第89話
東京、千代田区、永田町。総理大臣官邸の地下深く、プロジェクト・キマイラの心臓部である作戦司令室は、かつてのような張り詰めた緊張感ではなく、むしろ巨大すぎる成功の果実を前にした、一種の穏やかで、しかしどこか現実感を失ったような空気に満たされていた。
巨大な円卓を囲む宰善茂総理大臣、橘紗英理事官、綾小路俊輔官房長官、そして各省庁のトップたちの顔には、深い疲労の色こそ刻まれているものの、その奥には確かな自信と、そして国家の運営者としてこれ以上ないほどの達成感が宿っていた。
彼らの視線の先にある巨大なホログラムスクリーンには、最新の国家財政状況を示すグラフが映し出されていた。
そのグラフは、もはや健全などという生易しい言葉では表現できない、常軌を逸した右肩上がりを描き続けていた。
「………………素晴らしい」
財務大臣が、その痩せた顔に恍惚とした表情を浮かべ、震える声で言った。
「……素晴らしいですぞ、総理。……我が国の財政は、もはや『黒字』などというレベルではございません。……これは、もはや『黄金期』。……いえ、神話の時代の始まりです。……今年度のプライマリーバランスは、GDP比でプラス50%を超える見込み。……もはや、税収などという矮小なものを当てにする必要さえなくなりつつあります」
そのあまりにも現実離れした報告に、司令室は静かな、しかし確かな興奮に包まれた。その黄金の源泉が何であるか、この場にいる誰もが知っていた。
『星の涙』。
あるいは、賢者がもたらした『怪我治癒ポーション』。
その奇跡の液体のごく一部を、厳格な審査の下で選ばれた友好国の王族や、世界の平和と安定に寄与すると判断された超富裕層の慈善家たちに、「人道的見地から」、限定的に、しかし天文学的な価格で「提供」する。そのビジネスが、今や日本の国家予算そのものを支える最大の柱となっていたのだ。
一滴で、数億ドル。そのマージン(利益)は、麻薬的だった。彼らは、その黄金の酩酊に心地よく酔いしれていた。
「……うむ」
宰善総理は、深く頷いた。その顔には、この国の指導者としての満足げな笑みが浮かんでいた。
「……全ては、賢者様のおかげだ。……そして、この奇跡を正しく、そして慎重に管理してきた我々の努力の賜物でもある。……だが」
彼は、そこで一度言葉を切った。そして、その老獪な目で、最も信頼の置ける二人の側近、橘と綾小路を見据えた。
「……我々は、ここで満足していてはならん。……そうだ、このマージンが美味しいからこそ、ここで味を占めて次のステップへ進むべきなんだ」
そのあまりにも不穏な、しかし抗いがたいほどに魅力的な提案。司令室の空気が、再び引き締まった。
総理は、続けた。
「……賢者様は、我々にもう一つの、そしてより強大なる奇跡を託してくださった。……それを、いつまでも研究室の棚の上で眠らせておくのは、それこそ神への冒涜というものではないだろうか」
誰もが、彼が何を言わんとしているのかを理解していた。
『若返りの秘薬』。
一度しか使えない。だが、飲んだ者を、その肉体だけを寸分の狂いもなく、十年前の最も輝いていた頃の姿へと回帰させる、禁断の秘薬。
「…………ですが、総理」
橘が、その氷のような声で静かに口を挟んだ。
「……それは、あまりにも危険すぎます。……『怪我治癒』は、あくまでマイナスをゼロに戻す行為。……ですが、『若返り』は、ゼロからプラスを生み出す行為です。……それは、生命倫理の根幹を揺るがし、世界に新たな、そしてより深刻な格差と混乱を生み出しかねません」
それは、あまりにも正論だった。だが、その正論に、官房長官の綾小路が、その蛇のような目でふっと笑った。
「……はー……。橘君。……君は、相変わらず真面目ですな。……ですが、君のその清廉潔白な正論は、政治という名の濁流の中では、時に無力なのですよ」
彼は、立ち上がった。そして、悪魔の囁きのように、その甘美な毒に満ちた提案を口にした。
「……考えてもみなさい。……この秘薬は、一度しか使えない。……そう、賢者様は仰せられた。……ならば、その害は限定的です。……死者が蘇るわけでも、不老不死の怪物が生まれるわけでもない。……ただ、少しばかり裕福な年寄りが、人生の最後の十年をもう一度だけ若々しく謳歌する。……それだけの話ではありませんか。それに、一度しか使えないからこそ、そこには凄まじい希少価値が生まれる。……それを、我々が独占的に管理し、そして『オークション』という形で世界に提供すれば、どうなるか」
