第95話
ゲオルグはアルトリウス王に、シュトライヒ宰相ヴァルハイト公爵同席のもと怪我治癒ポーションとジェムの拡張性を報告した。
「……もし、その話が真実であるならば……これは我が国の歴史における、最大の転換点となります。……ですが同時に、最大の危機ともなりえます。……この『奇跡』を、我々はいかにして扱うべきか。……慎重に、そして早急に、判断を下さねばなりませぬ」
「うむ。……シュトライヒよ、そなたの考えを聞かせよ」
「はっ」
宰相は一歩前に進み出た。
「……まず第一に、このポーションの真偽と、その効能の限界を、我々自身の手で徹底的に検証する必要がございます。……いかに魔法使い様の御言葉とはいえ、それを鵜呑みにし、国家の根幹に関わる判断を下すのは、あまりにも危険すぎます」
その、あまりにも冷静で、そしてどこまでも現実的な進言に、王は深く頷いた。
「……うむ。最もだ。……では、どうやって検証する? まさか罪人にでも飲ませてみると言うのか?」
「いえ、陛下。そのような非人道的な手段は、我が国の品位を貶めるもの。……幸い、この王都には、あるいはこの国には、長年の病や不慮の事故による癒えぬ傷に苦しんでおられる貴族の方々も、少なからずおられます。……彼らの中から被験者を選定し、その同意を得た上で、この奇跡の検証にご協力いただくのが、最も穏便かつ確実かと存じます。……ただし」
宰相はそこで一度言葉を切った。
「……病というものは、特に貴族社会においては、自らの弱みとして固く秘匿したがるもの。……その調査には、細心の注意と、そしてある程度の時間が必要となります」
「……なるほどな。……分かった。シュトライヒよ、その調査、そなたに一任する。……極秘裏に、そして迅速に進めよ。……ヴァルハイト公、そなたは宰相に協力し、必要な人員と警備を提供せよ」
「「はっ!」」
二人の重鎮が、深々と頭を下げた。
「……して、ゲオルグよ」
王は再び商人に向き直った。
「……その箱の中には、百人分ほどのポーションが入っておるとのこと。……検証のために使うのは、せいぜい数本であろう。……残りはどうすべきか。……そなたの考えを聞きたい」
その問いに、ゲオルグはしばし黙考した。そして彼は、商人としての、そして今やこの国の運命の一端を担う者としての、最善の答えを導き出した。
「……陛下。……恐れながら申し上げます。……このポーションは、あまりにも強大すぎます。……そして、その存在が公になれば、必ずや国内外に、計り知れない混乱と欲望の渦を巻き起こしましょう。……故に、検証に必要な数本を除き、残りの全ては、王家、陛下ご自身の厳重な管理下に置かれるべきかと存じます。……そして、その存在は、この場にいる我々四人だけの、絶対の秘密とすべきかと」
その、あまりにも慎重で、そしてどこまでも王家への忠誠心に満ちた進言。王は満足げに深く頷いた。
「……うむ。……そなたの言う通りだ、ゲオルグ。……ではそうしよう。……シュトライヒよ、王宮の地下宝物庫、その最も奥深くに、この二つの箱を封印せよ。……その封印を解くことができるのは、朕の勅命ただ一つとする」
「……御意」
宰相が、厳粛な面持ちで、その神の遺産を受け取った。
こうして、ポーションの存在とその検証は、国家の最高機密として、静かに、しかし確実に動き始めた。シュトライヒ宰相の情報網は、驚くべき速さでその任を果たした。
数日後、彼は王の御前に再び現れ、一人の人物の名を告げた。
「……陛下。……お一人のみ見つかりました。……エレオノーラ・フォン・ミュラー男爵夫人。……御年六十八歳。……五年ほど前、落馬事故により脊髄を損傷され、それ以来、胸から下が完全に麻痺し、寝たきりの生活を送っておられます。……国内の名医という名医が、全て匙を投げた絶望的な状態にございます。……そして何よりも、ミュラー男爵家は古くからの王家の忠臣であり、その口の堅さは折り紙付き。……政治的な影響力も小さく、この最初の実験の被験者としては最適かと存じます」
「……そうか。……ミュラー夫人か……」
王はその名を記憶していた。かつて宮廷の舞踏会で、その知性と美しさで華と謳われた貴婦人の姿を。
「……分かった。……シュトライヒよ、すぐに手配を。……ただし、決して強制はするな。……あくまで夫人の自由意志による同意を得るのだ。……そして、その検証の過程は、一切外部に漏れることのないよう、万全の体制を敷け」
◇
その数日後。王都の郊外に佇む、古いが手入れの行き届いたミュラー男爵家の屋敷。その一室は、異様なほどの静寂と緊張感に包まれていた。
