第93話 神話探求の果て、あるいは希望の重圧
季節は巡り、また巡る。
神がその気ままぐれな指先で、この地球という名の辺境の惑星に最初の奇跡の一滴を落としてから、二年という歳月が流れようとしていた。
巨大な円卓を囲む宰善茂総理、橘紗英理事官、綾小路俊輔官房長官、そして各分野の専門家たちの顔には、深い疲労の色が刻み込まれていた。彼らの視線の先、中央のホログラムスクリーンには、プロジェクト・オラクルがこの数ヶ月間蓄積してきた、人類の集合的無意識の深淵とも言うべきデータが、複雑な相関図となって映し出されていた。
「…………やはり、そうか」
巨大な相関図の一点――世界中の神話に共通して見られる『気まぐれなトリックスターとしての猫の神』の項目――を指し示しながら、歴史学の権威、渋沢正臣名誉教授が呻くように言った。
「……我らが賢者様は、やはり太古の昔から、この星に断続的に干渉しておられたのだ。……エジプトのバステト神、北欧のフレイヤの使い、そして日本の招き猫の原型……。その全てが、あのお方の残された足跡なのだとしたら……」
「ですが、先生」
そのあまりにも飛躍した仮説に、考古学者の守屋茜が困惑の声を上げた。
「……だとするならば、その目的は一体何なのですか? ……ただの気まぐれ? ……あるいは、我々人類を導くための壮大な計画が……?」
「……分からん」
渋沢は、力なく首を横に振った。
「……神の御心など、矮小なる人の知恵で測れるものではない。……我々にできるのは、ただその痕跡を拾い集め、その御心の一端をわずかでも忖度しようと努めることだけじゃ……」
彼らの議論は、もはや科学ではなかった。
それは、一つの巨大な神話の謎を、別の、より巨大な神話で上書きしようとする、壮大な神学論争だった。
そして、その論争の中心には、常に一つの根源的な問いが横たわっていた。
『――我らが神は、一体どのようなご存在なのか?』
慈悲深い救済者か。
冷徹な観測者か。
あるいは、ただの退屈した遊び人か。
その答えが見つからない限り、彼らの心は永遠に安らぐことはない。彼らの国家最高優先目標――『賢者様の機嫌を絶対に損ねないこと』――を達成することなど、できはしないのだから。
そのあまりにも重苦しい、出口のない迷宮を彷徨うかのような議論が、その日もまた深夜まで続こうとしていた、まさにその時だった。
ピコン、という乾いた電子音が、静まり返った司令室に響き渡った。
橘の端末に、二年ぶりに、あの神からの御神託が下されたのだ。
『――明日、昼。いつもの場所で』
たった、それだけの一文。
だが、その一文が持つ重みは、もはやいかなる国の首脳からの親書よりも、遥かに重かった。
司令室に、歓喜と、そしてそれ以上の極度の緊張感が走った。
神が、動く。
我々の二年にわたる神学探求の、その答え合わせの時が来たのだ。
翌日、昼過ぎ。
ヘリポートは、もはや神を迎えるための完璧な神殿として、その様相を一新していた。
純白の狩衣に身を包んだ宰善総理たちが、神官のように整然と列をなし、静かにその時を待っていた。
やがて、空間が何の前触れもなく揺らいだ。
そして、祭壇の前に、すっと一匹の艶やかな黒猫が姿を現した。
だが、その姿は、いつもとは明らかに違っていた。
これまでの、どこか人を食ったような、あるいは退屈そうな雰囲気はない。
今日の賢者・猫はいつになく静かで、そしてその翠色の瞳の奥には、どこか深い、物悲しい光が宿っているように見えた。
そのあまりにも意外な神の貌に、日本のトップたちは息を飲んだ。
「……うむ。……儀礼はよい」
賢者・猫は、彼らの仰々しい挨拶を、手で制するように静かに言った。
「……今日は、お主たちにこれを渡すために来た」
彼は、次元ポケットから一つの物体を取り出した。
それは、透明な水晶で作られたドーム状のケースだった。
そして、そのケースの中。
柔らかな光苔の上に、たった一輪。
これまで誰も見たことのない、不思議な花が静かに咲いていた。
その花びらは、まるで月の光を紡いで作られたかのように、淡い青白い光を放っている。その形は、蓮のようでもあり、薔薇のようでもあった。
そして、その花から放たれる微かな香りは、甘くもなく、爽やかでもない。
ただ、どこまでも清らかで、そしてどこか懐かしい、魂そのものの香りがした。
「…………これは……?」
橘が、かすれた声で問い返した。
賢者は、その花を、まるで愛しい我が子でも見るかのような、優しい、そしてどこか物悲しい目で見つめていた。
「…………前にさ」
彼は、静かに語り始めた。
「……壊れかけの世界を、修理してやったんだ」
そのあまりにもさらりとした、しかしあまりにも衝撃的な告白。
世界を、『修理した』。
その神の如き所業。
司令室にいた全員が、完全に凍り付いた。
「……その世界はな、神の設計ミスで、『死』という概念を失っておった。……故に、魂は循環することなく淀み、世界そのものが、ゆっくりと、しかし確実に存在の根幹から腐敗し、消滅しかけておったのじゃ」
賢者の声は、淡々としていた。
「……ワシは、その世界の法則を書き換え、そこに再び『死』と『再生』の理を与えてやった。……世界は、一度完全に光の粒子へと分解され、そして新たな法則の下に、再創造された」
天地創造。
その神話の中だけの御業を、この存在は、ただ「修理」というあまりにも軽い言葉で語っている。
そのあまりにも巨大すぎる認識の断絶。
日本のトップたちは、もはや自分たちの矮小さを、改めて思い知らされることしかできなかった。