彼の言葉は、その場にいる全ての人間を魅了し始めていた。
「……世界の全ての富が、この日本という国に集まることになるでしょう。……我々は、もはや石油や金融を支配する者たちではない。……我々は、『時間』そのものを支配する、新たな時代の覇者となるのです。……財源は、超黒字どころの話ではなくなりますぞ」
そのあまりにも壮大で、そしてどこまでも魅惑的なビジョン。それは、彼らの最後の理性の砦を、いとも容易く打ち砕いた。
「……オークションか」
宰善総理が、呟いた。
「……月に一本。……いや、まずは試験的に三ヶ月に一本でも良い。……その権利を、世界中の富豪たちに競わせる。……ふむ。……確かに、面白いかもしれんな」
彼の心は、完全に傾いていた。
橘は、その光景を冷たい目で見つめていた。
(……始まってしまった……)
彼女は、内心で呟いた。
(……神の奇跡は、人間を救うと同時に、その最も深い場所にある欲望という名のパンドラの箱を、開けてしまうのだ……)
だが、彼女もまた、この巨大な国家の意思決定の奔流に抗うことはできなかった。
こうして、人類の歴史上最も愚かで、そして最も壮絶なオークションの開催が、この日、この場所で、静かに決定されたのである。
日本政府の発表は、世界を震撼させた。それは、もはやただのニュースではなかった。一つの、全世界の富裕層に向けられた、最終戦争の宣戦布告だった。
『――日本政府、アーティファクト『星の涙』の派生物質『若返りの秘薬』の限定的な提供を決定。……その最初の提供は、全世界を対象とした公開オークション形式にて、三ヶ月後に実施される――』
その一報が流れた瞬間、世界の富は、まるで巨大なブラックホールに吸い寄せられるかのように、一つの目的に向かって動き始めた。
ニューヨークのウォール街。ヘッジファンドの帝王と呼ばれるジョナサン・ロックウッドは、その摩天楼を見下ろす自らのオフィスの玉座で葉巻を燻らせながら、モニターに映る日本の官房長官の、あのいけ好かない顔を眺めていた。
「…………面白い」
彼は、低い声で唸った。
「…………面白いじゃあないか。……あの日本人が、ついに神の商売を始めたか。……そして、その最初の客として、この私を選ばないという選択肢は、彼らには存在しないはずだ」
彼は、内線で秘書を呼びつけた。
「……聞け。……今すぐ、我がファンドが保有する全てのハイテク株を売却しろ。……そうだ、全てだ。……市場がパニックになる? ……知ったことか。……時代の変わり目には、いつだって多少の混乱はつきものだろう? ……そして、その全てを金と、最も安定したスイスフランに換えておけ。……戦争の準備だ。……人生で最も美しく、そして最も金のかかる戦争のな」
ロンドンの歴史ある貴族の館。第十二代ウェセックス公爵、アーチボルド・キャベンディッシュは、暖炉の前で先祖代々受け継がれてきた肖像画を見上げていた。その肖像画に描かれた、若く精悍な曾祖父の姿。
「……十年前か」
彼は、皺の刻まれた自らの手を静かに見つめた。
「……あと十年若ければ。……私は、あのアルプスの未踏峰に、再び挑むことができたであろうに……」
彼は、執事を呼んだ。
「……セバスチャン。……我らがキャベンディッシュ家が所有するフランスのブドウ畑と、スコットランドの古城を全て売りに出せ。……そうだ、あのダ・ヴィンチの素描もだ。……先祖には、少しばかり申し訳ないがな。……だが、彼らも理解してくれるだろう。……失われた時間を取り戻すことほど、価値のある投資はないのだからな」
そして、中東の砂漠に浮かぶ近未来的な摩天楼。サウード王家の若き皇太子、アブドゥルアズィーズは、自らのプライベート動物園で純白の虎と戯れていた。彼の元に、侍従が震える手でタブレットを差し出す。
「……ほう。……日本の猿どもが、面白い見世物を始めたか」
皇太子は、その美しい顔に冷たい笑みを浮かべた。
「……良いだろう。……その見世物、我がサウードの富がどれほど無尽蔵であるかを、世界に見せつけてやる最高の舞台ではないか」
