第88話
神は、退屈していた。
新田 創は、自らが創り上げた究極の理想郷の、完璧に設計された静寂の中で、その魂が緩やかに摩耗していくのを感じていた。全ての目標は達成され、全てのビジネスは自動化された。彼は、無限の時間と無限の力を手にしたが、それは同時に、無限の退屈の始まりでもあった。
その尽きることのない倦怠を紛わすため、彼は究極の愛機『テッセラクト・ボイジャー』を駆り、ただ当てもなく、まだ見ぬ世界線を観測するだけの気まぐれな旅に出た。それは、征服でも、救済でもない、ただの暇つぶし。神の散歩だった。
『――警告。マスター。時空連続体に、規定外のエンディンガー・エントロピーの増大を検知。座標、オミクロン714宙域。……一つの世界が、静かに『死に』始めています』
船の管理AI、734のどこまでも平坦な声が、ブリッジの静寂を破った。
創の虚ろだった目に、久しぶりに興味の光が宿った。戦争でも、疫病でも、天変地異でもない。世界の法則そのものが崩壊し、存在確率が希薄になっていく「静かなる死」。
(……面白い)
彼は、コマンド・チェアに深く身を沈めたまま、ただ一言、思考した。
「――転移」
彼が次に目を開けた時、ブリッジの巨大なビュー・スクリーンに映し出されていたのは、息をのむほどに美しく、そしてどこまでも物悲しい黄昏の世界だった。
そこは、かつて高度な魔法文明が栄えたであろう、美しい遺跡の星。クリスタルの尖塔が力なく傾き、空に浮かぶはずだった浮遊島は、その推進原理を失い、ゆっくりと、しかし確実に地上へと落下を続けていた。
風景は色褪せ、まるで古い絵画のように彩度が失われている。空間のところどころで重力の法則が不安定に揺らぎ、木々が真横に伸び、川の水が空へと逆流していく。
創は、船のセンサーを最大解像度に引き上げ、この星の最後の都市の様子を映し出した。
都市の中央、最も高くそびえる水晶の塔の玉座の間。そこに、一人の女性が静かに座していた。
長く白銀の髪。尖った耳。彼女は、この星の最後の女王、エルフの女王エリアーデだった。
彼女は、崩れ落ちていく自らの世界を前にして、涙を流すこともなく、ただ静かにその運命を受け入れていた。その顔に浮かぶのは、絶望を通り越した、深い、深い諦観の色。
創は、観測を続けた。
この世界の住人たちは、滅びゆく運命に抗うことを、とうの昔にやめてしまっていた。彼らは、ただかつての栄光を物語る美しい詩を歌い、静かにその最期の時を待っていた。
(……なんと、不愉快な)
創の口元が、微かに歪んだ。
(……バグだらけのまま放置され、クラッシュ寸前のクソシステムじゃないか。……見ていて気分が悪い。……修正もせずにサービス終了を迎えるなど、元プロジェクトマネージャーとして、この俺の美学が許さん)
彼の動機は、慈悲ではなかった。
ただ、あまりにも不完全に終わろうとしている一つの「プロジェクト」に対する、技術者としての生理的な嫌悪感。
それだけだった。
彼は、船の転送装置を起動させた。
次の瞬間、女王エリアーデが一人静かに座す玉座の間の、その目の前の空間が、まるで水面のように揺らいだ。
そして、その光の中から、一人の男が、音もなく、光もなく、まるで最初からずっとそこにいたかのように姿を現した。
創は、賢者・猫のアバターではなく、彼自身の、新田創としての姿を選んだ。
だが、その身にまとう雰囲気は、もはやただのぐうたらな男のそれではない。
無数の世界を渡り、神とさえ呼ばれるようになった存在だけが放つ、絶対的な、そしてどこか冷たい威厳。
「…………なっ……!?」
女王エリアーデが、その常に静かだった顔に初めて驚愕の色を浮かべ、玉座から立ち上がった。
「……何者です、貴方は……!? どこから……!」
創は、その問いには答えなかった。
彼は、ただこの崩壊しかけた美しい世界を、どこか値踏みするかのように見渡した。
そして、彼は言った。
その声は静かだったが、この世界の理を超えた、絶対者の響きを持っていた。
「………………壊れているな。……この世界は」
創のあまりにも不遜な、しかし否定のしようのない真実を告げる言葉。
女王エリアーデは、わなわなと唇を震わせた。
「……貴方は……一体……? ……神が我々を見捨てたこの最後の時に遣わされた、死神ですの……?」
「神でも、死神でもない」
創は、静かに首を横に振った。
「……強いて言うなら、通りすがりの『庭師』だ。……少しばかり荒れ果てた庭が、目に余ったのでな」
彼は、懐から一つの古びた羊皮紙の巻物を取り出した。
『無限鑑定スクロール』。
彼は、その神の道具を、この世界そのものへと向けた。
そして、彼はこの世界の住人には聞こえない、魂だけの声で唱えた。
その声は、この崩壊しかけた因果律の鎖を断ち切る、絶対的なコマンドだった。
「………………鑑定」
次の瞬間、世界が悲鳴を上げた。
女王エリアーデの目の前で、創の手にした巻物が、まるで小さな太陽が生まれたかのように、まばゆい白金の光を放った。
