第87話
享保五年卯月。春の柔らかな陽光が、江戸八百八町の甍の波を黄金色に染め上げていた。前夜に降った春雨の名残か、土の匂いが混じった湿り気のある空気が、心地よく肌を撫でる。日本橋を渡る人の波は絶えることなく、威勢のいい魚売りの声、天秤棒を担ぐ棒手振りの掛け声、そして行き交う人々の他愛ない笑い声が渾然一体となり、この巨大な都市の力強い生命の鼓動を奏でていた。
その雑踏の中を、一人の悠然とした男が歩いていた。年は三十代半ば。着古してはいるが上質な木綿の着流しを粋に着こなし、腰には一本の刀を差している。その顔立ちは精悍で、日に焼けてはいるが、育ちの良さを隠せない気品が漂っていた。だが、彼の真の身分を知る者は、この江戸の町には一人としていない。貧乏旗本の三男坊、徳田新之助。それこそが、この男が市井で名乗る仮初の名であった。そして彼の本当の名は、徳川吉宗。この日ノ本、八百万の民の暮らしをその双肩に担う、徳川幕府第八代将軍その人であった。
吉宗は、人波を巧みにかわしながら、満足げに周囲の光景を見渡していた。城の奥深く、息の詰まるような儀礼と政務に明け暮れる日々の中では、決して感じることのできない生きた江戸の空気。これこそが、彼が最も愛し、そして守るべきものだと、お忍びで市井に出るたびに、彼はその思いを新たにしていた。
「……うむ。良い日和ですね」
吉宗が、誰に言うでもなく呟くと、彼の足元を影のように寄り添い歩いていた一匹の生き物が、静かに、しかしはっきりと人間の言葉で応じた。
「うむ。やはり人間は、こうして外の日を浴びると体調が良くなるもの。太陽は、元気の源なんじゃよ」
その声の主は、一匹の黒猫だった。夜の闇そのものを吸い込んだかのように艶やかな毛並み、そして人の心の奥底までも見透かすかのような神秘的な翠色の瞳。その姿は、どこからどう見てもただの猫であったが、その内に宿る魂は、この世界のいかなる理からも超越した存在だった。
賢者・猫。
創と名乗る異世界の神が、この時代、この場所で活動するために纏った仮初めの器。
数ヶ月前、江戸城の庭先に突如として現れ、吉宗の前にて堂々と人語を話したこの不可思議な存在を、吉宗は当初、幕府を惑わす妖の類かと警戒した。だが、そのあまりにも深遠な知恵と、時折見せる神の如き御業、そして何よりもその飄々とした態度に触れるうちに、吉宗は、この奇妙な猫を、唯一無二の相談相手として、そして得難い友として受け入れるようになっていた。
こうして、将軍と神の化身による、歴史上最も奇妙で、そして最も贅沢なお忍び散歩が始まったのである。
「ほほう! それは良いことを聞いた」
吉宗は、賢者の言葉に心からの感嘆の声を上げた。
「ぜひ、健康法として広めたいものですね。城に籠もりきりで顔色も悪く、体調が悪いと騒ぐ輩は、武家にも公家にも多いですしな」
彼の脳裏には、日の光を浴びることなく、ただ書物と政争に明け暮れる老中たちの青白い顔が浮かんでいた。彼らが真に民を思うのであれば、まず自らが心身ともに健康でなくてはならない。
「それより、賢者殿」
吉宗は、ふと素朴な疑問を口にした。
「こうして貴方と話をしていて、周りの民衆は、私をおかしな奴だとは思わないのですかな? 猫に向かって一人で喋っている、ただの変わり者だと」
「うむ、その辺りは大丈夫じゃ」
賢者は、こともなげに答えた。
「『知覚フィルター』という、まあ便利な術がワシの周りには常に張られておってな。お主がワシと話している姿は、周りの者たちには、ただ思案に耽りながら独り言を呟いているようにしか見えんのじゃよ」
「なるほど、便利な物もあるんですね」
吉宗は、改めて感心した。この賢者の持つ力は、常に彼の想像の遥か上を行く。だが、その力は決して民を脅かすためではなく、むしろこのように些細な配慮のために使われる。その在り方に、吉宗は深い信頼を寄せていた。
二人が日本橋の袂を過ぎ、神田の職人街へと続く路地へと差し掛かった時だった。
前方から、怒号と、そして女性の悲痛な泣き声が聞こえてきた。
吉宗の、徳田新之助としての顔つきが、すっと険しいものへと変わる。
「……む。何やら騒がしいですな」
「面倒事の匂いがするのう」
賢者は、やれやれといった風に尻尾を振った。