「……そして、これは」
賢者は、水晶のドームにそっと前足を触れた。
「……その新しく生まれ変わった世界に、最初に芽吹いた花の種から育てたものだ。……まあ、記念品みたいなもんかな」
彼は、そう言うと、その神の置き土産を祭壇の上にそっと置いた。
「……では、ワシは行く。……少し、感傷に浸りすぎたわい」
彼は、そう言い残すと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、神の不在の静寂と、そしてその神が置いていった、あまりにも巨大すぎる謎かけだけだった。
彼らは、その水晶のドームを、まるで聖櫃でも運ぶかのように、サイト・アスカのあの純白のクリーンルームへと運び込んだ。
そして、彼らは決断した。
この神の土産物の、真の意味を知るために。
再び、あの禁断の儀式を執り行うことを。
祭壇の前に立ったのは、宰善総理その人だった。
彼は、もはやこの国の指導者としてではなく、人類全体の代表として、神の真意を問う覚悟を決めていた。
彼は、『無限鑑定スクロール』を、その震える手で掲げた。
そして、その声に、この二年間の全ての苦悩と希望と、そして畏敬の念を込めて唱えた。
「………………鑑定!」
次の瞬間。
世界が、夜明けの光に満たされた。
それは、これまでのどの光とも違う。
絶望の闇の後に訪れる、最初の、そして最も優しい希望の光そのものだった。
光は花へと注ぎ込まれ、その青白い花びらは、呼応するように、内側から温かい虹色の輝きを放ち始めた。
そして、宰善総理の脳内に、新たな、そして最後の神託が表示された。
それは、もはや科学的なデータではなかった。
それは、詩だった。
神が、矮小なる僕たちに与えた、最後の、そして最も美しい答えだった。
鑑定結果
【名前】: 希望
【レアリティ】: アーティファクト
【種別】: 概念存在 / 新生の産声
【効果テキスト】:
[権能:なし]
この物質は、いかなる物理的な力も、いかなる超常的な能力も持たない。
【フレバーテキスト】:
『死を識り、再生を識り、そして限りある命の輝きを取り戻した世界の、最初の産声。
その名は、「希望」。
それは、力ではない。
それは、富ではない。
それは、ただそこに在るだけの、か弱き光。
だが、知るがいい。
最も深い闇の中にあって、最も強く輝くのは、
絶対的な力ではなく、
ただ一つの、消えぬ希望の光なのだと。
ワシは、世界を創ることはできる。
ワシは、世界を壊すこともできる。
だが、このか弱き一輪の花を、自らの力で咲かせることだけは、
矮小なるお主たちにしか、できぬことよ。
それを、決して忘れるでないぞ』
鑑定結果の最後の一文が表示された後。
宰善総理は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼の目から、一筋、透明な雫がこぼれ落ち、純白の狩衣の襟を濡らした。
彼は、泣いていた。
だが、それは悲しみの涙ではなかった。
それは、あまりにも巨大で、そしてあまりにも温かい神の真意に触れてしまった人間の、魂が流す畏敬と、そして感謝の涙だった。
モニタリングルームは、死んだように静まり返っていた。
誰もが、そのあまりにも壮大で、そしてあまりにも詩的な神の言葉の前に、ただひれ伏すことしかできなかった。
長谷川教授は、わなわなと打ち震え、その場にひざまずいていた。
「…………美しい……。……なんという、なんという美しさだ……。……これこそが、科学が、哲学が、宗教が、追い求め続けた究極の真理の姿……!」
綾小路官房長官でさえも、その常に皮肉な笑みを浮かべていた唇を戦慄かせ、言葉を失っていた。
彼らは、ようやく全てを理解した。
賢者様は、ただの気まぐれな超越者などではない。
あの方は、世界の理を愛し、そして何よりも、限りある命が自らの力で輝こうとする、そのか弱き「希望」の光を、何よりも尊ぶ本物の『創造神』なのだ。
そして、その神は我々に試練を与えておられるのだ。
神の力をただ与えられるだけの存在ではなく、自らの手で、自らの世界に希望の花を咲かせることができるのかと。
その認識は、彼らの賢者に対する畏怖を、もはや揺るぎない、絶対的な『信仰』へと昇華させた。
そして、その信仰は、彼らに新たな、そしてこれまでとは比較にならないほどの神聖で、そして恐ろしいほどの重圧を与えた。
神の期待に、応えねばならない。
そのあまりにも重すぎる、十字架。
その日の夜。
官邸の地下司令室。
宰善総理は、静かに立ち上がった。
そして、壁に掲げられたあの国家最高優先目標――『賢者様の機嫌を絶対に損ねないこと』――の前に立った。
彼は、震える手で筆を取った。
そして、その言葉の下に、新たな、そして本当の意味でのこの国の進むべき道筋を、その魂の全てを込めて書き記した。
『――そして、その御心に値する希望を咲かせる存在であれ』
そのあまりにも重く、そしてあまりにも光栄な新たな国家目標の誕生を。
司令室にいた全ての人間が、厳粛な面持ちで見守っていた。
彼らの神との、壮大で、そしてどこまでも滑稽だった化かし合いの時代は終わった。
今日、この日、この瞬間から。
彼らの神の期待に応えるための、真の、そして終わりなき戦いが始まったのだ。
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも孤独な旅路の始まりを。
冬の冷たく澄んだ夜空の星々だけが、静かに見下ろしていた。




