第91話
享保十二年、初夏。
江戸城本丸御殿の奥深く、将軍吉宗が私的な時間を過ごすための庭園は、生命の輝きに満ち溢れていた。腕利きの庭師たちによって完璧に手入れされた松の緑は深く、皐月の花は燃えるような深紅の花弁を開かせている。池の澄んだ水面には、初夏の柔らかな陽光がきらきらと乱反射し、その下を、色鮮やかな錦鯉たちが悠然と泳いでいた。
その池に面した縁側で、徳川吉宗は将軍としての威厳を脱ぎ捨て、ただの一人の男として静かな思索に耽っていた。彼の膝の上には、数多くの書き込みがなされた治水に関する書物が広げられている。享保の改革は今や軌道に乗り、幕府の財政は再建され、新田開発も順調に進んでいた。だが、彼の心は決して満されてはいなかった。一つの改革を成し遂げれば、また新たな課題が見えてくる。民の暮らしを真に豊かにするための道は、どこまでも遠く、そして険しい。
その静寂を破ったのは、何の音も、何の気配もなかった。
ただ、気づけばそこにいた。
彼のすぐ隣の濡れ縁に、一匹の黒猫が、まるでずっとそこにいたかのように、静かにちょこんと座っていたのだ。
夜の闇そのものを吸い込んだかのように、艶やかな毛並み。そして、人の心の奥底までも見透かすかのような、神秘的な翠色の瞳。
吉宗は、驚かなかった。
彼は、書物から顔を上げると、その口元に、深い、深い安堵と親愛の情に満ちた笑みを浮かべた。
「…………賢者殿。……お久しゅうござる」
その声は、将軍としてのものではなく、旧知の友を迎える温かい響きを持っていた。
「うむ。……息災であったか、吉宗よ」
賢者・猫――新田創は、大きなあくびを一つすると、まるで自分の家のように縁側にごろりと寝転がった。
「……なにやら、また難しい顔をして、難しい書物を読んでおったようじゃが。……為政者というのも、楽な稼業ではないのう」
そのあまりにも不遜な、しかしどこまでも的を射た言葉に、吉宗は苦笑した。
「ははは。……貴殿にだけは、言われたくはありませぬな。……貴殿がもたらした、あの黄金の種。……あれを元手に、この二年、どれほどの事業を興し、どれほどの汗を流したか。……貴殿には、想像もつきますまい」
吉宗の言葉は、本心だった。
賢者が気まぐれに置いていった、あの巨大な金塊。それは、彼の改革を劇的に加速させた。だが、同時に、そのあまりにも巨大すぎる富は、幕府内部に新たな欲望の渦を生み、彼はその調整に昼夜を問わず心血を注いできたのだ。
「まあ、よい」
賢者は、興味なさそうに尻尾を振った。
「……ワシもこの二年間、ちとばかり『仕事』で忙しくてな。……久しぶりに、お主のような面白い男と他愛のない話がしたくなったのじゃよ」
「『仕事』でございますか」
吉宗の目に、強い好奇の光が宿った。
この超越的存在が「仕事」と称するものが、一体どれほどのスケールを持つのか。
「……賢者殿。……差し支えなければ、お聞かせ願えませぬか。……貴殿がこの二年、渡り歩いてこられたという、その異国の話とやらを」
「……ふむ。……まあ、よいだろう」
賢者・猫は、少しだけ考える素振りを見せた後、まるで昨日の夕食の献立でも語るかのような気軽さで、その壮大な物語を語り始めた。
「……そうよのう。……まず、ワシがしばらく肩入れしておった南の大陸にあるグランベルという王国じゃがな。……あそこの王は、アルトリウス三世という。……お主と同じくらいのまだ若い男じゃが、なかなかの切れ者でな。……理想主義者すぎるきらいはあったが、この二年で、随分と王としての風格が出てきたわい」
彼は、創が初めてグランベル王国にもたらした食文化革命の顛末を語った。塩、砂糖、香辛料。そのありふれた調味料が、いかにしてその国の貴族の心を、そして民衆の胃袋を掌握し、王の権威を絶対的なものにしたか。
吉宗は、その物語を食い入るように聞いていた。
「……なんと。……食を以て国を治めると。……そのアルトリウス王、まさしく賢王ですな。……為政者の理想、そのものにございます」
「うむ。……だがな、吉宗よ。……力は、常にそれを扱う者を試す。……ワシが次にあの国に与えたのは、もっと直接的で、そしてもっと危険な力じゃった」
賢者は、スキルジェムがもたらした軍事革命の物語を続けた。たった十数名の『宝珠騎士団』が、隣国の数千の軍勢を一夜にして蹂躙した、あの伝説の戦い。
そのあまりにも圧倒的な力の物語に、吉宗の顔から血の気が引いた。
「………………」
彼は、絶句していた。
「……賢者殿……。そ、それは……。そ、それはあまりにも……」
「……危険な力じゃろう?」
賢者は、吉宗の心を見透かしたかのように言った。