声のする方へと近づいていくと、そこには一軒の小さな飯屋があった。その店先で、数人の男たちが一人の若い娘を取り囲んでいた。男たちの服装は一見ただの町人のようだが、その目つきと態度は明らかにカタギのものではない。そして、その中心にいる男は、立派な脇差を差し、見るからに裕福そうな身なりをしていた。
「おい、娘! いつまで待たせる気だ! 今月分の返済は、どうした!」
裕福そうな男が、下卑た笑みを浮かべて娘に迫る。
「申し訳ございません、旦那様……! 今年の米の不作で、店の売り上げが思うように上がらず……。どうか、どうか、あとひと月だけお待ちいただくことはできませんでしょうか……!」
娘は、涙ながらに地面に手をついて懇願した。その傍らでは、病で床に伏せっているであろう父親の、苦しげな咳の音が店の中から聞こえてくる。
「ひと月だぁ? 馬鹿を言え! てめえらの都合なんざ、知ったことか! これはお上の認めた、正当な貸借だ! 返せねえなら、この店を渡してもらう! それとも、お前自身が身を売って返すか? あっはっは!」
男の言葉に、周りの手下たちが下品な笑い声を上げる。
「……ひどい……」
娘の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その光景を見ていた吉宗の全身から、静かな、しかし絶対的な怒りのオーラが立ち上り始めた。
「……やれやれ。……いつの世も、どこにでもおるものよな。人の弱みにつけこむ輩というものは」
賢者が、呆れたように呟いた。
吉宗は、何も言わなかった。
彼は、ただゆっくりとした、しかし揺るぎない足取りでその輪の中へと歩み寄っていった。
「――これはこれは、旦那様方。何やらお困りのご様子。よろしければ、この徳田新之助、お話をお伺いいたしましょうか」
そのあまりにも穏やかで、しかしどこか有無を言わさぬ響きを持つ声に、男たちの視線が一斉に吉宗へと集中した。
高利貸しの男は、吉宗の貧乏旗本の三男坊という(偽りの)身なりを一瞥すると、侮蔑の笑みを浮かべた。
「ああん? なんだ、てめえは。どこぞの浪人か? 見てわからんか、取り込み中だ。首を突っ込むと、痛い目を見るぜ。さっさと失せろ」
「まあ、そう邪険になさらず」
吉宗は、にこやかな笑みを崩さない。
「お話を伺うに、どうやらこのお店の返済の件で揉めておられるご様子。いかほどの借金か存じませぬが、ひと月待てぬというからには、よほどお困りなのでしょう。ですが、この娘御も、嘘をついているようには見えませぬ。ここは一つ、私の顔に免じて、穏便に済ませてはいただけませぬかな」
そのあまりにも堂々とした物言い。
高利貸しの男の顔から、笑みが消えた。
「……てめえ、何様のつもりだ。……お前の顔だと? ……どこの馬の骨とも知れん浪人の顔なんざ、一文の値打ちもねえわ!」
「ほう。私の顔には、一文の価値もないと」
吉宗の目から、すっと光が消えた。
「……それは、面白いことをお聞きした。……ならば、お教えいただこうか。……そのあなたが振りかざす『お上』とやらと、この私の顔と、どちらがより重いものなのかを」
その言葉の裏にある、尋常ではない威圧感。
高利貸しの男は、一瞬だけ怯んだ。
だが、彼はすぐに気を取り直した。所詮は、ただの口先だけの浪人。そう、高を括ったのだ。
「……ほざきやがれ! ……おい、てめえら! この生意気な浪人様に、世の中の仕組みってもんを体で教えてやれ!」
男の号令一下、周りの手下たちが、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら吉宗を取り囲んだ。
「……やれやれ。……話の通じぬ輩は、これだから好かぬ」
吉宗は、深く溜め息をついた。
そして、彼はゆっくりと腰の刀の柄に手をかけた。
だが、彼が刀を抜くよりも早く。
一つの小さな、しかし俊敏な黒い影が、地を駆けた。
賢者・猫だった。
彼は、吉宗の足元から飛び出すと、まるで風のように手下たちの一人の足元をすり抜けた。
次の瞬間。
「うおっ!?」
その手下は、何もないはずの場所で足をもつれさせ、派手な音を立てて前のめりに転倒した。その拍子に、隣にいた仲間を巻き込み、二人は将棋倒しのように地面に転がった。
「な、なんだ!?」