彼は、立ち上がった。
「……国の石油公社の株式を、10%市場に放出せよ。……そうだ、10%だ。……オイルマネーの本当の恐ろしさを、あの欲深い資本主義者どもに、骨の髄まで教えてやれ」
世界が、動いた。株価が、乱高下した。為替市場が、悲鳴を上げた。何百年という歴史を持つ美術品が、二束三文でオークションにかけられた。
全ては、たった一本の小瓶のために。失われた十年という、甘美な幻想のために。
日本政府は、自分たちが解き放った欲望の怪物が、これほどまでに巨大で、そしてこれほどまでに制御不能なものであるという事実を、まだこの時点では全く理解していなかった。彼らは、ただ自らの計画が順調に進んでいることの証として、日々膨れ上がっていく世界の狂騒を、どこか他人事のように、そして満足げに眺めているだけだった。
そして、運命の日。
オークションの会場として選ばれたのは、東京湾に浮かぶ、この日のためだけに一夜にして建造された人工島だった。その島は、もはや要塞だった。周囲の海域は海上自衛隊の最新鋭イージス艦によって完全に封鎖され、上空は航空自衛隊のF35戦闘機が常時旋回し、アリ一匹たりとも侵入を許さない。
その要塞の中心に、日本の伝統的な数寄屋造りの美意識と、プロジェクト・キマイラの最新鋭のセキュリティ技術が融合した、壮麗なオークションハウスが静かに鎮座していた。
参加者は、世界中から厳選されたわずか十組。彼らは、その正体を互いに知られることのないよう、それぞれ別々のルートで島へと招かれ、完全にプライバシーが保護された個別のVIPルームへと通された。彼らは、顔を合わせることはない。ただ、目の前のホログラムスクリーンに表示される天文学的な数字だけが、彼らの存在を証明する唯一の証だった。
オークションハウスのメインホール。その中央に設えられた黒曜石の台座の上に、たった一本の小瓶が、スポットライトを浴びて静かな輝きを放っていた。
『若返りの秘薬』。
そのあまりにも神々しい光景を前にして、別室でその様子をモニター越しに見守っていた宰善総理と日本の閣僚たちは、ごくりと喉を鳴らした。
「…………始まるな」
総理が、呟いた。
オークショニアを務めるのは、この日のために特別に訓練されたAIだった。その完璧にプログラムされた、いかなる感情の揺らぎも感じさせない合成音声が、静まり返ったホールに響き渡った。
『――これより、第一回アーティファクト『若返りの秘薬』オークションを開始いたします。……最低落札価格は、百億ドルより』
そのあまりにも常識からかけ離れた開始価格。だが、その次の瞬間、ホログラムスクリーンに表示された入札額は、その常識をまるで嘲笑うかのように、一気に跳ね上がった。
『――二百億ドル!』
『――三百億ドル!』
『――五百億ドル!』
数字が、もはや現実の金銭の単位とは思えないほどの速度で釣り上がっていく。それは、もはやオークションではなかった。国家の威信と、個人のエゴと、そして人類の根源的な欲望がぶつかり合う、壮絶な殴り合いだった。
モニタリングルームでは、財務官僚たちが、そのあまりの金額の大きさに完全に思考を停止させていた。
「…………ご、五百億……!? ……そ、それだけの金があれば、発展途上国の一つや二つ、丸ごと買えてしまいますぞ……!」
だが、その驚きは、まだ序の口に過ぎなかった。入札額は、あっという間に六百億ドルの大台を突破した。
勝負は、もはや金銭の多寡を競うものではなかった。それは、魂の削り合いだった。
そしてついに、参加者は三組にまで絞られた。ウォール街の帝王、ジョナサン・ロックウッド。英国の誇り高き老貴族、ウェセックス公爵。そして、無限のオイルマネーを誇るサウード王家の皇太子。
『――九百億ドル!』
ロックウッドの代理人が、震える声でコールする。
『――九百五十億ドル!』
ウェセックス公爵が、静かに、しかし即座に応じる。
そして、サウードの皇太子。彼の代理人は、ただ一言、退屈そうに告げた。
『………………千億ドル』
その一言。そのあまりにも現実離れした、天文学的な数字。日本円にして、十兆円。
その瞬間、世界の時間が止まった。モニタリングルームの全ての人間が、呼吸を忘れた。ウォール街の帝王が、その葉巻を床に落とした。英国の老貴族が、その手にしていたアンティークの杖を、音を立ててへし折った。
