127. その手を引いて、二人だけの場所へ
鏡の中のチェリーが、慣れた手つきでコルセットの紐を引いていく。
きゅっ、と生地が締まる感覚があるが、決して息苦しくはない。
身体のラインを整えつつも、サクラが不快にならない絶妙な力加減だ。
「サクラ様、苦しくないですか?」
「ええ、大丈夫よ。いつもありがとう、チェリー」
毎日必ず、丁寧に確認してくれるチェリーの優しさに、サクラは鏡越しに微笑みかけた。
チェリーは嬉しそうに目を細めると、コルセットの紐の最後をリボンに結びながら口を開く。
「本日のサクラ様のご予定ですが――」
いつも、朝支度は予定の確認の時間を兼ねている。
チェリーの頭には、その日のサクラの予定が分刻みで全て叩き込まれているのだ。
「午前中は、キウイさんとご一緒なのですよね」
チェリーが視線を送ると、隣でルリの着替えを手伝っているキウイが、手は止めずに視線だけをサクラに向け、言葉を継いだ。
「はい、サクラ様は私と共に定例の魔力精度測定のご予定でした。……ですが」
キウイはそこで一旦言葉を区切り、サクラの全身――正確には、その中にある魔力の残量を見定めるように目を細めた。
そして、研究者が観察結果を読み上げるような、淡々とした口調で告げる。
「今朝の『魔力譲渡』で、サクラ様の魔力はすっからかんですね。これでは測定は不可能です」
「あ……」
指摘されて、サクラはぽっかりと空になった自分の体内を意識した。
同時に、その原因となった今朝の熱い口づけを思い出して、かあっと頬が熱を帯びる。
「ご、ごめんなさい、すっかり忘れていて……。少し時間が経ったら、多少は魔力が回復するとは思うんだけど……」
サクラは申し訳なさそうにそう言ったが、キウイは冷静な顔のまま首を横に振った。
「魔力が少ない状態だと魔法の精度が落ちてしまうので、測定に適した状態ではないですね。絶対に今日行わないといけないものではないので、問題ありませんよ。測定は後日に回しましょう」
「そうよね……申し訳ないけれど、それでお願いするわ」
キウイの配慮に感謝しつつ、サクラはほっと息をついた。
そしてチェリーに促されるままに、ドレスに袖を通す。
今日のドレスは、まるで元気に花開くガーベラのような、鮮やかな橙色のドレスだった。
ふと隣を見れば、ルリは、太陽に向かって咲き誇る向日葵のような黄色のドレスを着せてもらっている。
――きっと、昨夜のルリの魔力制御の苦戦を見越して、少しでも気分が晴れるようにと、この明るい色を選んでくれたのだろう。
厳しいことを言いながらも、誰よりもルリを気にかけてくれているメイドたちの優しさに、サクラの胸の奥がじわりと温かくなった。
衣擦れの音を聞きながら、サクラはその後の予定の確認を終えた。
会話が一段落したのを見計らって、隣で身支度を終わらせたルリがひょこりと顔を出した。
「キウイ、きょうはわたしは何をするの?」
「ルリ様は特別なご予定はありませんよ。サクラ様の午前中のご予定も空きましたし、お二人で過ごされてはいかがですか」
それを聞いて、ルリがぱあっと顔を輝かせた。
子犬のように尻尾が見えそうな勢いで、サクラの手を握りしめる。
「ねぇ、サクラ! どうしようか? 街でデートする?」
「んー……そうねえ」
はしゃぐルリを見つめながら、サクラは少し考え込むように首を傾げた。
ふと、視界の端にベッドの上が映る。
そこには、少し形が崩れてしまった人形が、丁寧に寝かされていた。
――昨晩、あの人形を抱きしめて、必死に衝動を我慢していたルリ。
人形の「怪我」は、あとでチェリーが綺麗に治してくれるだろう。
けれど、ルリの心はどうだろうか。
今朝のやり取りで笑顔は戻ったけれど、どこまでも純粋でまっすぐなルリのことだ。