残りの手下たちが、その不可解な光景に戸惑う。
その一瞬の隙を、吉宗は見逃さなかった。
彼の体が、消えたかのように動いた。
一瞬にして残りの手下たちの背後に回り込むと、その鳩尾に、鞘に収めたままの刀の柄を、的確に、しかし手加減して叩き込む。
「ぐえっ!」
手下たちは、短い悲鳴を上げて白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
ものの、数秒。
屈強な男たちが、赤子の手をひねるように無力化されていた。
「…………ひっ……!?」
高利貸しの男が、そのあまりの光景に腰を抜かした。
「……お、のれ……! ただの浪人ではないな……! い、一体何者だ……!?」
「……さて」
吉宗は、ゆっくりと高利貸しの男に向き直った。
その顔には、もはや徳田新之助の穏やかな笑みはなかった。
そこにあるのは、この国の全ての民の父として、悪を断固として許さぬ将軍としての、絶対的な威厳に満ちた貌だった。
「……先ほどの問いの答えを、まだ聞いておらぬな。……お主、名を名乗れ。……そして、そのお主が笠に着る『お上』とやらが、一体誰なのかを、この場ではっきりと申し述べてみよ」
その声は静かだったが、逆らうことを決して許さない、絶対的な響きを持っていた。
「………………」
高利貸しの男は、わなわなと震えていた。
彼の脳が、目の前の男のその尋常ではない佇まいと、どこかで見たことのあるような気がするその高貴な顔立ちを、必死で結びつけようとしていた。
そして、ついに、一つのありえない、しかし唯一の結論にたどり着いた。
彼の顔から、血の気が引いていく。
唇が、青ざめていく。
そして、彼はまるで壊れた人形のようにその場にがくりとひざまずき、土下座の姿勢で、額を地面に何度も何度もこすりつけ始めた。
「…………も、もも、申し訳……! も、申し訳ございませぬ……! こ、この五兵衛……! まさか、かかような場所で、う、上様にお目にかかり……! し、知らぬこととはいえ、あまりにも、あまりにも無礼な口を……! どうか、どうかこの首を刎ねてお許しを……!」
そのあまりにも見事な、そして滑稽なまでの変わり身の早さ。
「…………ほう。……やはり、私の顔には一文以上の価値があったようだな」
吉宗は、冷たく言った。
「…………さて、五兵衛とやら。……お主のその悪行、この場で見過ごすわけにはいかぬ。……だが、お主の首一つで済むと思うなよ。……お主がこれまで民から搾り取ってきた全ての財を利子をつけて返済させた上で、お主とその悪党仲間、そしてお主らに便宜を図っていた役人ども、その全てを法の下に厳しく裁くこととする。……よいな?」
「は、ははははははっ! あ、ありがたき幸せに……!」
五兵衛は、もはや恐怖で正気を失いかけていた。
吉宗は、その哀れな姿を一瞥すると、傍らで震えている娘に向き直った。
その顔は、再び徳田新之助の穏やかなものへと戻っていた。
「……娘御。……もう、大丈夫だ。……この男が二度とそなたやこの店の者に手出しはできぬよう、この私が約束しよう。……達者でな」
彼は、そう言うと、くるりと背を向けた。
そして、まだ地面にひれ伏している哀れな悪党たちには目もくれず、まるで何事もなかったかのように、その場を悠然と立ち去っていった。
賢者・猫が、その後ろを、やれやれといった風に尻尾を振りながらついていく。
後に残されたのは、助けられた娘の、ただただ呆然とした感謝の眼差しと、そしてこの街に突如として現れ、そして嵐のように去っていった、謎の義賊の伝説の始まりだけだった。
◇
「……おっと、そこの飯屋にでも入りますか」
先ほどの騒動から少し離れた、静かな路地裏。
吉宗は、一軒の古びた、しかし清潔そうな暖簾を掲げた小さな飯屋を見つけ、そう声をかけた。
彼の顔には、もはや将軍としての厳しさはなく、ただ腹を空かせた一人の男の、穏やかな表情が戻っていた。
「そうじゃな。……ワシは、また見えぬようにしておこうかのう」
賢者は、そう言うと、その黒い体をふっと揺らがせた。彼の姿が、まるで陽炎のように希薄になり、知覚フィルターのレベルが最大まで引き上げられる。
二人は、その飯屋の暖簾をくぐった。
店内は、昼時を過ぎていたせいか、客はまばらだった。