「……うむ。……ワシも、そう思った。……あの若き王がその力に酔いしれ、大陸に血の雨を降らせる覇王と化すのではないかと、少しばかり案じておったのじゃがな。……だが、あの男は違った」
賢者は、国王アルトリウス三世が、その絶大な軍事力を侵略のためではなく、あくまで国の守りのための『盾』として使うことを宣言し、代わりにその力を平和的に競い合う『王立魔法武闘会』を開催したという、その後の顛末を語った。
そのあまりにも高潔で、そしてどこまでも民を思う王の決断。
吉宗は、深い、深い感嘆のため息をついた。
「…………素晴らしい。……そのアルトリウス王、まことの名君ですな。……この吉宗、遠い異国の王とはいえ、心からの敬意を表しますぞ」
「……うむ。……まあ、おかげであの国は、今や大陸一の豊かさと平和を謳歌しておるわい。……ちと、平和ボケが過ぎるきらいもあるがな」
賢者は、やれやれといった風に付け加えた。
「……さて。……面白い王は、もう一人おる」
賢者は、話を変えた。
「……今度は、女の王じゃ。……商業連合体ロザリアを束ねる、イザベラという名の若き女王。……この女は、アルトリウスとは全く違う種類の、恐ろしい切れ者じゃよ」
彼は、グランベルの奇跡の調味料を巡って繰り広げられた、若き賢王と若き天才女王との、壮大で、そしてどこまでもエレガントな外交戦の物語を語った。
アルトリウスが理想と慈悲で国を治める王であるとすれば、イザベラは計算と駆け引きと、そして冷徹なまでの現実主義で国を富ませる女王。
その二人の対照的な、しかしどちらもが自らの民を深く思う為政者としての在り方。
吉宗は、その物語に完全に引き込まれていた。
「…………なんと。……そのイザベラ女王、まさしく女傑。……そして、そのアルトリウス王との腹の探り合い。……まるで、極上の盤面を眺めているかのようですな」
彼は、自らが日々繰り広げている幕府内部の老獪な老中たちとの政治闘争を思い出し、深い、深い共感の溜め息をついた。
「……まあ、王や女王だけが面白いわけではないがな」
賢者は、さらに続けた。
「……ワシが最近、懇意にしておるのが、セラフィーナという名の鉄の女男爵じゃ。……彼女が治めるのは、国ではない。……歯車と蒸気機関、そして石炭の煙に覆われた『ギア・ヘイム』という、巨大な工業都市じゃよ」
彼は、その灰色の世界で、創がもたらしたベーキングパウダーと機械式腕時計が、いかにして人々の日常と価値観を根底から揺るがしたかを語った。
魔法も、王権神授説も存在しない。ただ、技術と資本と、そして労働力だけが全てを支配する世界。
そのあまりにも異質な、しかしどこまでも合理的な社会の在り方。
吉宗は、眉間に深い皺を刻み、その物語に聞き入っていた。
それは、彼が今まさに進めようとしている産業振興や技術開発の、遥か未来の姿を垣間見ているかのようだった。
「……賢者殿」
吉宗は、静かに問いかけた。
「……その様々な国の、様々な王の話。……実に興味深く伺いました。……して、賢者殿は、その様々な国のあり方を、どのように見ておられるのですかな? ……どの国の、どの王のやり方が、最も正しいとお考えか」
それは、この国の頂点に立つ者としての、切実な問いだった。
だが、賢者の答えは、またしても彼の予想の遥か上を行くものだった。
「…………さあ?」
賢者・猫は、心底どうでもよさそうに、大きなあくびをした。
「…………ワシは、ただの商人じゃからのう。……どの国が儲かるか、どの王が面白いか。……興味があるのは、ただそれだけじゃよ。……国のあり方など、その国に住む民が決めればよいこと。……ワシの知ったことではないわい」
そのあまりにも絶対的で、そしてどこまでも無責任な神の視点。
その言葉は、吉宗の心に、再び小さな、しかし確かな棘のように突き刺さった。
「……さて。……お主の国の話も、少しは聞かせてもらおうかのう」
賢者は、退屈そうに話題を変えた。
「……ワシが最後に顔を出してから、二年か。……この日ノ本も、随分と変わったかのう?」
その問いに、吉宗は苦笑した。
「……ええ。……おかげさまで、貴殿がもたらしてくださった様々な『奇跡』によって、この国は、良い方向にも、そして悪い方向にも、大きく変わりつつあります」
そして吉宗は、最後の、そして最も奇妙な物語を語り始めた。
それは、彼がこの二年間、賢者の不在の間に経験した、最も不可解で、そして最も彼自身の心を揺さぶった出来事だった。
それは、賢者が去った後の江戸城に棲みついた、もう一つの「神」の物語だった。