その光は、水晶の塔を透過し、この星の大地を、大気を、そして時間の流れそのものを貫き、この世界の全ての情報をスキャンしていく。
玉座の間の壁面に、無数の、そして理解不能な光の数式が、まるで稲妻のように走り、そして消えていった。
そして、創の脳内に、この世界のあまりにも巨大で、そしてあまりにも物悲しい「診断書」が表示された。
鑑定結果
【名前】: 世界座標Ω714 (通称:アルカディア)
【レアリティ】: ロスト
【種別】: 崩壊進行中の時空連続体 / 失敗した神々の実験場
【効果テキスト】:
[権能:自己修復性因果律]
この世界は本来、物理法則の歪みや矛盾を自己修復するための、高度なフィードバック・システムを備えていた。
[状態異常:致命的バグ]
原因:創造主による世界核への、不完全な『祝福』のインストール。
症状:世界の根幹をなす物理定数の一つ、『生命力減衰率』のパラメータが無限小に設定された結果、この世界の全ての生命体は『死』という概念を喪失した。
結果:魂の循環システムが完全に停止。無限に増え続ける魂の総量が、世界の許容量を完全に超過。その過負荷により、世界の法則を記述する『ソースコード』そのものが、回復不可能なレベルで破損、断片化を開始。現在の崩壊進行率は97.4%。完全な事象消滅まで、残り標準時間で三サイクル。
【フレバーテキスト】:
『彼らは、死なないことを願った。
その願いは、聞き届けられた。
そして彼らは、永遠を手に入れた。
だが、彼らは知らなかった。
終わりなき物語が、いかに退屈で、いかに残酷なものであるかを。
死なないということは、新しく生まれることもできないということ。
変化なき世界は、ただ静かにその色を失い、意味を失い、そして存在そのものが風化していく。
彼らが本当に願うべきだったのは、不死ではない。
限りある命の中で愛し、笑い、そして泣き、次の世代へとその想いを繋いでいく、
ありふれた、しかし何物にも代えがたい『生』の輝きだったのだ』
「………………………………………………」
鑑定結果の最後の一文が表示された後。
創は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼の顔に浮かんでいたのは、憐憫でも、同情でもない。
ただ、あまりにも愚かな設計ミスをしでかしたこの世界の「神」に対する、深い、深い失望の色だった。
(……なんだ、この初歩的なミスは……。……魂のガベージコレクションを実装せずに、無限ループを回したのか。……素人かよ、ここの神は……)
彼は、元プロジェクトマネージャーとして、心の底から呆れていた。
「……賢者様……?」
エリアーデが、おそるおそる声をかけた。
創は、はっと我に返った。
そして、彼はこの世界の最後の女王に向き直った。
その目には、もはやただの観測者の好奇心はなかった。
そこにあるのは、自らの美学に反する欠陥品を前にした、絶対的な創造主の、冷たい、冷たい決意の光だった。
「………………分かった」
彼は、静かに言った。
「…………この世界のバグは、俺が修正してやる」
その一言は、もはや女王エリアーデの理解を遥かに超えていた。
だが、彼女は本能的に理解した。
目の前のこの存在が、今から自分たちの世界の運命そのものを、その掌の上で作り変えようとしているのだと。
創は、懐から小さな革袋を取り出した。
そして、その中からたった一粒の白い砂を、指先でつまみ上げた。
『停滞の砂粒』。
「…………まず」
彼は、呟いた。
「…………この世界の時間を、止める」
彼がその砂粒を指先で弾いた、その瞬間。
世界から、音が消えた。
女王エリアーデの驚愕に見開かれた瞳も、窓の外でゆっくりと崩れ落ちていた浮遊島の動きも、そして空気中を舞う微細な塵の一粒一粒までもが。
その全ての運動が、完璧に、絶対的に停止した。
時間は、止められた。
この星系全体が、永遠の静寂の中に封印されたのだ。
「…………次に、修正作業だ」
創の意識は、既に彼の肉体を離れ、この星の、そしてこの時空連続体の法則そのものを記述する、高次元のソースコードの海へとダイブしていた。
彼の目の前には、無数の光の糸が絡み合った、巨大なタペストリーが広がっていた。
世界の法則。因果律の鎖。
そのタペストリーの、まさに中心部。
一つの黒く、そして禍々しい染みのように、致命的なバグが世界の理を蝕んでいた。
創は、もはや人間ではなかった。
彼は、純粋な意志。
純粋な、創造と修正の概念そのものだった。
彼は、そのバグに自らの魂の指先を伸ばした。
そして、SF世界アークチュリアで学んだ高次元エネルギー物理学と、魔法学院で培った直感的な因果律操作能力、その全てを融合させ、破損したコードを一つ、また一つと修復し、書き換えていく。
それは、もはや人間の技ではなかった。
それは、神が自らの創造物の欠陥を修正する、静かで、しかし壮大な外科手術だった。
