第96話
その神の御神託は、またしても唐突に、そして一方的に下された。
官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室。橘紗英の端末に表示された賢者からのメール。その文面は、もはや様式美とも言うべき簡潔さと、無慈悲なまでの要求に満ちていた。
『――やあ。一ヶ月ぶりだな。そろそろ在庫が切れてきた。つきましては、下記リストの品を明日までに、いつもの場所に用意しておくように。あと、ついでに面白い菓子もよろしく』
その下に続くのは、スイス製の最高級機械式腕時計、南極の氷、そしてなぜか群馬県産の最高級こんにゃく芋といった、相も変わらず脈絡のない「お買い物リスト」だった。
翌日、昼過ぎ。
ヘリポートは、もはや神を迎えるための完璧な神殿として、その様相を一新していた。
純白の狩衣に身を包んだ宰善茂総理、橘紗英、そして綾小路俊輔官房長官。彼らの顔には、もはや当初の緊張や恐怖はなかった。そこにあるのは、神の気まぐれという名の天災に、もはや慣れっこになってしまったベテランの防災担当者のような、どこか開き直った静かな覚悟だけだった。
やがて空間が揺らぎ、賢者・猫が姿を現した。
「うむ。ご苦労」
賢者は、そのあまりにも手慣れた歓迎の設えを一瞥すると、まるで近所の定食屋にでも入るかのような気軽さで、祭壇の前にちょこんと座った。
献上品が次々と彼の前に供えられる。彼は、その一つ一つを、まるでデパートの物産展を冷やかすかのように眺めると、満足げに頷き、その全てを次元ポケットへと吸い込んでいった。
「……うむ、うむ。……結構、結構。……こんにゃくの質も上々じゃな。……これでまた新しい商売が始められるわい」
そのあまりにも不穏な呟きを、日本のトップたちは聞き流した。もはや、彼の気まぐれなビジネスの余波に一喜一憂することにも、彼らは疲れ果てていた。
そして賢者は、まるで今思い出したかのように言った。
その声は、どこまでも軽く、そしてどこまでも世界の理からかけ離れていた。
「……ああ、そうだ。……お主たち、いつまでもワシの玩具の解析ばかりしておるようじゃが、それでは埒があかぬ。……故に、そろそろ魔法を教えても良いかのうと、思ったのじゃ」
「…………………………………………は?」
その場にいた全員の時間が止まった。
宰善総理も、橘も、綾小路も、そしてガラス張りのモニタリングルームでその様子を見守っていた長谷川教授でさえも、その口をあんぐりと開けたまま、完全に凍り付いていた。
ま、魔法?
今、この神は、魔法と仰せられたか?
「うむ。……まあ、そう驚くな。……基本的なことは、この教本に書いてあるぞい」
賢者はこともなげに、次元ポケットから一冊の本を取り出した。
それは、神々しい装飾が施された古の魔導書などではなかった。
それは、どこにでもある大学の生協で売られているような、安っぽい青いビニールの表紙がついた、螺旋状のリングで綴じられただけの、何の変哲もないノートブックだった。
表紙には、マジックペンで走り書きのような文字が書かれている。
『サルでもわかる! 魔法入門(著:賢者・猫)』
そのあまりにも軽く、そしてあまりにも冒涜的な神の贈り物。橘が、震える手でそれを受け取る。
「おお……! ま、魔法ですか……!」
モニタリングルームで、長谷川教授が感極まったようにその場にひざまずき、嗚咽を漏らしているのが見えた。
「……我々人類が、ついにその禁断の叡智を……! ビューティーふぉー! ビューティーふぉー!」
「うむ。魔法は覚えると便利じゃぞ」
賢者は、その熱狂ぶりを、どこか楽しげに眺めていた。
「……まあ、もっとも、これはあくまで『基礎』じゃがな。……そして、魔法というものは本人の資質によるのでな。……この世界の人間が、どこまで出来るかは未知数じゃな。……まあ、せいぜい頑張るがよい」
彼はそこで、大きなあくびを一つした。
「……ではな」
彼はそう言い残すと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、神の不在の静寂と、一冊のあまりにも安っぽい教科書、そして、そのあまりにも巨大すぎる意味を前にして完全に思考を停止させた、日本のトップエリートたちだけだった。
彼らはもはや、自分たちの矮小さを改めて思い知らされることしかできなかった。
やがてその静寂を破ったのは、宰善総理の震える、しかし力強い声だった。
「…………魔法の勉強かよ……! 今度は……!」