「……賢者殿。……貴殿が去られた後。……この江戸城に、そしてこの日ノ本に、もう一つの『奇跡』が生まれました」
吉宗の声は、静かだった。
「……それは、貴殿がもたらしたような天変地異を起こすような、派手なものではありませぬ。……もっと静かで、そしてどこまでも温かい奇跡。……人々はそれを、こう呼んでおります。『暴れん坊将軍の御心』……と」
彼は、語り始めた。
賢者との対話を通じて民の暮らしの本当の姿を知った吉宗が、その後、より頻繁に、そしてより深く市井へとお忍びで足を運ぶようになったこと。
徳田新之助として、彼は江戸の隅々まで歩き回り、民の喜びを、そしてその悲しみを、自らの肌で感じてきた。
そして彼は、行く先々で、ささやかな、しかし確かな「奇跡」を起こしていった。
米問屋の不正を暴き、米価の安定を取り戻す。
悪徳商人の陰謀を砕き、小さな店の営みを守る。
そして、名もなき民のささやかな願いを、その権力を使ってそっと叶えてやる。
その一つ一つの行いは、決して神の御業ではなかった。
それは、一人の人間が、その知恵と勇気と、そして権力という名の責任を正しく使っただけの、当たり前の行為だった。
だが、その当たり前の行為こそが、この時代の民にとっては、何よりも得難い奇跡だったのだ。
噂は、瞬く間に江戸中に広まった。
『――江戸の町には、貧乏旗本の三男坊の姿を借りた、正義の神様がおられるらしい』
『――そのお方は、悪を憎み、弱きを助け、そして何よりも我々民の暮らしを、その身を以て守ってくださる』
『――そのお方の正体は、誰も知らない。……だが、そのお方が去った後には、必ず桜吹雪の舞うような、爽やかな風が吹くのだという』
その物語は、いつしか『暴れん坊将軍』の伝説として、江戸の民の心の中に、深く、深く根付いていった。
そして、その伝説は、人々の心を変えた。
彼らは、もはやお上にただ従うだけの、無力な民草ではなかった。
彼らは、自分たちの暮らしを、自分たちの将軍がすぐ側で見守ってくれているという、確かな実感と誇りを手に入れたのだ。
その誇りが、彼らを強くした。
彼らは、自らの手で自らの暮らしをより良くしようと懸命に働き、そして互いに助け合うようになった。
その結果、江戸の街は、賢者がもたらした奇跡とはまた別の、もっと内側からの力によって、より豊かに、そしてより強く生まれ変わりつつあった。
吉宗は、その全ての物語を語り終えると、静かに賢者・猫を見つめた。
そして、彼はその魂の全てを込めて、最後の問いを投げかけた。
「…………賢者殿。……お聞かせ願いたい。……貴殿がもたらした、あの世界の理を超越した絶対的な奇跡と。……そして、この私が、矮小なる人間としてこの江戸の町で起こしてきた、このささやかな、しかし確かな奇跡と。……一体、どちらがより尊いものなのでしょうか」
それは、神への挑戦だった。
人間としての、最後の矜持を賭けた問いだった。
そのあまりにも深く、そしてあまりにも切実な問いに対し。
賢者・猫は、しばし黙り込んだ。
そして、やがてその翠色の瞳を、いたずらっぽく、きらりと光らせた。
「…………さあ?」
彼は、言った。
「…………ワシは、神ではないからのう。……ただの、退屈した猫じゃ。……そんな難しい問いには、答えられんわい」
彼は、大きなあくびを一つすると、縁側からすっと立ち上がった。
「…………だが、まあ、一つだけ言えることがあるとすれば」
彼は、吉宗に向き直った。
その顔には、賢者でも、神でもない、ただの友人としての温かい笑みが浮かんでいた。
「…………お主の国の、その『暴れん坊将軍』という名の物語。……ワシがこれまで見てきた数多の世界の、いかなる英雄譚よりも。……遥かに、遥かに面白そうじゃな」
彼は、そう言い残すと、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは。
神の不在の静寂と、そしてその神から最高の賛辞を贈られた、一人の将軍だけだった。
吉宗は、しばらく呆然としていたが、やがてその口元に、深い、深い満足感に満ちた笑みを浮かべた。
そして、彼は立ち上がった。
その背中には、もはや迷いはなかった。
彼がこれから成し遂げるべき偉業の数々が、彼の頭の中に、明確な道筋となって見えていた。
神は、不在で良い。
この国を、この民を真に救うのは、神の気まぐれな奇跡などではない。
この地に生きる、我々人間自身の、ささやかで、しかし尊い営みの積み重ねなのだと。
彼は、その揺るぎない確信を胸に、再び江戸の雑踏の中へと、その確かな一歩を踏み出していくのだった。




