092. 針と糸が紡いだ優しさ
ぷす、しゅう。
チェリーが持つ柔らかな珊瑚色の布を、針と白い糸が通り抜けていく音が静かな部屋に響き渡る。
その音に、時折キウイが魔術書のページをめくる乾いた音が混ざり合う。それが二人にとって、心地のいい空間を作っていた。
引っ越したての新居のベッドの上で、二人は寄り添いながら、眠りの前の最後のくつろぎを得ていた。
キウイは触れ合った背中から感じるチェリーの確かな体温に、深い安らぎを覚えながら、魔術書を読み込んでいた。
「キウイさん……あの」
「なんですか、チェリーさん」
チェリーの遠慮するような声かけに、キウイが優しい声で応える。
「……ルリ様に、オニキス様から聞いたこと……お話ししないのですか」
オニキスから話を聞いて、数日が経過していた。
あれからキウイは、特に今までと態度を変えるでもなく、以前と同じようにルリに接している。
チェリーの言葉を受けて、キウイは読んでいる魔術書からの情報を遮断するように、目を閉じた。
「私からお話することはいたしません。確実で即座に実現可能な解決手段が提示できない以上、無理に話すことは混乱を招くだけと判断します。もちろんルリ様から何か聞かれたら、お答えするつもりではありますが」
淡々と述べるキウイの意見は、冷たいようでいて、考え抜いた末の苦渋の結論であった。
チェリーもそれを感じ取った様子で、ただ静かにキウイの言葉に耳を傾けた。
キウイはゆっくりと目を開けて、チェリーの作っているものを優しい眼差しで見つめた。
「事実をお伝えしなくても、できる限りの支援はいたしましょう。チェリーさんが作っているそれも……きっと、ルリ様のお役に立つ筈ですよ」
キウイの言葉に、チェリーは不安そうな声を出す。
「そうであれば、よいのですけれど……」
チェリーは布の端まで綺麗に縫えているのを念入りに確認すると、糸を留め、丁寧に縫い終わりの処理をする。
余った糸を糸切り鋏で、ちゃきり、と切ると、出来上がったものを改めて眺めた。
「気に入っていただけるでしょうか……」
「ふふ、とても可愛らしくできたじゃないですか」
キウイは読んでいた魔術書を脇机の上に置くと、チェリーの身体を包み込むように優しく抱きしめた。
「チェリーさんの優しさが詰まっているのですから、きっと気に入っていただける筈です。明日が楽しみですね。……さあ、今日はもう寝ましょうか」
チェリーがキウイの本の隣に、手に持っていたものをそっと並べる。
二人は、長いおやすみのキスを交わすと、温め合うように身を寄せて、互いの存在を確かめ合いながら、静かに眠りについた。
「おはようございます、サクラ様、ルリ様」
朝の挨拶をしながら入ってきたチェリーが持っているものに、ルリはすぐに気づいた。
「チェリー、それ、なあに?」
「ふふ、ルリ様へのプレゼントです。受け取ってください」
ベッドの端に腰掛けるルリに、チェリーが手に持っていたものを手渡す。
それは、珊瑚色のドレスを着た愛らしい人形だった。
薄紅色の毛糸の長い髪は、腰まで届くほど長く、ふわふわと柔らかい。
髪の毛と同じ色の小さなボタンの瞳は、宝石のようにきらめいていた。
ルリはそのとても見覚えのある姿に、惹き込まれていった。
「これ……もしかして、サクラ……?」
「そうです。本物には敵いませんけど、なかなか可愛らしく作れたと思うんです。いかがでしょうか」
「とってもかわいいよー! ありがとう、チェリー!」
ルリはサクラの人形をぎゅっと抱きしめると、太陽のように顔を輝かせて笑った。
「わたしのだいすきなサクラが、ふたりになっちゃった! ふふっ」
「なんだか……恥ずかしいわね。でも、とっても可愛いと思うわ。チェリー、どうしてこれを?」
サクラが尋ねると、チェリーはふわりと微笑んで答えた。
「寝る前にキウイさんが魔術書を読んでいる時間に隣でできる、何か手慰みの趣味が欲しいと思いまして……お裁縫を始めてみたのです」