ベッドの上には、エレオノーラ・フォン・ミュラー男爵夫人が、青白い顔で静かに横たわっていた。その瞳は、長年の闘病生活によって光を失いかけていたが、その奥にはまだ、かつての貴婦人としての誇りと知性の輝きが、微かに残っていた。
そのベッドを取り囲むのは、王宮から派遣された最高の医師団と、そして固唾をのんでその様子を見守る宰相シュトライヒ、そしてゲオルグ・ラングローブの姿だった。彼らの手元には、一つの小さな木箱。そしてその中には、穏やかな乳白色の液体が満たされた、たった一本の小瓶が、静かな輝きを放っていた。
「…………夫人」
王宮筆頭侍医が、震える声で語りかけた。「……これから陛下より賜りました、この奇跡の薬を、貴女様に投与いたします。……ですが、その効果については、我々にもまだ未知の部分が多い。……もしかしたら、何の効力もないやもしれません。……あるいは、予期せぬ副作用が……」
その医師の不安げな言葉を遮ったのは、夫人の、驚くほどにしっかりとした声だった。
「………………結構ですわ、先生」
彼女は静かに微笑んだ。その顔には、もはや死への恐怖はなかった。
「……この五年というもの、わたくしは、ただこの動かぬ肉体の牢獄の中で、天井の染みを数えるだけの毎日を送ってまいりました。……もしこの薬が、ほんの少しでも、わたくしに再び立ち上がる希望を与えてくれるというのなら。……わたくしは、喜んでこの身を捧げましょう。……そして、もしこの実験が成功し、同じように苦しむ他の誰かを救うことができるのであれば。……それこそ、この老いさらばえた身に与えられた、最後の、そして最高の名誉……」
その、あまりにも気高く、そしてどこまでも利他的な言葉。その場にいた全ての男たちが、その老婆の魂の美しさに、ただ頭を垂れることしかできなかった。
侍医は深呼吸を一つすると、震える手でその奇跡の小瓶を手に取った。そして、その乳白色の液体を、小さな銀の杯へと慎重に注いだ。彼は夫人の枕元に近づくと、その杯を彼女の唇へとゆっくりと運んだ。
「夫人、どうかこれを」
夫人は、侍医の目に宿る緊張と希望の色を読み取り、静かに頷いた。そして、その奇跡の液体を、一滴残らず、ゆっくりと飲み干した。ポーションが静かに、しかし確実に、彼女の体の中へと染み渡っていく。
時間は、止まったかのようだった。誰もが息を殺し、奇跡が起こるその瞬間を待った。数秒の、永遠のような沈黙。――そして、それは始まった。
最初に変化が現れたのは、夫人の顔色だった。これまで死人のように青白かったその肌が、内側から温かい光が灯ったかのように、みるみるうちに健康的な血の色を取り戻していく。深く刻み込まれていた苦悶の皺が和らぎ、その表情が、穏やかな眠りのそれへと変わっていく。
「…………おお……!」
誰かが、かすれた声を漏らした。次に変化は、彼女の手足に現れた。それまで力なくベッドの上に投げ出されていたはずの彼女の指先が、ぴくりと微かに動いたのだ。そして一度、また一度と、その動きは次第に大きく、そして確かなものへと変わっていく。彼女はゆっくりと自分の指を握りしめ、そして開いた。五年ぶりに、自らの意志で、自らの体を動かしたのだ。
「………………!」
夫人の目から、大粒の涙が溢れ出した。それは絶望の涙ではなかった。信じられないほどの奇跡を前にした、歓喜と感謝の涙だった。
医師たちが駆け寄る。「夫人! 分かりますか!?」「私の声が聞こえますか!?」
夫人は、ゆっくりと頷いた。そして彼女は言った。その声は、もはや死を待つだけの老人のそれではなく、生命の輝きを取り戻した女性の、力強い響きを持っていた。
「………………ええ。……ええ、聞こえますわ。……そして……」
彼女は、ベッドの脇に置かれていた水のグラスを指差した。
「…………少し喉が渇きましたわ。……お水を一杯、いただけますかしら?」
その、あまりにも平凡で、そしてあまりにも力強い一言。それが、この部屋に満ちていた重苦しい空気を、完全に打ち破った。医師たちが歓喜の声を上げる。シュトライヒ宰相とゲオルグ・ラングローブは、互いに顔を見合わせ、その目に深い安堵と、そしてそれ以上の畏敬の色を浮かべていた。――奇跡は起きたのだ。神の薬は本物だったのだ。
◇
数日後。王宮の執務室。アルトリウス王は、一枚の報告書を静かに読んでいた。それは、ミュラー男爵夫人のその後の経過を記した、王宮侍医からの詳細なレポートだった。
