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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第92話 魂の響板と沈黙の権利

 神は、不在だった。

 新田創――賢者・猫が、そのあまりにも巨大な奇跡の種を蒔いてから二年余り。世界は、彼が直接その姿を現さなくとも、否応なく変わり続けていた。

『リジュビネーション・バブル』は、世界の経済を歪に肥大させ、富める者と持たざる者の間に、修復不可能な溝を刻んだ。その熱狂の中心で、日本は神の代理人として、そして世界の富を吸い上げる巨大なブラックホールとして、孤独な栄光の中にあった。

 だが、その栄光は常に薄氷の上にあった。

 世界の嫉妬と猜疑の視線。そして何よりも、次なる奇跡を渇望する声なき声の、圧倒的なプレッシャー。

 官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの司令室。その空気は、もはや国家の意思決定の場というよりも、神の沈黙という名の拷問に耐える信徒たちの、陰鬱な祈りの間に近かった。


「…………限界ですな」

 その重苦しい沈黙を破ったのは、官房長官、綾小路俊輔の、蛇のように冷たい、しかし今はどこか疲労の色を滲ませた声だった。

「……賢者様は、お見えになられない。……そして、世界の我々に対する不信感と苛立ちは、もはや臨界点に達しつつあります。……このままでは、我々が築き上げてきた『神話』そのものが、その足元から崩れ去りかねませんぞ」

 彼の視線の先、巨大なホログラムスクリーンには、世界各国の首脳たちから日本政府へと寄せられた、外交ルートを通じた「非公式な」、しかし極めて厳しい要求書のリストが映し出されていた。

『――アーティファクトの国際共同管理に関する、緊急討議の開催を要求する』

『――『星の涙』の生産プロセスに関する、透明性のある情報開示を求める』

 それは、もはや友好的な要請ではなかった。

 最後通牒だった。


「……ふん。……自分たちだけでは何もできぬ連中の、負け犬の遠吠えよな」

 防衛大臣の岩城が、吐き捨てるように言った。

 だが、その声にはいつものような力強さはなかった。

「……ですが、岩城大臣」

 外務大臣の古賀が、苦渋に満ちた表情で反論する。

「……その『負け犬』たちが、今や世界の大半を占めております。……彼らが団結し、我が国に対し経済制裁でも発動してみなさい。……いかに我々が賢者様の恩寵を受けていようとも、無傷では済みますまい」

 そのあまりにも現実的な指摘に、誰もが押し黙った。

 そうだ。

 彼らは、一つの重大な壁に突き当たっていた。

 神の奇跡はあまりにも強大すぎて、それを小出しにすればするほど、かえって世界の欲望と不信感を煽る結果にしかならないという、絶望的なジレンマ。

 その膠着した空気を打ち破ったのは、これまで黙って議論を聞いていたこの国の影の女王、橘紗英だった。

 彼女は、静かに立ち上がった。

 その氷のような瞳には、悪魔的なまでの、そしてどこまでも合理的な光が宿っていた。


「…………皆様」

 彼女の声は、静かだった。だが、その静けさこそが、その場にいた全ての男たちの背筋を凍りつかせた。

「……なぜ、我々は守りに入っているのですか? ……なぜ、我々が彼らの土俵の上で、彼らのルールで戦ってやらねばならないのですか?」

 彼女は、ホログラムスクリーンを指し示した。

「……彼らが、我々に『情報開示』を求めている。……結構。……ならば、くれてやりましょう。……彼らのちっぽけな脳では到底処理しきれないほどの、巨大で、圧倒的で、そしてどこまでも『厄介な』情報をね」

 彼女の口元に、微かな、しかし確かな冷たい笑みが浮かんだ。

「……皆様、思い出してください。……我々の手元には、まだ世界に公開していない切り札が、いくつも残っております。……そして、その中には、諸刃の剣であるが故に、これまであえて封印してきた、最高の『劇薬』があることを」