チェリーの言葉に、キウイがばつが悪そうに頬を掻く。
「チェリーさんをお暇にさせてしまって申し訳ないのですが、魔術書を読むのは宮廷魔術師としてのお仕事の一環でもありますので、やめることもできず……お仕事と円満な家庭の両立は難しいですね」
「そこに不満はありませんよ。ただ、一緒にいる時間を有意義に使いたいと思っただけです」
顔を見合わせて微笑み合う二人に、サクラは優しく目を細めた。
チェリーは改まってルリの方を向いて、優しい声で告げる。
「ルリ様……私、この人形のサクラ様なら、いくらお怪我をしても『治療』してあげられます。いつでも、すぐに治します。この子なら、ルリ様のどんな情熱的な愛でも、受け止めてくれますから……」
「あっ……」
ルリはすぐに、チェリーの言葉に込められた痛いほどの優しさを察した。
――「情動」が抑えられなくなったら、本物のサクラ様を傷つける前に、この人形のサクラ様を壊れるほど愛してください。
ルリの「情動」を受け止める器として、何度でも「治せる」サクラの人形を作ってくれたのだと、ルリは締めつけられる胸の痛みとともに理解した。
「チェリー……ありがとうね」
ルリはそのサクラの人形を、壊れないように優しく抱きしめた。
「ねぇ……二人がオニキス母さまにわたしのこと……相談してくれたんでしょう? キウイのひっこしの日に……」
ルリが優しく問いかけるのに対して、キウイはルリの瞳をまっすぐに見つめ返し、ほんの一瞬の沈黙の後に、予め用意しておいた答えを口にした。
「……はい、オニキス様がルリ様のことを案じていらっしゃったので、ルリ様の気を穏やかに保つヒントがないかと相談いたしました。これは全て私の判断です。チェリーさんは何も悪くありません」
キウイがチェリーを庇うように言うのに、ルリは首を横に振った。
「ううん、キウイも悪いことはなにもしてないよ……きっとわたしだと、うまく話せなかったから、キウイが話してくれてよかった。ありがとう……」
ルリはそう言うと、目を閉じて、チェリーからもらった人形をぎゅっと抱きしめた。
人形から力をもらうように、しばらくそうした後、決意を込めるように顔を上げて、キウイの方を見つめた。
「ねぇ、キウイ。わたし、どうやったら、サクラをまもれる? わたしになにがおこってるか……おしえて」
そのルリの真剣な目線を、キウイは真正面から受け止めた。
サクラがルリの手をぎゅっと握りしめるのを確認すると、キウイは、ゆっくりと、優しく話し始めた。
「……オニキス様は……ルリ様が激しくサクラ様のことを欲してしまう『情動』の正体は、人魚のルーツであるセイレーンの衝動であるとおっしゃっていました。セイレーンは、愛する者を我が物にしてしまうことで有名な魔物です」
キウイは、二人の不安を取り除くように、言葉を続けた。
「ですが、恐れることはありません。セイレーンの本能は、愛している人を『支配』し、『独占』したくなるという、純粋な愛情の裏返しです。 ……ルリ様がサクラ様を深く愛している、ただそれだけの証なのです」
キウイの言葉にルリは、衝動のままにサクラを激しく愛してしまったあの夜の、確かに胸の中に感じた背徳的な悦びの正体を理解した。
「何か……私たちにできることはあるのかしら」
サクラの問いかけに、キウイは力強く頷いた。
「オニキス様は、セイレーンの『情動』は、『理性』で制御できるとおっしゃっていました。 ……ルリ様が今、私と行っている『魔力制御訓練』こそが、その『理性』を鍛える最善の道なのです」
キウイは優しく微笑んで続けた。
「私たちは、ルリ様とサクラ様の幸せな未来のために、全力で支援いたしますから」
キウイの力強い言葉に、ルリは心の中の霧が晴れていくのを感じた。
「うん……ありがとう、キウイ……それに、チェリーも。じぶんのことが知れてよかった。わたし……練習、いっぱいがんばるよ」
サクラに握られた手を強くぎゅっと握り返すと、ルリもまた、前を向いて、しっかりと頷いたのだった。




