、彼女をここに呼ぶことができました」
そうでなければ、今の状況では罪に問われかねないとガルは言う。
「還せるの?」
「還せます」
ガルは断言した。
「今日明日というわけにはいきませんが、一年もかからないでしょう。セナに会いに来てもらうタイミングとしては今が最適であり、正確な時期が分からない限り今しかなかったのです」
そんなに早く。
セナはびっくりして、「でも」と言う。
「喚ぶのにかかってた時間って、一年二年じゃないよね」
メリアーズ家が天使召喚を試みていた期間は一年二年ではないのではないか。
そんなに短期間で還せるのか。
「天使召還陣は聖獣の召喚陣が元にされています。喚ぶべき存在は両方天界からです。しかしそのままでは上手くいかず、時間かかかったのはこの世にまだ存在する前のものを喚ぼうとしていたからだと思われます。還すだけならば比較的簡単です。ここに喚ばれたものがあるのですから」
そういうものなのか。
聖獣の召喚陣の模様の意味も仕組みもよく分かっていないセナは、ガルが言うのならそうなのだろうとしか納得できない。
「契約以降の人間世界への繋ぎ止め方が異なるため、聖獣が契約がなくなれば天界に強制送還されるようにとはいかないでしょうが」
ガルが、天使に視線を向ける。
「何より彼女が還ることを望んでいるので、天使の協力があれば十分可能だと考えられます」
セナも天使を見ると、彼女は頷いた。
「『この子に出来るだけ負担がかからないように還ります』」
器となっている人間の少女だ。
今、彼女の体の中には、体の持ち主である彼女自身の人間の魂と、魂一つ分の天使の魂の欠片が入っている。
「『私の同胞』」
そんな風に呼びかけられたのはセナだ。
天使が一歩、近づく。
「『最後に、あなたにまた会っておきたかったのです。この子をあの場所から連れ出してくれてありがとうございます。私達を解放してくれてありがとうございます』」
「それをしたのは、わたしじゃないよ」
セナがお礼を言われることではない。セナは首を横に振った。
「あなたはこれからどうなるの?」
還ることは分かった。
それなら、還ったあと、どうなるのか。
「『また生まれます。ずーっと先に天界に、新たな天使として』」
ずーっと先。
最低でも二千年も生きている白魔は元天使だ。
天使がそのような時間を生きるとして、果たして人間と同じ感覚を持っているだろうか。
その『ずーっと先』は、どれくらい先なのだろう。
人間に見える範囲の先だろうか。
「『あなたともいずれ、天界で』」
天使の言葉に考えていたセナは、新たにかけられた言葉に瞬く。
あなた、とはセナで。でも、天界でという言葉はあまりに馴染みがなかった。
目の前の天使が、セナに手を伸ばす。
「『あなたは今、人間世界の存在です。私達とは異なり、その体に魂が馴染んでいます。これからあなたは人間として少し生きなければいけません』」
「うん」
「『いつかまた天界で再会する日が来るでしょうが、まずは今の生に幸福がありますように』」
慈しむ手付きで、天使はセナの頬を撫でた。
「ありがとう。あなたも、次の生で聖獣たちと幸せに暮らせますように」
これは、今のセナには天使よりも聖獣と長く過ごした記憶があるから、どちらかと言えば聖獣を思って出た言葉だった。
どこまでも天使を思う彼らを知っている。
天使がいなくなり、その面影を思い、人間世界を守っているくらいだ。
「それから、天界に戻ったらこの世界のこともできればお願い」
今、彼女に頼んだって、彼女の記憶は消えてしまうとは分かっていたけれど。
「『もちろんです』」
それでも彼女は頷いてくれた。
「『必ず、人間世界に楽園を戻すと約束します』」
それがいつになるかは分からない。
だけれど、聖獣さえ白魔に敵わず、聖剣でも敵わないのなら、人間は天使がかつての安全を戻してくれるまで戦い続けなければならないだろうから待つしかない。
「『だから、あなたはどうか戦わないでください』」
「え?」
何がだからなのか、セナは思わず聞き返した。
「『私は二度、あなたに剣を渡しました』」
天使は、セナの目をしっかりと見ていた。
その視線に、既視感のようなものを覚えた。
「『一度目は天界で、二度目は人間世界でです。二度目はこの体に宿る他の魂の総意でしたが、私も容認しました』」
二度目は心当たりがあったが、その一度目はセナは知らない。しかし天使は確かにセナを見て言った。
「『彼にあなたの現在を聞きました』」
彼と示されたのはガルだ。
「『人間世界に精霊の楽園が残っているそうですね。そこで暮らしなさい、【 】』」
最後、何て?
また既視感のよう──いいや、この聞き取れなさを知っている。シェーザの名前を聞き取れなかったときに似ている。
「グランディーナ」
セナは彼女の目を見て、呼んだ。
「わたしはセナだよ」
彼女は、シェーザに見たような視線をしている。
セナを通して、ここにいるセナではない存在を見ている。
「わたしがあなたの知っている天使の魂を持っていたとしても、今のわたしは限りなく人間に近いと思う。人間としての意識しかないから。その一度目をわたしは知らないし、わたしに楽園から出ないようにって言うならそれはしないよ」
シェーザにも同じ種類のことを言った。
自分はあなたが知っている存在とは別の存在だ。それを受け入れてなお、同じように言うなら自分も考えて自分の答えを返そう。
『問題ない。人間世界の最後の楽園で暮らさなくても、戦わせることはさせない』
ベアドの声だった。
見ればベアドは顔を上げていた。
その断言に、天使が目を丸くてから微笑む。
「『ではベアド、私の愛する同胞を守ってくれますか』」
セナを。
『ああ』
揺るぎない返事だった。
『ああ、今度こそ』
力強い返答に、天使がこの上なく微笑む。
『だから安心して還れよ』
セナは驚いた。
いいのかも何もないけれど、ベアドが還れよとすんなり言ったことに。
ベアドルゥスは受け入れたのだ。
「『ええ。また会いましょう、ベアド』」
いや、ベアドはどうしようもないことだと無理矢理飲み込んだだけかもしれない。
ベアドルゥスという聖獣は悲しいほどに、事実を理解している。彼女に「また」会えることはないと分かっている。
『じゃあな、グランディーナ』
ゆえに聖獣は、また、ではなく、じゃあな、と言った。
それに対して天使──グランディーナも。
「『さようなら、ベアドルゥス』」
それは、二千年前交わされることのなかった別れの挨拶だった。
「『無理は駄目ですよ』」
『お前こそ』
「『ええ』」
『嘘つけ』
「『私は嘘をつきません』」
ベアドはやれやれという風に頭を振り、
『無理の認識が違うんだから困るよなぁ』
苦笑した。