 彼女が言わんとしていることを、宰善総理は瞬時に理解した。

「……橘君。……君は、まさか……」

「はい、総理」

 橘は、きっぱりと頷いた。

「……『魂の響板ソウル・レゾネーター』を公開します。……そして、この神の道具を巡る新たな混沌の中に、世界中を叩き込んでやるのです」


 日本政府の発表は、またしても世界を震撼させた。

 だが、それはこれまでの熱狂とは全く質の違う、冷たい、そしてどこまでも不気味な戦慄だった。

 官邸の定例記者会見場。

 その壇上に立ったのは、プロジェクト・キマイラの神話創造チームを率いる、あの歴史学の権威、渋沢正臣名誉教授だった。

 その老いた顔には、新たな発見を語る学者の喜びではなく、禁断の知識の扉を開けてしまった人間の、深い、深い苦悩の色が浮かんでいた。

 彼は、震える声で、その神の道具の存在を世界に告げた。


「……本日、我々が皆様にご報告いたしますのは……。……巫女王ホシミコが遺した、最も神聖にして、そして最も恐るべき遺物。……我々が『魂の響板』と仮称する、アーティファクトの発見についてです」

 彼の背後のスクリーンに、一枚の画像が映し出された。

 それは、古代の神殿で使われていたかのような、薄い水晶で作られた美しい円盤。その表面には、複雑な幾何学模様が刻み込まれている。

「……この響板は、驚くべき、そして畏るべき能力を持っていました。……二人の人間が、この両端に同時に手を触れると……。……彼らの意識は完全に同調し、言語を介さず、思考、感情、そして記憶、その全ての情報を直接共有することが可能になるのです」

 そのあまりにも衝撃的な告白に、会見場は水を打ったように静まり返った。

 渋沢教授は、続けた。その声は、もはや悲痛な祈りのようだった。

「……我々は当初、これを『究極の対話の道具』であると考えました。……これさえあれば、人種や文化の違いから生まれる全ての誤解は消え去り、人類は真の意味で互いを理解し合える、輝かしい未来が訪れるのではないかと。……そう、我々は夢想したのです」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

 そして、その顔を深い絶望に歪ませた。

「…………ですが、我々は間違っておりました」

 彼は、首を横に振った。

「……これは、対話の道具などではない。……これは、魂の牢獄です。……我々は、この響板を使った動物実験の過程で、恐るべき事実に気づいてしまった。……より強い意志を持つ個体が、弱い意志の個体の思考を、一方的に『上書き』してしまうという事実に。……これは、相互理解の道具ではない。……史上最も完璧な、『洗脳装置』だったのです」


 そのあまりにも正直な、そしてあまりにも衝撃的な告白。

 それは、日本政府が周到に準備した、完璧な脚本だった。

 彼らは、このアーティファクトの持つ希望の側面と絶望の側面を同時に提示することで、世界の反応を意図的に二分させ、そして混沌へと導こうとしていたのだ。

 そして、その混沌の中から、自らが望む未来を創造するために。

 渋沢教授は、最後にこう締めくくった。

「……このあまりにも危険な神の道具を、我々人類はまだ手にすべきではない。……それが、我々日本政府の苦渋の結論です。……故に、我々はこの『魂の響板』を再び飛鳥の地下深くへと封印し、その存在を歴史から抹消することを、ここに宣言いたします」

 そして、彼は深々と頭を下げた。

「…………どうか、皆様。……この愚かな我々の過ちを、お許しください」


 そのあまりにも劇的な、自己否定のパフォーマンス。

 世界は、大混乱に陥った。

 ある者は、日本のその「倫理的な」決断を賞賛した。

『――なんと高潔な判断だ! 彼らは、自らの手に余る力を、自らの意思で手放したのだ!』

 だが、またある者は、その裏に隠された日本の狡猾な思惑を鋭く見抜いていた。

『――馬鹿を言え! これは、彼らの新たな外交カードだ! 『我々は世界を支配できる兵器を持っている。だが、我々の慈悲によって、それを使ってはいないのだ』と、世界を脅迫しているに過ぎない!』

 そして何よりも、世界中の指導者たちの心を苛んだのは、純粋な、そして抗いがたいほどの「欲望」だった。

 思考を支配する力。

 それさえあれば。

 国内の反体制派を、永遠に沈黙させることができる。

 敵対する国家の指導者を、意のままに操ることができる。

 その悪魔の如き誘惑は、彼らの理性の最後の砦を、いとも容易く食い破っていった。


 その混沌の嵐が吹き荒れる中。

 一人の男が、沈黙を破った。

 アメリカ合衆国大統領だった。

 彼は、ホワイトハウスのローズガーデンで緊急の記者会見を開くと、その顔に最大限の友愛と、そして深い同情の表情を浮かべて、世界に語りかけた。

「……我が勇敢なる友人、日本が下した苦渋の決断を、私は心からの敬意をもって受け止めたい」

 彼は、言った。

「……彼らは、人類全体の未来のために、あまりにも重すぎる重荷を、たった一国で背負おうとしている。……だが、私は言いたい。……友よ、その重荷を一人で背負う必要はないのだと。……その苦しみと、その責任を、我々アメリカが半分、共に背負おうではないかと」