そして、数時間とも、数千年とも感じられる時間の概念を超越した作業の後。
ソースコードの修復は、完了した。
黒い染みは完全に消え去り、タペストリーは再び完璧な輝きを取り戻していた。
だが、創の仕事はまだ終わらない。
「…………最後に、再構築だ」
彼は、この世界の全ての情報をバックアップしていた『テッセラクト・ボイジャー』に思考を送った。
そして、彼が持つもう一つの神の道具、『夢幻の工房』の権能を、最大レベルで解放した。
無から有を生み出す力。
彼は、この修復されたソースコードを元に、この世界を一度完全に分解し、そしてより完璧な形で再創造することを決意したのだ。
静止した世界が、光の粒子となって、ゆっくりと、しかし確実に崩壊を始める。
女王エリアーデの肉体も、水晶の玉座も、崩れ落ちる塔も、全てが等しく純粋な情報へと還元されていく。
そして、その情報の奔流の中心で。
創は、新たな世界の設計図を、その神の如き意志の力で描き始めた。
山々はより雄大に、川はより清らかに。
そして何よりも。
彼は、この世界の生命の設計図に、一つの最も重要で、そして最も優しい「概念」を新たに書き加えた。
それは、『死』と、そしてそれに伴う『再生』と『魂の循環』という、かつてこの世界が失ってしまった最も美しい法則だった。
やがて、創造の光が収まった時。
創は、再び玉座の間に立っていた。
そして、彼は指を一つ鳴らした。
パチン、という乾いた音が静寂を破る。
その瞬間、止められていた世界の時間が、再び流れ始めた。
女王エリアーデは、はっと息を吸い込んだ。
彼女は、自分が何をされていたのか、全く理解できなかった。
だが、彼女には分かった。
世界が、変わったのだと。
窓の外に広がる空はどこまでも青く澄み渡り、崩れかけていた浮遊島は、再びその輝きを取り戻し、空に雄大に浮かんでいる。
そして何よりも、彼女自身の体の中に、これまで感じたことのなかった、新しい、そして力強い生命の息吹が、確かに脈打っているのを感じていた。
彼女は、目の前の静かに佇む男を見つめた。
その目には、もはや驚愕はなかった。
そこにあるのは、絶対的な創造主を前にした被造物の、根源的な畏敬と、そして感謝の念だけだった。
彼女は、その場に深々と、そして美しくひざまずいた。
その動きに合わせるかのように、この星の全ての生きとし生けるものがその場でひれ伏し、新たな世界の誕生を祝福し、そしてその創造主の名を、魂の奥底で叫んでいた。
「…………おお……! ああ……! 我らが救世主……! 我らが創造神よ……!」
創は、そのあまりにも劇的な、そしてどこまでも敬虔な崇拝の光景を、少しだけ気まずそうに、そしてどこか面倒くさそうに眺めていた。
(……うーん。……まあ、上手くいったみたいで良かったけど……。……これは、ちょっと大袈裟だな……)
彼は、ポリポリと頬を掻いた。
そして、ひざまずく女王エリアーデに向かって、静かに、しかしきっぱりと告げた。
その声は、神の威厳と、そしてただのぐうたらな男の本音が、絶妙にブレンドされていた。
「…………うむ」
彼は、言った。
「…………では、塩と香辛料と砂糖をくれ!」
「………………………………………………は?」
女王エリアーデのその完璧な美貌に、初めて、純粋な、そしてどこまでも間の抜けた疑問符が浮かび上がった。
彼女は、自分の耳を疑った。
この世界を再創造した神が。
自らが捧げようとしていた永遠の忠誠でも、この世界の全ての富でもなく。
ただ、塩と香辛料と砂糖をよこせと、そう仰せられたのか?
そのあまりにも矮小で、そしてあまりにも理解不能な神の要求。
だが、彼女は神の言葉に逆らうことなどできはしない。
「…………は、ははっ! も、もちろんでございます! こ、この世界に存在する全ての塩と香辛料と砂糖を! ……いいえ、それらを作るための全ての畑と、全ての民を! ……貴方様に、捧げまする!」
彼女は、必死でそう答えることしかできなかった。
「……いや、そこまではいらないんだがなあ……」
創は、誰に聞かれることもなくそう呟いた。
彼の壮大すぎるスローライフ計画は、またしても彼の意思とは全く無関係に、一つの世界の救世主となり、そしてその文明そのものを自らの巨大な交易ネットワークの新たな供給基地として組み込むという、壮大で、そしてどこまでも滑稽な結末を迎えた。
彼は、女王が慌てて用意させた最高級の塩と香辛料のサンプルを次元ポケットにしまい込むと、呆然とする彼女たちを後に、自分が来た時と同じように、何の余韻も残さず、すっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、完璧に再創造された美しい世界と、そして自分たちの神がどうやらとんでもない甘党で、そして相当な食いしん坊らしいという、新たな、そしてどこまでも人間臭い神話の始まりだけだった。