またいつか、サクラのためにと無茶をしてしまうかもしれない。
(ルリと、ゆっくり話をしたいわ……)
城下町のような、賑やかで楽しい場所に行くのも心躍るけれど、今は違う。
誰の目も気にせず、心も身体も解放して、ただ二人だけで心通わせられる場所。
サクラの中で、一つの回答がふわりと思い浮かんだ。
サクラはルリの手を握り返すと、愛おしそうに目を細めた。
「城下町もいいけれど……私、久しぶりに……ルリと行きたいところがあるの」
「えっ? どこかな?」
「それはね――」
サクラがその場所の名前を口にすると、ルリは驚いたように目を見開き、すぐに満面の笑みを咲かせた。
「わあ、それ、すっごく素敵!」
「じゃあ、ルリ……お願いね」
朝食を終え、部屋に戻ってきたサクラとルリは、部屋の一角にある水場の前に立っていた。
海水に満ちたその場所で、見送りのチェリーとキウイが、一歩下がって二人を見守っている。
サクラの言葉に呼応するように、ルリはサクラの両手を優しく包み込んだ。
「ふふ……まかせて!」
ルリが目を閉じると、ふわりと温かい魔力に満たされる。
次の瞬間、二人は眩い光に包まれ、サクラの視界はカッと白く染まった。
あまりの眩しさに、サクラは反射的にぎゅっと瞼を閉じる。
光の中で、不思議な浮遊感をサクラは感じた。
重力から解き放たれるような感覚と同時に、全身をくすぐったいような温もりが駆け巡る。
着ていたドレスの長い裾がふわりと短くなり、肌に吸い付くような水着の感触へと変わっていくのがわかった。
そして、二本の脚が熱に溶かされ、一つの形状へと混ざり合っていく――。
やがて、瞼の裏の明滅が収まるのを感じて、サクラはゆっくりと目を開けた。
「サクラっ! どうかな?」
目の前で太陽のように輝く笑顔がサクラを覗き込んでいる。
それは、小さい頃から慣れ親しんだ――ただ、最近ではあまり見ていなかった、人魚の姿のルリだった。
「ふふ……いい気分よ。ありがとう、ルリ」
サクラは自分の身体を見下ろして、人魚になった姿を確かめると、感嘆の息を漏らした。
さっきまで着ていたガーベラ色のドレスは、その鮮やかな橙色を残したまま、ひらひらとした愛らしいドレス風の水着に変わっている。
そしてその下には、光を浴びてきらきらと輝く、淡く美しい珊瑚色の尾びれが伸びていた。
隣のルリは、向日葵色の水着に、深い海の底のような神秘的な藍色の尾びれを揺らしている。
久しぶりの尾びれの感覚を確かめるように、サクラはぱたぱたと尾びれを動かした。
「ふむ……何度見ても惚れ惚れする変身魔法でございます、ルリ様」
キウイが感心するように、うっとりと溜め息をこぼしながら頷く。
「海……久しぶりね。『人魚の里』に行った時以来かしら」
「わたしは、たまに一人でおよいでたんだけど……サクラ、いそがしかったもんね〜」
ルリに誘われて、水場の中へと滑り込む。
水に入った瞬間、身体が羽根のように軽くなった。
身体を包み込むひやりとした感覚が心地よい。
「じゃあ、行ってくるわね。昼食までには戻るわ」
「いってくるね〜! おみおくり、ありがと!」
サクラとルリがメイドたちに声をかけると、二人は深々と一礼をした。
「いってらっしゃいませ、サクラ様、ルリ様」
「お気をつけて……楽しんできてください」
チェリーとキウイの声に背を押されるように、サクラはルリに続いて、とぷんと水の中に潜り込んだ。
久しぶりの、人魚として泳ぐ海の感触。
二人は海へと続く狭い水路を、出口に向かって一気に加速していった。
気を抜くと「人魚」要素がなくなることで定評のある「人魚と姫」です……。
久々に、海デートに行きます!