彼は顔を上げた。その目には、新たな、そしてこれまでにないほどに危険な国家プロジェクトの始まりを前にした、指導者の覚悟の光が宿っていた。
「……よし! ……直ちにだ! ……直ちに、サイト・アスカに最高機密の新たな研究部門を創設せよ! ……我が国の全ての叡智を結集し、この神の教科書を解読し、そして魔法の習得を目指すのだ! ……これは、もはやキマイラ計画を超える最優先事項である!」
◇
その日から、サイト・アスカの地下深く、新たに『セクター・グリモワール』と名付けられた区画は、日本の歴史上、最も奇妙で、そして最も困難な挑戦の舞台となった。
そこに集められたのは、もはや科学者だけではなかった。
脳神経科学の権威、量子物理学の天才、そしてもちろん長谷川教授。それに加えて、深層心理学の専門家、催眠療法の第一人者、果ては高名な禅寺の僧侶や修験道の山伏までもが、国家の密命の下に極秘裏に召集された。
彼らの前に置かれたのは、たった一冊の、あの安っぽい教科書だった。だが、そのページをめくった瞬間、彼らは、そのあまりにも簡潔で、しかしあまりにも深遠な内容に、言葉を失った。
第一章:『はじめに ~常識を捨てないと死ぬよ?~』
『やあ、諸君。魔法の世界へようこそ。まず、最初に言っておくが、君たちがこれまで信じてきた物理法則とか、科学的常識とか、そういう面倒なものは、今すぐ頭の中から全部捨ててくれたまえ。そんなものを信じている限り、君たちは一生、火の玉一つ出すこともできずに終わるだろう。いいかね? 魔法とは、そういうものだ』
第二章:『魔法の正体 ~いわゆる因果律改変能力ってやつ~』
『では、魔法とは一体何か? 難しい言葉で言えば、それは『意思の力で因果律を改変する能力』ということになる。分かるかな? 分からないだろうな。まあ、簡単に言えば、世界のソースコードを直接いじるチート行為だと思えばいい。火が欲しいと願えば火が生まれる。そこに、発火点だの、可燃物だのという面倒な『原因』は必要ない。君たちの『意思』そのものが、新たな『原因』となるのだ。……まあ、この辺は、習うより慣れろだ』
第三章:『最初の第一歩 ~思い込みこそが最強の魔法~』
『では、どうすれば魔法が使えるようになるのか? 答えは簡単だ。「魔法を使える」と、心の底から本気で、1ミリの疑いもなく思い込むこと。ただ、それだけだ。君たちの脳が「俺は魔法が使える!」と完全に世界を騙し切った時、世界の方が根負けして、君たちのその妄想を「現実」として認めてくれるようになる。……まあ、これが一番難しいんだがな。健闘を祈る』
そのあまりにも非科学的で、そしてどこまでも精神論的な教え。科学者たちは、頭を抱えた。
「……分からん! ……全く分からん!」
長谷川が、髪を掻きむしった。
「……意思の力だと? 思い込みだと? ……そんな非論理的なものが、どうやって物理法則を捻じ曲げるというのだ! ……賢者様! もっと数式で! 数式でご説明を!」
だが、教科書は、それ以上何も語ってはくれなかった。
実験は困難を極めた。
被験者として選ばれたのは、自衛隊の特殊作戦群の中から、さらに精神力と集中力のテストをクリアした超エリートの隊員たちだった。
だが、彼らであればあるほど、その現実的で訓練された精神が、この荒唐無稽な「思い込み」の壁を突破することを、頑なに拒んだ。
「……無理です! ……『光よ出ろ』と念じても……! ……私の理性が、『そんなことはありえない』と囁きかけてくるのです……!」
一週間が過ぎた。
プロジェクトは完全に暗礁に乗り上げていた。司令室には、絶望的な空気が漂い始めていた。
「……やはり無理だったのか……」
宰善総理が、がっくりと肩を落とした。
「……賢者様は、我々には資質がないと、そう仰せられていたのかもしれんな……」
だが、奇跡は、最も誰もが諦めかけたその瞬間に起こった。
セクター・グリモワールの最も隅の実験室。そこでは、被験者たちの脳波や生体データをモニタリングするだけの地味な役割を与えられていた一人の若い女性研究員、佐倉が、退屈しのぎに教科書の最初の実習課題を試していた。
彼女は科学者ではあったが、同時に、幼い頃からファンタジー小説や魔法少女アニメをこよなく愛する、夢見がちなオタクでもあった。
彼女にとって、この教科書の内容は、非科学的な戯言などではなかった。それは、長年夢見てきた魔法の世界への招待状、そのものだった。
(……光よ出ろ……)
彼女は祈った。
(……私だって、本当は魔法少女になりたかったんだから……! なれるはずなんだから……!)