 そのあまりにも美しく、そしてどこまでも計算され尽くした声明。

 彼は、続けた。

「……これは、もはや日本一国の問題ではない。……人類全体の倫理と未来が、問われているのだ。……故に、我がアメリカ合衆国は、ここに正式に提案する。……その禁断のアーティファクト『魂の響板』を、日米両国の最も信頼のおける科学者と倫理学者による厳格な共同管理下に置き、その危険性を完全に封じ込め、そしてその平和的利用の可能性を、共に探求していくことを」


 それは、拒否することのできない提案だった。

 そして、日本政府が最初からそれを望んでいたことを、彼は知る由もなかった。

 宰善総理は、その提案を、あたかも予期せぬ救いの手であったかのように、涙ながらに受け入れた。

「……おお、ミスター・プレジデント……! なんという、なんという寛大なるご提案……! ……貴国こそが、我が国の真の友人であり、この世界の真の指導者です……!」

 そのあまりにも茶番めいた、しかし世界中のメディアが感動的に報じた外交劇。

 その裏側で、日米両政府は、世界からその最も危険な玩具を取り上げ、自分たちだけの密室でそれを独占するという、完璧な共犯関係を築き上げたのだ。

 世界は、ぐぬぬぬと歯噛みするしかなかった。

 人類の未来を決める最も重要な意思決定の場から、完全に排除されてしまったのだから。


 数週間後。

 サイト・アスカの、あの純白のクリーンルーム。

 そこでは、日米のトップ科学者たちが、あの水晶の円盤を前にして、世紀の共同研究を開始していた。

 だが、その研究は初日から暗礁に乗り上げていた。

『魂の響板』は、沈黙していた。

 いかなるエネルギーにも反応せず、いかなる機能も発揮しない。

 それは、まるでただの美しいガラスの円盤にしか見えなかった。

「…………おかしいわ」

 アメリカ側のチームリーダー、エヴリン・リードが、その美しい眉をひそめた。

「……日本の公式映像では、確かにこれは機能していたはず。……何か、我々が知らない起動条件トリガーがあるというのかしら……」

 その問いに、日本側の責任者である長谷川教授は、ただ申し訳なさそうに肩をすくめるだけだった。

「……いやはや、我々にも全く。……何しろ、古代の女王陛下の気まぐれな遺物ですのでな。……その御心は、我々凡人には到底測りかねますわい」


 そして、彼らはこの壮大な茶番劇の、最後の仕上げに取り掛かった。

 彼らは、世界が日米のこの閉鎖的な共同管理に不満を募らせ、その非難の声が最高潮に達した、まさにそのタイミングを狙って。

 官房長官、綾小路俊輔を通じて、一つの「非公式な」、しかし全世界のメディアが飛びつくであろう衝撃的な声明を発表させたのだ。

 その声明は、あくまで個人的な見解であるというエクスキューズ付きで、しかしその言葉の端々には、国家としての絶対的な傲慢さと、そして底知れない自信が滲み出ていた。


「…………やれやれ。……皆様、まだお分かりになりませぬかな?」

 テレビカメラの前で、綾小路は心底うんざりしたというように、溜め息をついてみせた。

「……正直、これくらいの物くらい、簡単に了承してくれないと……。……我々が、巫女王ホシミコの遺産の中から本当に見つけ出したアーティファクトの数々を、その全てを知ったら……。……皆様、あまりの衝撃に、発狂しちゃうんじゃございませんかね?」


 その一言。

 そのあまりにも挑発的で、そしてあまりにも見下した、悪魔の囁き。

 それは、世界中に吹き荒れていた日本への非難の嵐を、一瞬にして凍りつかせた。

 そして、その沈黙の後。

 世界中の人々の心に、一つの感情が共通して芽生えていた。

 それは、怒りでも、反発でもない。

 ただ純粋な、そして根源的な。

『………………恐怖』だった。

 この国は、まだ何かを隠している。

 我々の想像を絶する、本当の『何か』を。

 その認識が、世界の共通認識となった瞬間。

 日本は、もはやただの経済大国でも、文化大国でもなくなった。

 彼らは、人類の理解を超えた、畏るべき、そして決して敵に回してはならない神秘の国。

『アンタッチャブル』な存在として、その地位を確立したのだ。



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