勝負は、決した。
AIオークショニアのどこまでも平坦な声が、その歴史的な瞬間の終わりを告げた。
『――千億ドルにて落札。……おめでとうございます。……落札者は、参加者ナンバーセブン。……サウード王家、アブドゥルアズィーズ皇太子殿下です』
オークションは、終わった。
だが、本当の混沌は、これからだった。
世界の富という名の血液が、このオークションのために、無理やりその循環を歪められていた。超富裕層たちは、入札資金を捻出するために、自らが保有する株式、債権、不動産、そして美術品といった、ありとあらゆる資産を市場で一斉に売却した。
その衝撃は、世界経済という名の巨大な精密機械の、最も重要な歯車を完全に破壊した。
オークションが終了した直後、ニューヨーク株式市場が開くと同時に、ダウ平均株価は歴史的な大暴落を記録した。ロンドンも、フランクフルトも、そして東京も、その漆黒の波に飲み込まれた。
世界は、一夜にして百年ぶりの世界大恐慌へと突入したのだ。
だが、世界はそのままでは終わらなかった。
崩壊の淵から世界を救い上げたのは、皮肉にも、その崩壊の引き金を引いた欲望そのものだった。
数週間後、大暴落した市場の底で、奇妙な動きが観測され始めた。
特定の優良企業の株式が、何者かによって猛烈な勢いで買い支えられ始めたのだ。
市場は最初、その買いの主が誰なのか分からず、混乱した。
だが、やがてその正体が明らかになるにつれ、世界は再び戦慄した。
買いの主は、あのオークションの敗者たちだった。
ウォール街の帝王、ジョナサン・ロックウッド。英国のウェセックス公爵。そして、その他オークションに参加した全ての超富裕層たち。
彼らは、気づいてしまったのだ。
次のオークションが、また三ヶ月後にやってくるという事実に。
そして、その次のオークションに勝つためには、今回以上の、さらに莫大な資金が必要になるという事実に。
彼らにとって、もはや資産を現金化して退蔵しておくことなど、愚の骨頂だった。
彼らは、自らの全ての富を再び市場へと、それも最もリターンの見込める優良株へと、猛烈な勢いで再投資し始めたのだ。
彼らの頭の中は、もはや会社の経営や経済の安定などではなかった。
ただ一つ。『次のオークションに勝つ』。その一点にのみ、彼らの全ての欲望は収斂していた。
この現象を、後に経済史家たちはこう名付けた。『リジュビネーション・バブル(若返りの泡)』と。
これまで、世界の富にはある種の限界があった。超富裕層たちが、その有り余る富を注ぎ込む先は、せいぜい新たな事業への投資か、あるいは慈善活動への寄付くらいしかなかった。
だが今、新たな、そして究極の『富の注ぎ口』が生まれたのだ。
『若返り』。
それは、いくら金を積んでも惜しくない、無限の価値を持つ目標。
その結果、世界から慈善活動への寄付は劇的に落ち込んだ。かつては難病の子供たちや貧しい国々へと向けられていたはずの富が、今や全て、ただ個人の若さを取り戻すためだけの壮絶なマネーゲームへと吸い上げられていった。
そして、その巨大な投資マネーの流入によって、皮肉にも、一度は大暴落した世界の株価は、驚異的なV字回復を遂げた。
いや、回復どころではない。
世界経済は、以前とは比較にならないほどの熱狂的な好景気の時代へと突入した。
富は、一部の人間たちの間で狂ったように膨れ上がり、そして循環し始めた。
世界は、持ち直した。
いや、むしろ富は増大した。
だが、その光の下で、より深い、そしてより残酷な影が生まれつつあったことを、まだ多くの人々は気づいていなかった。
そして、もちろん。
その経済のジェットコースターの中で、最も狡猾に、そして最も大きな利益を上げた者がいた。
日本政府である。
彼らは、世界経済が大暴落した、まさにその瞬間に。
オークションで得た天文学的な利益のほんの一部を使い、底値となった世界中の優良企業の株式を、まるでハイエナのように買い漁っていたのだ。
その後のV字回復によって、彼らが手にした利益は、もはや計算することさえ馬鹿らしくなるほどの額に達していた。
彼らは、オークションの主催者として、そして市場のプレイヤーとして、二重に、そして完璧に上手だったのである。