使い込まれて黒光りする木のカウンター。壁には、その日のお品書きが墨で書かれた木の札が掛けられている。
「……いらっしゃい」
カウンターの向こう側で、白髪の頑固そうな親父が、黙々と魚を捌きながら、ぶっきらぼうに声をかけた。
吉宗は、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。
「……親父。……焼き魚の定食と、熱燗を一本頼む」
「あいよ」
短い、やり取り。
だが、その中には、長年この場所で変わらぬ味を守り続けてきた職人と、その味を求めて訪れた客との間の、無言の信頼関係が確かに存在していた。
やがて、湯気の立つご飯と、豆腐とわかめの味噌汁、そして香ばしい匂いを放つ鯵の塩焼きが、彼の前に置かれた。
いただきます、と小さく呟き、彼は箸を取った。
その何の変哲もない、しかし心の底から温まるような食事を味わいながら。
吉宗は、先ほどの出来事を振り返っていた。
「…………民がこうして暮らしているのを見ると、やはり違いますな」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
その声には、深い、深い実感がこもっていた。
「……城の中で、報告書の数字だけを眺めているのとでは、全く違う。……彼らのこのささやかな、しかし懸命な日々の営み。……その上にこそ、我々の幕府も、そしてこの日ノ本という国そのものも、成り立っておるのだな」
彼の隣の、見えない席に座っているはずの賢者が、静かに応じた。
「……うむ。……周りの者たちは、民草と言って軽んじているようじゃがな」
「ええ。……ですが、私はそんな者たちにこそ問いたい。……そのお前たちが毎日食らう米を作るのは、一体誰なのか? と」
吉宗の声には、静かな怒りが滲んでいた。
「……そうじゃのう」
賢者は、同意した。
「……王は、民がいてこその王。……この世に、何も関係がない物など、神ぐらいしかおらんのじゃよ」
「……神ぐらいですか」
吉宗は、熱燗の杯を口に運びながら、その言葉を反芻した。
「……神は、民に信仰されてこそ神であると、私は思いますが?」
それは、彼が為政者として、そしてこの国の頂点に立つ者として、当然抱くべき疑問だった。
だが、賢者の答えは、彼のその常識を、静かに、しかし根底から揺さぶるものだった。
「……そうじゃのう。……しかしな、吉宗よ。……それは、こういう問いと同じではないかな? ……『力があるから信仰されているのか?』、それとも、『信仰されているから力があるのか?』……と」
「…………!」
「……そもそもだ。……神に、信仰などというものが必要なのか? ……それは、ただの矮小なる人間の、独りよがりな行為ではないのか? ……ワシも、別の世界では『神』などと呼ばれておるが、正直、そこは分からんよ。……なぜなら、民に信仰されようがされまいが、ワシの持つこの力が変わることはないからのう」
そのあまりにも絶対的で、そしてどこまでも孤独な神の視点。
その言葉は、吉宗の魂に深く、深く突き刺さった。
彼は、杯を置いた。
そして、しばし目を閉じて、その言葉の意味を噛み締めていた。
そうだ。
そういうことなのか。
神とは、我々人間の都合など全く意に介さない存在。
ならば、民が、その不確かで気まぐれな神の恩寵に、ただすがり、祈るだけの存在であってはならない。
それは、あまりにも弱く、そしてあまりにも脆い。
「…………なるほど。……お深い話をありがとうございます、賢者殿」
吉宗は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはやいかなる迷いもなかった。
そこにあるのは、この国の未来を見据える為政者としての、揺るぎない、そして新たな覚悟の光だった。
「……やはり、民には米や、現実に即した物が必要です。……不確かな信仰にすがらずとも、自らの力で立ち、自らの手で幸福を掴み取ることができる。……そのような、強く、そして誇り高き民を育むことこそが、為政者たる私の真の務めですな」
そのあまりにも力強く、そしてどこまでも民を思う決意の言葉。
彼の隣で、見えないはずの賢者・猫が、満足げに喉をグルグルと鳴らす音が、確かに聞こえたような気がした。




