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異界渡りを手に入れた無職がスローライフをするために金稼ぎする物語  作者: パラレル・ゲーマー


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第90話 【グランベル王国編】 聖ジャックと王の憂鬱

 季節は、実りの秋から、最初の冷たい木枯らしが王都の石畳を黄金色の落ち葉と共に舞わせる、冬の気配が色濃くなる頃へと、その歩みを進めていた。

 グランベル王国は、熱に浮かされていた。

 二年という、歴史においては瞬きにも等しい時間の中で、この国は大陸のいかなる国も経験したことのない、劇的な変貌を遂げていた。賢王アルトリウス三世の治世の下、そしてその背後にあるラングローブ商会の絶大な経済力によって、王都は今や、大陸中から富と人が集まる巨大な磁石と化していた。


 王宮の最も奥深くにある、国王の私的な執務室。その窓から見える王都の夜景は、アルトリウスが即位した頃のそれとは、もはや全くの別物だった。かつては夜の闇に沈んでいた街区にも魔石のランプの柔らかな光が灯り、まるで地上に天の川が生まれたかのように、どこまでも光の点が続いている。それは繁栄の証であり、彼の治世の成功を何よりも雄弁に物語る光景であったはずだった。

 だが、その光を眺める若き王の瞳に、満足の色はなかった。

 彼の美しい顔に浮かんでいたのは、深い、深い疲労と、そして為政者だけが知る、孤独な憂鬱の色だった。

「………………」

 彼は、巨大な黒檀の執務机の上に広げられた一枚の巨大な羊皮紙に、再び視線を落とした。

 それは、王都の新たな拡張計画の設計図だった。今の王都は、流入してくる人々を収容するには、もはやあまりにも手狭になっていたのだ。新たな城壁を築き、新たな居住区を設け、そして新たな水道を引き、新たな市場を創る。その計画は壮大で、未来への希望に満ち溢れていた。

 だが、その設計図の余白に、彼は別の、目に見えない現実を見ていた。

 住宅価格の高騰。流入してくる移民と、古くからの住民との間の軋轢。そして、富が集中する場所に必ず生まれる、新たな犯罪の芽。

 彼の元には、連日、そういった問題の深刻さを訴える報告書が、山のように届けられていた。治安維持部隊は、増え続ける些細ないさかいの仲裁に追われ、疲弊しきっている。建設現場では、熟練の職人が圧倒的に不足しており、人手不足は王国の全ての産業に蔓延する風土病のようになっていた。王国は今、まさに嬉しい悲鳴を上げていたのだ。

(……なんと、皮肉なことか)

 アルトリウスは、心の底から溜め息をついた。

(……民が飢える心配がなくなったと思えば、今度は住む場所に困る民が生まれる。盗賊の心配がなくなったと思えば、今度は街の中で隣人同士がいがみ合う。……一つの問題を解決すれば、また新たな問題が生まれる。……人の世とは、なんとままならぬものか)

 そして、彼の憂鬱の根源には、もう一つの、より個人的で、そしてどこか罪悪感にも似た感情が渦巻いていた。

 彼は、机の引き出しから一枚の報告書を取り出した。

 それは、彼の諜報網がもたらした、王都の市井に関する最新のレポートだった。

 その報告書の大部分を占めていたのは、一人の男に関する記述だった。

 その男の名は、ジャック。

 ただの、石工。

 だが、今の王都で、彼の名を知らぬ者はいない。

 人々は、彼をこう呼んでいた。

『聖ジャック』と。

 全ての始まりとなった、あの魔法使いとの出会い。困っていた旅人に施した、ささやかな親切。その美談は、この二年という歳月の間に、人々の口から口へと語り継がれるうちに、もはや原型を留めないほどの壮大な叙事詩へと変貌を遂げていた。

 そして、その神話を、他ならぬこの自分自身が政治的に利用してきたという自覚が、アルトリウスにはあった。

『ジャックの如くあれ』

 王の名において発せられたあの布告は、確かに民の心を一つにし、国に善行の文化を根付かせた。だが、その代償として、一人の平凡な男から、その平穏な日常を永遠に奪い去ってしまったのではないか。

 報告書によれば、ジャックの家の前には連日彼の祝福を求める人々の列ができ、彼はもはや気安く酒場に飲みに行くことさえままならないのだという。

(……すまぬな、ジャックよ)

 王は、まだ見ぬその男の顔を思い浮かべながら、心の中で呟いた。

(……そなたの善意を、朕は自らの治世のために利用した。……この国の繁栄は、ある意味で、そなた一人の犠牲の上に成り立っておるのかもしれん)

 彼は、立ち上がった。

 そして、執務室の隅に置かれた、質素だが上質な旅装束を手に取った。

「……少し、風に当たってくる」

 彼は、夜警の衛兵にただそれだけを告げると、誰にも気づかれることのない秘密の通路を使い、一人、夜の王都の喧騒の中へとその姿を消していった。

 彼が向かう先は、一つしかなかった。

 伝説の中心にいるという、その男に会うために。

 そして、王としてではなく、ただ一人の人間として、その男の本当の声を聞くために。


 王都の労働者たちが集う安酒場が立ち並ぶ一角。その中でもひときわ古く、そしてひときわ騒がしい酒場、『古樫の樽』の、最も隅の薄暗い席。

 石工のジャックは、一人、うんざりした顔で、いつもの安物のエールをすすっていた。

 彼の周囲だけ、まるで聖域のように、ぽっかりと空間が空いている。誰もが彼に話しかけたくてうずうずしているのだが、そのあまりの神格化されっぷりに、かえって誰も近寄れないでいたのだ。