報告書によれば、夫人はポーション投与後、驚異的な速度で回復を続けているという。麻痺していた下半身の感覚は完全に戻り、今では侍女の助けを借りながらではあるが、自らの足で庭を散歩できるまでに回復した。食欲も旺盛で、その顔色は日に日に若々しさを増しているようにさえ見える、と。副作用は一切なし。完璧な治癒。
「…………うむ」
王は報告書を静かに置いた。
「…………疑う気持ちは一片も無かったがな。……やはり本物か」
彼は窓の外に広がる王都の風景を見つめた。そして、彼は改めて、あの魔法使いが置いていった言葉の意味を噛み締めていた。『何かあった時の保険みたいな物ですよ』――そうだ。これは保険なのだ。死という絶対的な運命に対する、唯一の、そして究極の保険。
王の心の中に、一つの深い安堵感が広がった。これで、この国の未来を担う優秀な頭脳たちを、病や不慮の事故から守ることができる。鉄血公のような老将にも、宰相のような知恵袋にも、そして何よりも、この自分自身にも、まだ為すべきことがある限り、その命の灯火を繋ぎ止めることができる。その事実は、彼の肩にのしかかっていた重圧を、少しだけ軽くした。
だが同時に、彼の心の中には、新たな、そしてより重い責任感が生まれていた。この、あまりにも強大すぎる奇跡を、決して乱用してはならない。これを、特権階級だけの延命の道具としてはならない。この力は、真にこの国の未来のために、そして真に救われるべき命のためにこそ、使われねばならないのだ。――その王としての覚悟が、彼の背筋を真っ直ぐに伸ばした。
彼は再び執務机に向き直った。そして彼は、もう一つの、より危険で、そしてより深遠な謎へと、その思考を移した。スキルジェム。そして、その無限の可能性を秘めた拡張機能『サポートジェム』。ゲオルグからの報告によれば、魔法使いは、まるで子供がおもちゃの遊び方を教えるかのように、その恐るべき軍事革命の理論を語っていったという。『組み合わせは無限大』『一つの軍隊を壊滅させることさえ可能になる』。
その言葉は、王の心に、深い深い戦慄をもたらした。これは、もはやただの兵士の強化ではない。これは、戦争の概念そのものを塗り替える、悪魔の力だ。そして、その力を、我々人類は本当に制御できるのだろうか。
彼はヴァルハイト公爵とシュトライヒ宰相を呼び出した。そして彼は、その絶対的な王の意志を、静かに、しかしきっぱりと告げた。
「…………聞け。……例のポーションの件は、これで一旦決着とする。……残りの九十九本は、王家の最高機密として、厳重に封印する。……その使用は、朕の勅命ただ一つによってのみ許可されるものと、心せよ」
「「はっ!」」
「……そしてもう一つの件。……ゲオルグがもたらした、スキルジェムの拡張に関する、あの魔法使い様の言葉。……これについては、当面の間、我が国の最高軍事機密とする」
王の目に、剃刀のような鋭い光が宿った。
「……ヴァルハイト公。……そなたには、宝珠騎士団の中から、さらに数名の、最も信頼のおける者だけを選び出し、極秘裏にその『サポートジェム』とやらの研究を開始することを命じる。……だが、決してその力を過信するな。……そして、決してその研究結果を外部に漏らすな。……この力は、我々がまだ完全に理解しきれておらぬ、あまりにも危険な火なのだ」
「…………御意」
ヴァルハイト公爵は、その命令の真の重みを理解し、厳粛な面持ちでひざまずいた。
「……そして、シュトライヒ宰相。……そなたには、そのサポートジェムの入手経路を探ることを命じる。……ゲオルグを通じて、あの魔法使い様に、それとなく打診してみるのだ。……だが、決して我々の焦りを見せるな。……あくまで学術的な好奇心としてだ。……良いな?」
「…………はっ。……承知いたしました」
宰相もまた、深々と頭を下げた。
こうして、グランベル王国は、医療と軍事の両面で、新たな、そしてより巨大な力をその内に秘めることとなった。だが、その力は、あまりにも強大すぎるが故に、固く固く封印されることとなった。アルトリウス王は賢明だった。彼は、神が与えた玩具に、ただ無邪気に飛びつく子供ではなかった。彼は、その玩具が持つ本当の恐ろしさを理解し、そしてそれを正しく使うための『時』が来るまで、静かに待つことを選んだのだ。
その、あまりにも重く、そしてどこまでも孤独な王の決断。――その先に待つのが、輝かしい未来なのか、あるいは避けられぬ破滅なのか。それを知る者は、まだ誰もいなかった。
ただ、王宮の地下深く、厳重に封印されたポーションの箱と、そして騎士たちの間で極秘裏に始まった、新たな力の研究だけが、静かに、その答えを知る時を待っていた。