そのあまりにも純粋で、そしてどこまでも個人的な願い。その彼女の指先に、ぽつりと。
まるで闇夜に生まれた最初の星のように、小さな、しかし確かな光の点が灯った。
「…………………………………………あ」
彼女は、自分の指先を見つめたまま、完全に凍り付いていた。
そして、次の瞬間、彼女の口から漏れ出したのは、科学者としての冷静な報告ではなく、一人の少女としての魂からの歓喜の叫びだった。
「………………きゃあああああああああっ! ひ、光った! 光りました! 私の指が、光りましたあああああっ!!!!」
その一言が、全てを変えた。
彼女の成功は、このプロジェクトを覆っていた絶望の霧を、一瞬にして吹き飛ばした。
『――可能だ』
その事実が、他の被験者たちの心の最後の枷を外した。
一人、また一人と、彼らの指先に光が灯り始める。そして、一度その感覚を掴んでしまえば、その先は驚くほどに早かった。
教科書に記された、次なる魔法。
『――鍵開け(アンロック)』(難易度D)
『――修復』(難易度D)
『――浮遊』(難易度C)
『――身体強化』(難易度C)
被験者たちは、まるで水を得た魚のように、次々と新たな魔法を習得していった。
厳重に施錠されたサイトアスカの金庫の扉が、触れることなく開け放たれる。
長谷川教授が興奮のあまり割ってしまった高価なビーカーが、一瞬にして元の姿へと戻る。
研究室の中を、ホッチキスやコーヒーカップが楽しげに飛び交い始める。
そして、訓練場では、自衛隊員が百メートルを三秒台で走り、巨大なコンクリートブロックを指一本で持ち上げてみせた。
セクターグリモワールは、もはや研究施設ではなかった。それは、魔法という新たな玩具を手に入れた子供たちの、巨大な、そしてどこまでも混沌とした遊び場と化していた。
「うおおおおおおっ! 凄いですね! 魔法を使えるとは……!」
モニタリングルームで、宰善総理が子供のようにはしゃいでいる。
「……これさえあれば、我が国の諜報能力も防衛力も飛躍的に向上する……! 素晴らしい! 素晴らしいぞ!」
その熱狂のただ中で。一人だけ、官房長官の綾小路俊輔が、その蛇のような顔に、深い、深い疲労の色を浮かべ、頭を抱えていた。
彼の視線の先にあるのは、魔法の輝きではなかった。山のように積み上げられた、これから起草しなければならない新たな法案の束だった。
『超常能力の保有及び使用に関する基本法案』
『魔法を用いた器物損壊罪及び傷害罪に関する刑法改正案』
『魔法による知的財産権の侵害に関する特別措置法』
「………………でも、魔法を使えるのは良いけど、法整備しないと行けないですね……!」
彼のそのあまりにも現実的で、そしてどこまでも憂鬱な呟きに。隣にいた橘紗英が、静かに、しかし心の底からの同意を込めて頷いた。
「………………あー…………それは、そう……」
神がもたらした新たな光は、彼らに無限の可能性を示すと同時に、無限の、そしてどこまでも面倒くさい宿題を突きつけていた。
日本の官僚たちの終わりなき戦いは、まだ始まったばかりだった。