「……ちっ。……また始まったぜ」

 ジャックは、誰に言うでもなく悪態をついた。

 店の暖炉のそばでは、どこかから来た旅人と思しき男が、目をキラキラと輝かせながら、酒場の亭主に熱心に尋ねていた。

「なあ、親父! ここに来れば、あの『聖ジャック』様に会えるってのは本当かい!? 俺ぁ、遥か南の港町から、その人の噂を聞いて、はるばるやってきたんだ!」

「……さあな」

 亭主は、エールのジョッキを磨きながら、ぶっきらぼうに答えた。

「……アイツは、聖人様なんぞじゃねえよ。……ただの、運が良すぎただけの、口の悪い石工だ」

 その言葉には、旧知の友人をからかうような響きと、そしてその友人の置かれた奇妙な境遇への、深い同情の色が滲んでいた。

 あの伝説の一夜以来、ジャックの平穏な日常は、完全にどこかへ行ってしまった。

 どこを歩いても、「おお、あのジャック様だ」「なんて幸運な方なんだ」とひそひそと噂され、好奇と尊敬の視線に晒される。子供たちは、彼の後ろをぞろぞろとついてきて、「ジャック様、また魔法使い様は来ないんですか?」と無邪気に尋ねてくる。

 彼は、ただ少し変わった、妙に度胸のある旅人に道を教え、ほんの少しだけ親切にしただけだった。

 それなのに、いつの間にか彼は、「聖人を見抜いた心優しき男」、「幸運を呼び込む徳高き人物」として、本人の意思とは全く無関係に祭り上げられてしまっていたのだ。

「…………面倒くせえ……」

 彼は、心の底から溜め息をついた。


 そんな彼の独り言に、隣の席から静かな声がかけられた。

「……お見受けしたところ、貴殿がその噂の『聖ジャック』殿ですかな」

 ジャックが、億劫そうにそちらを見ると、そこには一人の旅装束に身を包んだ若い男が、いつの間にか座っていた。年は三十代半ば。その顔立ちは精悍で、その目には、ただの旅人とは思えぬほどの深い知性と、そしてどこか憂いを帯びた静けさが宿っていた。

「……ああ、そうだがよ。……あんたも俺に何か用かい? ……言っとくが、俺は聖人でも何でもねえ。……ただの石工だ。……赤ん坊に触ったからって病気が治るわけでもねえし、店の看板に触ったからって商売が繁盛するわけでもねえぞ」

 ジャックは、吐き捨てるように言った。

 だが、その男は、他の者たちのように驚いたりがっかりしたりする様子もなく、ただ静かに微笑んだ。

「……はは。……やはり、噂通りの方らしい。……いや、失敬。……私はアーサーと申す。……ただの旅の者です。……貴殿のそのあまりにも数奇な運命の話を、ぜひ一度、直接お伺いしたいと思いましてな。……よろしければ、一杯奢らせてはいただけませぬか」

 そのあまりにも穏やかで、そしてどこかこちらの内心を見透かすかのような物腰。

 ジャックは、少しだけ面食らったが、奢りの酒を断る理由はなかった。

「……まあ、酒を奢ってくれるってんなら、話は別だがな」

 彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、ジョッキに残っていたエールをぐいと飲み干した。


 こうして、歴史上最も奇妙な、そして最も重要な対話は、王都の片隅の騒がしい酒場のテーブルで始まった。

 一人は、この国の全ての運命をその双肩に担う、若き賢王。

 そしてもう一人は、民衆が生み出した新たな神話の中心に、不本意ながらも祭り上げられた、ただの石工。

 彼らは、互いの正体を知らぬまま、ただの旅人と、ただの職人として、言葉を交わし始めた。

 アーサーと名乗る男――アルトリウスは、聞き上手だった。

 彼は、ジャックの愚痴を、ただ静かに、そして時折相槌を打ちながら聞いていた。

 ジャックは、最初は警戒していたものの、その男の持つ不思議な聞き心地の良さに、いつしか心を許し、日頃の鬱憤を堰を切ったように語り始めていた。

「……ったく、あんたも聞いてくれよ。……今朝だってそうだ。……仕事場に行こうとしたら、どこぞの貴族の奥方様が、立派な馬車で乗り付けてきてよぉ。『我が息子が騎士団の入団試験に合格しますように』なんつって、俺の石工の槌に無理やり口づけして帰りやがった。……俺の槌は、石を砕くためのもんだ。……人の運命をどうこうするような、大層なもんじゃねえってのによ」

「ははは。……それは、難儀ですな」

「笑い事じゃねえよ。……まあ、もう天運として諦めてるさ。……半分はな」

 ジャックは、新しいエールをぐいと呷った。

「……まあ、酒が奢られるのも悪くない。……それに、こうしてあんたみてえな物好きな旅人と話をするのも、たまには悪くねえ気分だ。……それに、あれだ。……祝福をくれと、生まれたばかりの赤ん坊を差し出されるのも、まあ悪い気ばかりはしねえ。……その赤ん坊が、俺みてえな偏屈な爺さんにならずに、真っ直ぐ育ってくれりゃあ、それでいいのさ」

 彼は、そう言うと、照れくさそうに笑った。その笑顔には、彼が民衆から聖人と慕われる理由の、ほんの片鱗が確かに輝いていた。

 その笑顔を見て、アルトリウスの心の中の、重く沈んでいた何かが、少しだけ軽くなるような気がした。


「……ジャック殿」

 アルトリウスは、静かに言った。

「……貴殿は、今のこの国をどう思われるかな。……このあまりにも急激な豊かさを」

 その問いに、ジャックは少しだけ考えるように天井を見上げた。

「……どう思うかねえ。……まあ、飯が美味くなったのは確かだな。……南の海の魚が、次の日に食えるなんざ、昔じゃ考えられなかったことだ。……子供たちの顔色も良くなった。……それは、いいことなんだろうよ」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

「……だがな、アーサーさんよ。……人が増えりゃあ、揉め事も増える。……富が集まりゃあ、それを妬む奴も出てくる。……この街も、昔に比べりゃあ、ずいぶんと騒々しくなっちまった。……俺みてえな石工にとっては、仕事が増えてありがたいこったが……この先、どうなっちまうのかねえと。……時々、不安になるのさ」

 そのあまりにも的確で、そしてどこまでも地に足の着いた庶民の視点。

 アルトリウスは、その言葉を、王城のいかなる重臣からの報告書よりも重く、そして真摯に受け止めていた。


「……大変だな、ジャックよ」

 アルトリウスは、心の底から言った。

 その声には、王としての、そしてこの国の全ての責任を負う者としての、深い、深い共感と、そして微かな罪悪感が滲んでいた。

「……この街を広げるのを手伝った手前、申し訳ない気持ちはある」

 そのあまりにも奇妙な、主語のない言葉。

 だが、ジャックは、その言葉の裏にあるこの男の深い苦悩を、なぜか不思議と理解できた。

「……はは。……あんたも、苦労してる口か。……まあ、お互い様だな」

 ジャックは、笑った。

 その時、二人の間には、もはや身分の違いなど存在しなかった。

 ただ、同じ時代に、同じ場所で、それぞれの立場でこの巨大な時代のうねりに翻弄されながらも、懸命に生きる二人の男がいるだけだった。


「……王国は、まだまだ忙しくなるぞ」

 アルトリウスが、まるで未来を予見したかのように、静かに言った。

「……街は、さらに広がる。……そして、それを支えるための石が、もっと、もっと必要になる。……石切りの仕事も、増えていくだろうよ」

 その言葉に、ジャックはにやりと笑った。

「……そうだな。……確かに、忙しいしな。……俺の槌が、火を噴くぜ」

「うむ。……私も、忙しいしな」

 アルトリウスも、笑った。その顔には、もはや憂鬱の色はなかった。そこにあったのは、共に戦うべき同志を見つけた男の、晴れやかな覚悟の表情だった。

「……お互い、頑張ろうではないか」

「ああ」

 ジャックは、力強く頷いた。

 そして、彼は自分のジョッキを高く掲げた。

「じゃあ、今後の俺たちの『活用』に乾杯だ!」

「……うむ、『活用』か。……言い得て妙だな」

 アルトリウスもまた、自らの杯を掲げた。

「……乾杯!」


 カチン、という心地よい音が、酒場の喧騒の中に響き渡った。

 それは、王と聖人と、そしてただの二人の男が、互いの運命とこの国の未来を共に背負うことを誓った、歴史には決して記されることのない、しかし何よりも確かな契約の音だった。

 その夜、王宮へと戻ったアルトリウスの足取りは、来た時とは比較にならないほど軽く、そして力強かった。

 彼の心の中から、憂鬱の霧は完全に晴れていた。

 彼には、もう迷いはなかった。

 この国の未来は、神の気まぐれな奇跡だけによって作られるのではない。

 ジャックのような、名もなき、しかし尊い民の一人一人の、日々の営みの積み重ねの上にこそ、築かれるのだと。

 彼は、その揺るぎない確信を胸に、再び執務の机へと向かう。

 その背中には、真の為政者としての揺るぎない威厳と、そして深い、深い民への愛情が満ち溢れていた。




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パラレル・ゲーマー様、毎日の更新有難う御座います。そういえば、ポーションも低級ランクなら栄養ドリンク代わりに使え、安価で入手しやすく「色んな異世界」に販売できるのではないでしょうか?グランベル王国なら…
更新ありがとうございます。 石工と王様の打ち明け話……『タイムスクープハンター』のように、特殊な交渉術で同席取材している気持ちになりました(ドキドキ) ジャックは『陽気な猪亭(13話~)』に居づらく…
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